第27話 愛してる

 大広間を出ると、ハーシェルは一人明かりが灯る廊下を歩いた。

 夜の城内はひっそりとして静かで、時折外から吹き込む乾いた風の音と、自分の足音くらいしか聞こえない。

 そう言えば、まだ夕食を食べていない。忙しさのあまり、ご飯のことなどすっかり忘れていた。もう夕食の時間はとっくに過ぎてしまっているだろう。

(後で部屋に何か持ってきてもらおうかな……)

 そんなことを考えながら歩いていると、ふと、廊下の先の扉がかすかに開いていることに気づいた。

 そこは、セミアの部屋の扉だった。きちんと閉め忘れたのだろうか?

 少し不思議に思いながら近づき、ハーシェルは扉に手をかけた。

「母様? いる――……⁉」

 扉の内側を見て、ハーシェルは絶句した。

 そこには、正確に心臓をひと突きされた兵の死体が転がっていた。胸からは大量の血があふれ、月明かりに照らされて床を真っ赤に染め上げている。

 心臓がどくん、とよじれるように脈を打った。

 ハーシェルは部屋へと駆け込んだ。

「お母さん⁉」

 部屋の奥には、何かをまっすぐに見つめて立つセミアの姿があった。

 その表情には薄い緊張の膜が張っているが、どこか落ち着いているようでもある。

 その姿を見て、ハーシェルはなぜかとても嫌な予感がした。

「お母さ――」

 ハーシェルはセミアに駆け寄ろうとした。

 セミアはハッとこちらに気づくと、ハーシェルに向かって叫んだ。

「ハーシェル! 来てはだめ!」

 え、と足を止めたその時、ハーシェルの視界に別の人物が映った。

 突如現れた男の目と、ハーシェルの目がぴたりと合った。男が短剣を振り上げるのを見ても、ハーシェルは動けなかった。

「ハーシェル!」

 男の手が短剣を振り放つ。

 しかし殺されると思ったその時、ハーシェルが目の前に見ていたのはセミアの姿だった。

 ドス、と耳ざわりな音が頭に響く。

 崩れ落ちるセミアを前に、ハーシェルは呆然と立ち尽くした。

「……え……お母さ……」

 倒れたセミアを中心に、ゆっくりと冷たい床に血が広がっていく。

 その肩には、たった今放たれた短剣が深々と突き刺さっていた。

 突然状況が頭の中に降りてくると、ハーシェルは悲鳴を上げた。

「お母さん⁉」

 ハーシェルはセミアの側に膝をついた。

 セミアの顔は苦痛にゆがみ、息をすることすらままならないように見える。

 母がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、ハーシェルは何度も名前を呼んだ。

「お母さん! お母さん……!」

 母と同じ色の瞳からは、自然と涙がにじみ出た。

 視界が、まるで平衡感覚を失ったかのようにぐにゃりとゆがむ。

 これは夢だろうか?

 そうに違いない。だって、お母さんが死ぬわけがないのだから。

 ついさっきまで、同じ広間で手当てをしていたのだから。だから……

 かすかな足音に振り向くと、そこには抜き身の長剣を手にした男が近づいて来るところだった。窓から差し込む月光を受けて、白い刃が異様な輝きを放つ。その後ろには、他にも二人の男がいた。

 ハーシェルは恐怖に目を見開いた。

(お母さんが殺される)

 そう思った時、ハーシェルの中で何かが切れた。

 母を守るようにその背に覆いかぶさったまま、ハーシェルは叫んだ。

「お母さんに近づかないで!」

 その時、ハーシェルの下で何かがぼんやりと青く光った。

 次の瞬間、突如二人を中心に強い風が巻き起った。

 まるで竜巻か嵐のようなそれは、部屋じゅうのありとあらゆるものを吹き飛ばした。机の上の花瓶は壁に当たって砕け散り、寝台のカーテンは引きちぎられるようにして天井へと弾け飛ぶ。風はさらにその強さを増し、被害はとどまるところを知らなかった。

 男たちは腰を低く構え、なんとかその場に踏みとどまっていた。

 一人がつぶやいた。

「どういうことだ……?」

 どのくらい、その状態が続いたのだろうか。

 気づけば、部屋にはもとの静けさが戻っていた。男たちの姿は、跡形もなく消え去っていた。

 何が起こったのかは分からない。あれだけの強風が吹いたというのに、不思議と二人はかやの外にいたかのように全く風の影響を受けていなかった。

 しかし、ハーシェルにはそんなことはどうでもよかった。

 大事なのは、目の前にいる母のことだけだった。

「ハーシェル」

 セミアが顔を上げて、優しくハーシェルの名前を呼んだ。

 ハーシェルは涙でぬれた顔でセミアを見た。

「なあに? お母さん」

 セミアは衣の内側からあるものを取り出した。

 それは瑠璃色の石だった。セミアの手の中で、銀色の鎖に繋がれた石はまるで息づいているように薄く輝いていた。

 それは、母が昔よく首にかけていたものだった。最近見かけないと思っていたが、ずっと持っていたとは。

「これは、私があなたのお父さんからもらったもの。だから、今度は私があなたにあげるわ。きっと、あなたを守ってくれるはず」

 セミアはハーシェルの手の中に石を包み込んだ。

 ハーシェルはくしゃりと顔をゆがめた。

「どうして、今くれるの……?」

 その答えは、聞かなくても分かっていた。

 しかし、ハーシェルは信じたくなかった。

 セミアは何も言わなかった。少し微笑んだその顔は、いつもよりも青白かった。

 セミアはかすかに震える唇を開いた。

「それから、ウィルくんのこと……」

 ハーシェルは涙がたまった目を瞬いた。

 ウィル……?

 どうして今、ウィルの名前が出てくるのだろう。

 セミアは、不意に瞳の光を強くしてハーシェルを見た。

「気をつけて。でも、信じてあげて。何があっても……何を知っても。あの子は決して、あなたを裏切ら――」

 そこで、セミアは苦しそうに息をついだ。

 ハーシェルは背筋が凍りついた。

「しゃべらないで! もうしゃべらなくていいから、だから――」

「ハーシェル」

 明るい茶色の瞳が、ハーシェルを見つめた。

 ハーシェルも、同じ色の瞳で母を見返した。

 セミアは、まるでけがなどしていないかのように、おだやかに微笑んだ。

「愛してるわ」


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