第七章 剣師

第20話 戻れない

 アイリスの花が咲きみだれる、穏やかな野原。

 その小屋の近くに座っていたハーシェルは、丘の下に黒髪の頭を見つけると、あっ、と声を上げて立ち上がった。

「やっと来た! もうウィル、遅いよ」

 ごめんごめん、と苦笑いしながらウィルが歩いて野原を登ってくる。その先には、道案内をするように蝶々がひらひらと舞っていた。

「それで、今日はなにして遊ぶ?」

 丘の上に到着したウィルの問いかけに、ハーシェルは元気に答えた。

「鬼ごっこ!」

 えー、とウィルは嫌そうな表情をした。

「鬼ごっこなら、昨日一日中やったじゃないか。他のにしようよ」

「別に今日もやってもいいじゃん」

「でも、ぼくはもう飽きたよ」

 ウィルは顔をしかめた。

 ハーシェルは、うーん、と考えた。

「じゃあ、かくれんぼは?」

「いいよ」

「やった! じゃあウィルが先に鬼ね!」

 そう言うなり、ハーシェルは駆け出した。後ろでウィルが「いーち、にーい、……」と数を数え始める。

 どうしようかなぁ……。小屋の後ろは、前に使ったからだめだ。すぐに見つかる。あと隠れられる場所と言えば――

 あっ、そうだ!

 ハーシェルは近くにあった木に手をついた。そして太い幹の分かれ目に足をかけると、木の上に登り始めた。

 どんどん、どんどん、上に登った。

 やがてそれ以上登るところがなくなると、ハーシェルは足を止めて景色を見渡した。

 そこからは、アイリスの野全体が一望できた。野原の向こうには、なだらかな森が延々と広がっている。

 下を見ると、ウィルがうろうろと歩いてハーシェルを探していた。

 ここなら絶対に見つからないだろう。

 ハーシェルはほくそ笑んだ。

 体勢を整えようと、ハーシェルは足の位置を少しずらした。

 ――その時だった。

 足がずるりと滑った。その拍子に、木から手が離れる。

 鮮やかな緑が視界から遠ざかる中、ハーシェルは思った。

(あ、落ちる……)



 ハーシェルは目を開けた。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。目の前には、真っ白な高い天井が広がっている。

 早くウィルから隠れなきゃ……

 ぼーっとする頭で起き上がろうとしてやっと、ハーシェルは気づいた。

 そこは、城の中の自分の部屋だった。大きな窓からは、朝日がさんさんと床に降り注いでいる。

(夢……)

 体を起こすと、ハーシェルは布団のすそをぎゅっと握りしめた。

 そりゃそうだ。アイリスの野に、野原全体を見渡せるほどの高い木なんてない。あったのは、小屋よりも低い低木だけだ。

 ――それに、そもそも、あの場所へはもう戻れないのだ。

 手の力を抜くと、ハーシェルはあきらめたように小さくため息をついた。

 城に来てから、約一週間が経った。

 城下街では三日間にわたる盛大な祝いが開かれ、今や王女の存在は国中の知るところとなった。城で毎晩のように開かれる宴は、豪華な料理やきらびやかな衣装を身にまとった人々であふれ返り、ハーシェルは目が回る思いだった。その宴もようやく終わりを迎え、今では生活も落ち着いたものへと変わってきている。

 ヘステラが言った通り、ハーシェルが母に会える時間は、王宮に入る前と比べてずい分と少なくなっていた。この数日でも、片手で数えられるほどの回数しか顔を見ていない。ラルサに関しては、あれから一度も顔を見ていなかった。

 ……ウィルは、どうしているだろうか。

 ハーシェルのこと、探してるかな。

 ハーシェルはベッドの上で、自分のひざを抱え込んだ。

 お別れのあいさつも言えなかった。急にいなくなって、怒ってるかな? それとも、寂しくて泣いているだろうか。

 ハーシェルはウィルの泣いている顔を想像しようとしたが、一度も泣いたことのないウィルの泣き顔を想像するのは無理があった。たぶん、怒っている方に違いない。


 ――ウィルに、会いたかった。


 ウィルがいれば、城での生活は見違えるように楽しくなるだろう。迷路のような城は、かくれんぼをするのには最適だ。鬼ごっこなんて始めたら、永遠に終わらないかもしれない。城じゅうを二人で探検するのもいい。

 それに、ウィルは決してハーシェルに頭を下げたりしない。実は一国の王女だったのだと告げたところで、きっと、「夢でも見てたんじゃないか?」と言って笑い飛ばすだろう。

 帰りたかった。

 ウィルがいて、母がそばにいる、あの野原に。

 だがおかしなことに、ハーシェルはもう帰っているのだという。見覚えのない場所に、たくさんの知らない人たち。それでも、この場所こそが、自分の本当の故郷なのだ。

 窓際の方に目をやると、その側の机の上には一輪の青色の花が挿してあった。

 そう言えば、あの日作った花冠、部屋の窓に置いたままだ。持ってくれば良かったな……

 そこでふと、あの冠ももうとっくに枯れてしまっていることに気づく。いつの間に、そんなに時が過ぎてしまったのだろう。ハーシェルの心の時は、まだ夢の中で止まったままだというのに。

 ハーシェルは、しばらくぼーっとその花を眺めた。

 鮮やかで美しいそれは、ハーシェルが住んでいた野原にはなかったものだ。青い花はあったけれど、もっと小さくて低い。あったのは、白い花が大半で……

 ひらりと花びらが一枚、机の上にこぼれ落ちた。

「――約束、守れなかったな」

 ハーシェルは小さくつぶやいた。

 その時、部屋の扉がノックされた。

 朝のあいさつとともに、侍女が部屋に顔を出す。やがて服を着替え、朝食をとると、ハーシェルは最初の講義へと向かった。

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