第21話 びゅんってやったら、ブワーってなるやつ

(しまった、完全に迷った……)

 時刻は昼過ぎ。

 先ほど帝国学の講義を終え、次の講義までまだ時間があるため、ハーシェルはいったん自分の部屋に戻ることにした。

 部屋の位置を覚えたと思ったハーシェルは、付き添いを断り、自信満々に部屋に戻っている最中……の、はずだったのだが、どこで間違えたのか、気づけばまったく見たことのない場所に来ていた。

 あわてて引き返すも、似たような風景にもはやどこで曲がったのかも分からない。戻ろうとすることで余計にこじらせてしまったようで、今では完全に道を見失っていた。

 重い本を両腕で抱え、ハーシェルはとぼとぼと廊下を歩いた。

(あーあ。なんで部屋を覚えたなんて思っちゃったんだろう。お城の中は、こーんなにも広いのに)

 ハーシェルは吐き出すように深くため息をついた。

 その時、どこかでびゅんっ、と力強い音がした。

 ハーシェルは、はたと立ち止まった。

 そこは、中庭に面した一階の渡り廊下だった。城のはずれの方まで来てしまったのだろう、あたりを見回すも、周りには誰もいない。

 そこで、再びびゅんっ、という音が響いた。

 音をたどるように、ハーシェルは廊下の角をひとつ曲がった。

 そこにいたのは、ラルサだった。

 中庭に立つラルサは、右手に長い棒のようなものを構え、なにやら真剣な表情をしている。

 そして、フッと息を吸い込むと、勢いよく棒を振り下ろした。

 びゅんっと音が鳴り、草地が風を受けてサーッと左右に広がる。

 ハーシェルは目を見開き、釘づけになったようにその場に立ち尽くした。

 横に振れば木々が揺れ、縦に振れば草地が揺れる。周囲と連動したその動きは、まるでその場の空気をあやつっているかのようだった。

 思わず惹き寄せられたように見入っていると、不意にラルサがこちらを振り向いた。

 ハーシェルはどきっと身じろぎをした。

 ラルサとはあの日、目の前でひざまずかれて以来会っていない。もしまたあのような態度を取られるのであれば、即刻逃げ出そうかと思った。ひざまずくラルサは、ハーシェルの知っているラルサではない。

 驚いたような顔をしたラルサは、腕を下ろすと言った。

「よう、嬢ちゃんじゃねえか。どうしたんだ? こんなところで」

 最初の言葉を聞いた時にはもう、ハーシェルは走り出していた。

 廊下から中庭への段差を飛ぶように駆け下り、緑の地面を走り抜ける。

「お~じぃさぁ~ん」

 そしてラルサの近くまで来ると、そのまま体当たりするように大きな体に飛びついた。

「うおっ⁉」

 驚いたラルサは地面に棒を落とし、あわててハーシェルを抱き止める。

 それは、まぎれもなくハーシェルが知っているラルサだった。

 陽気で大らかで、食いしん坊で、よく笑うラルサ。あまりの嬉しさに、ハーシェルは涙が出そうになった。

 ラルサは困ったように笑うと、ぽんぽん、とハーシェルの頭を優しくなでた。声には出さなかったが、なんとなくハーシェルは「悪かったな」と言われているような気がした。

 しばらくラルサにくっついていたハーシェルは、やがて落ち着くと離れて顔を上げた。

「おじさん、ここでなにしてたの?」

「ああ、ちょっくら時間があったから、鍛錬をな。時間が空いたとき、ここでよくこうしているんだ」

「たんれん?」

「体を鍛えるってことさ」

 なるほど、とハーシェルは思った。

 ラルサの体は大きくて、腕も太い。きっと、とても強いのだろう。そしてそれは、こうしていつも体を鍛えているからなのだ。

「ねえねえ、さっきのもう一回やってみせて!」

「さっきの?」

 目をキラキラさせながら言うハーシェルに、ラルサはいぶかしげに眉をひそめた。

「なんか、びゅんってやったら、ブワーってなるやつ!」

 ああ、あれか、とラルサは納得がいったように苦笑した。

 そしておもむろに地面の棒を拾い上げると、数歩後ろに下がった。

「危ないから、近づくんじゃねえぞ」

 うん! とハーシェルは元気にうなずいた。

 棒を構えて立ち止まると、ラルサは目を閉じた。

 すーっと深く息を吸い込み、吐き出す。

 静かに目を開くと、片手でスッと棒を振り上げた。

 次の瞬間、びゅんっという音とともに、周囲に風が巻き起こる。草地が揺れ、近くに咲いてあったたんぽぽの綿毛はあっという間に空へと舞い散った。

 息をするのも忘れて、ハーシェルは口を半開きにしてラルサを見つめた。

 ふわふわと、静寂の中を綿毛がただよう。

「す……」

 ハーシェルは口を動かした。

「すごーい! やっぱりすごいよおじさん! それ、どうやってやってるの?」

 ハーシェルは興奮で頬を紅潮させながらラルサにたずねた。

「いやぁ、こんなに手放しでほめられたのは久しぶりだなあ」

 ラルサは照れたように笑った。

「どうやって、か。まず最低限必要なのは、棒を勢いよく振り下ろせるだけの筋力だな。力がなけりゃ、どんなに鋭い剣でも槍でも、まるで話にならない。それこそ相手が小っちゃい小刀しか持っていなかろうと、力の差が大きければ大きいほど、負ける確率は格段に高くなる。……嬢ちゃんが箒振り上げて手ぶらの俺に襲いかかってきても、俺には勝てない。それと同じことさ」

 ニッと笑うラルサに、ハーシェルはふくれっ面になった。

「今度はフライパンにするもん」

「おうおう、楽しみにしてるぜ」

 ラルサはおもしろがるような調子で言った。

「二つ目にだ。何も、力任せに振り下ろしゃあいいってもんじゃない。部分的に力を抜くこと、つまり、力をコントロールすることも大切になってくるんだ。肩に余分な力が入っていちゃあ、それは他の必要な力の邪魔になる。無駄な力は抜いて、だが必要な力はしっかり入れて、棒の重みを利用しながら振ることが大切なんだ」

 うんうん、とハーシェルはうなずいた。

「それで終わり?」

 ラルサはにやりと笑った。

「いや、もう一つある。まあ、ここで終わるやつも多いんだが。実は、最後が一番重要でな」

 ラルサは続けた。

「最後に精神力。つまりは気持ちだ。俺が棒を振る前、一度目を閉じたろう? あれは、いったん心を静かにして、すべての集中力を引き出すためにやったことだ。いくらその前に怒っていようと喜んでいようと、その時にはその気持ちをきちんと鎮めなければならない。だから俺は、嬢ちゃんに会えた喜びを必死に押し殺して、静かな心で棒を振ったわけさ。ああ~、つらかったぜ」

 そでに目を当て、ラルサは泣くフリをした。

 ハーシェルは声を上げて笑った。

「だが最近は、これを忘れて感情と力だけで突っ込んでくるやつが多くてなぁ。まったく困りもんだよ。――とまあ、俺からの説明は以上だ。分かったか? 嬢ちゃん」

「うん!」

 ハーシェルは大きくうなずいた。

 ラルサの説明は簡潔で分かりやすい。きっと兵士たちに教える時も、こうやって丁寧に教えているのだろう。

「ねえそれ、ハーシェルも練習したらできるようになる?」

 ハーシェルはわくわくした表情で聞いた。

 ラルサは意外そうに眉を上げた。

「嬢ちゃんがか?」

 うーん、と、ラルサが難しそうな表情で考え込む。

「まあ、二、三十年練習したらできるようになるんじゃないか?」

「にさんじゅうねん!」

 びっくり仰天したように、ハーシェルが叫んだ。

 その驚きように、がははっとラルサは愉快そうに笑った。

「そりゃそうさ。筋肉をつけるのも精神力を磨くのも、それなりに時間はかかる。けどまあ、嬢ちゃんの言う『びゅんってやったらブワーってなるやつ』は難しいが、そこらへんの泥棒を捕まえるくらいなら、五、六年もすればできるようになるんじゃないか?」

 ハーシェルはちょっと目を見開いた。

 一度口をつぐむ。それから、確かめるようにつぶやいた。

「五、六年……」

 急に静かになったハーシェルを、ラルサは不思議そうな顔で見つめた。

 何やら考え込むように黙り込んでいたハーシェルは、やがてぱっと顔を上げると言った。

「決めた! ハーシェル、おじさんみたいに強くなる! それで五年後にはどろぼう倒せるようになって、それでいつか、びゅんってやってブワーってできるようになる!」

 弾けるような笑顔で言うハーシェルに、ラルサは一瞬、驚いたように真顔になった。

 しかしすぐに表情を戻すと、いつものように、にかっと笑って言った。

「おう! そうかそうか。まあ、強くなるのはいいことだ。じゃあ早速、アスリエル王に剣を習いたいって頼んでみるとい――」

 一気に表情を暗くしたハーシェルを見て、ラルサはあわてて言葉を変えた。

「ああいや、王には俺から伝えておこう。ちょうどこの後用事もあったしな」

 父親となんかあったな、とラルサは思った。

 ハーシェルはいくらか表情を取り戻し、「うん」と嬉しそうにうなずいた。

 それから、ラルサはわずかに眉をひそめた。

「それとな、嬢ちゃん。……俺は、嬢ちゃんに言っておかなきゃならんことがあるんだ」

 ハーシェルは、ラルサの声色が変わったことに気づいた。

 ハーシェルはきょとん、とラルサを見上げた。

「なあに? おじさん」

 一呼吸置くと、ラルサはその言葉を告げた。

「嬢ちゃんを『嬢ちゃん』って呼ぶのも、今日が最後ってことだ」

「え――」

 ハーシェルは大きく目を見開いた。

 ラルサは言った。

「城に戻った以上、嬢ちゃんはもうただの女の子じゃない。ナイル帝国という、一国の王女だ。そしてそれと同様に、俺はナイル帝国の将軍だ。立場には、それぞれの立ち居振る舞いってもんがある。俺は王家に仕える者で、嬢ちゃんは王家の人間だ。だから俺はもう、嬢ちゃんのことを嬢ちゃんっては呼べない。……分かるな?」

 優しく言うラルサに、ハーシェルはうつむいて小さくうなずいた。

 本当はもう分かっていた。

 この一週間、みんながハーシェルに対して頭を下げて、それはなんだか悲しくて、寂しかった。だけど、侍女がヘステラに、ヘステラがセミアにそうしているのを見るうちに、ここでは、それが守らなければならないルールなのだと思った。

 そして、そう振る舞われることに違和感を感じるのは、きっとまだハーシェルが姫になりきれていないからだ。それならば、これから、頭を下げられるに値する立派な姫になればいい。そう思った。

 それに……

 ハーシェルは顔を上げた。

「もう大丈夫だよ、おじさん。だって、おじさんはなにも変わってなかったってこと、ちゃんと分かったから。名前の呼び方や態度が変わっても、おじさんはおじさんだもん。そうでしょう?」

 そう言って晴れやかに笑うハーシェルを、ラルサはまじまじと見つめた。

 てっきり落ち込むかと思っていたが、そうやわではなかったらしい。『ハーシェルはそんなことでへこたれたりしないわ』――そう言っていたセミアの顔が、頭に浮かんだ。

 この子は、思っていたよりも強い。

 ラルサはうなずいた。

「ああ、その通りだ。俺は俺だ。そんでそれは、嬢ちゃんも同じことだ。姫になったからって、今までの嬢ちゃんが消えちまうわけじゃない。嬢ちゃんは、嬢ちゃんらしくしていればいい。だから、あんまり頑張りすぎて、自分を押し殺すんじゃないぞ?」

 心を見透かされたような言葉に、ハーシェルは目を瞬いた。それから、「うん!」と笑った。

 その後、ラルサは部屋までハーシェルを送り届けてくれた。

 すごく遠くまで来てしまったような気がしていたが、どうやらそうでもなかったらしい。ものの五分で、ハーシェルは自室に到着した。単に城の裏側の方に来ていただけだったということは、後で分かったことだ。

 ラルサに会えて、ハーシェルは心が軽くなった気がした。

 王宮での生活はこれまでの日々とはまったく違っていて、まだまだ戸惑うことも多い。

 けれど、ラルサやセミアのように、自分のことをちゃんと知ってくれている人もいる。慣れないことはこれから慣れていけばいいし、知らないことは、これから知ればいい。そうすればきっと、いつか本当の姫にもなれるだろう。

 そして、立派な姫になったその時には――

 ハーシェルはふわりと微笑んだ。

 自分の足で、ウィルに会いに行こう。母は戻ることはできないと言っていたけれど、向こうからこっちには来れたのだ。きっと帰ることもできるはず。

 地理を知って、馬に乗って、あの場所へ帰るのだ。野原に行けば、きっとウィルに会える。そして、賢くて立派な姫へと成長したハーシェルを見せて驚かせてやるのだ。


 そう思うと、ハーシェルは何でもやれる気がした。

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