第26話 死と血 ←(※苦手な方注意)
謹慎が解けたハーシェルは、久しぶりに部屋の外へと出ていた。
蜜を求めて、小さな蜂たちが花の間を飛び交う。
いつもはそれほど気にせずに通り過ぎていた花々も、一週間ぶりに見ると輝くようにきれいに見えた。外は風もなく穏やかで、青空の中をのんびりと白い綿雲が流れている。久しぶりの外は、とても気持ちがいい。
一週間も部屋にいればさぞかしひまだろうと思っていたが、意外とそうでもなかった。自室で行う講義は相変わらず続いたし、歴史学など、他の場所で講義を行う先生からは山のように宿題が届いたからだ。部屋で大量の宿題をこなしながら、ただ、外で思いきり剣を振れないことが少しつまらないなと思った。
ハーシェルはこの一週間、部屋で色々なことを考えた。
その結果分かったことは、父が言った通り、つくづく自分は甘かったということだ。
たかが数年、空いた時間に剣を振っている程度の自分が、ずっと国を守るために必死に訓練を重ねてきた兵士たちと同じ土俵で戦えるはずがない。その上、実践経験もない。城はいつだって平和で、たまにラルサがふざけて不意打ちで襲ってくるとき以外は、危険のかけらすら感じたことがなかった。実践慣れしていない自分が、いきなり現場で戦うのは厳しいだろう。
それに、ハーシェルはどこかで「自分ならできる」と思っていたところがあった。おそらくその中に、自分の力を試したいという気持ちも混ざっていたのだろう。悔しいが、ラルサとアスリエルが言ったことはすべて正しかったということだ。
気の向くままにふらふらと散歩を続けていると、大広間の方向から緊迫したような声が聞こえてきた。
「急いで! 出血がひどいわ」
「もっと人を呼ぶんだ。この数では全然足りない」
普通ではない雰囲気に、心が嫌な感じにざわついた。
誰か、けがでもしたのだろうか……?
急いで大広間の方に向かうと、その入り口では多くの人が出入りしていた。水を運ぶ人、大量の布を運ぶ人、中にはけが人までいる。
ハーシェルは突然状況を理解した。
そうか、戦争に出兵していた兵が帰ってきたのだ。戦争は勝利し、無事争いは収まったと聞いていたが――
あわただしく出入りする人々に入り混じり、ハーシェルは大広間の中へと駆け込んだ。
そこに広がっていた光景に、ハーシェルは言葉を失った。
広間を埋め尽くすほどの、けがをして横たわる大勢の人、人、人。
頭から血を流している人もいれば、片腕がなくなっている人もいる。その隣では、医師や女官たちが、けがをした兵士の治療に当たっていた。
あまりに悲惨な光景と、おびただしいほどの血のにおいにハーシェルはめまいがした。
(なんなの、これ……)
思わず近くの柱に手をついていると、ふと、横たわる人々の奥に見知った顔を見つけ息を呑んだ。
「ラルサ……!」
人々の間を通り抜けて駆け寄り、ハーシェルは絶句した。
ラルサの体は、大量の血と泥にまみれていた。
左肩には深くえぐれたような傷があり、壁にもたれるようにして座り込んでいる。自分で応急処置はしているようだが、その布はすでに血で真っ赤に染まっており、どう見てもすぐに再手当が必要だ。足も少しけがをしている。
声もなく立ちすくんでいると、ラルサがこちらに気づいて顔を上げた。
「ああ、ハーシェル様。このような見苦しい姿をお見せして、申し訳ない。なに、少々矢が肩をかすっただけですよ。大した傷ではありません」
声の調子はいつも通りだが、その顔は心なしか少し青かった。
ハーシェルは思わず責めるように言った。
「何言ってるの! 大した傷じゃないわけがないわ。今手当てを――」
ハーシェルは何か傷をふさぐのに使えそうなものを探しに行こうとしたが、その前にラルサがそっとその手をつかんだ。
「お待ちください。わたくしのことは大丈夫です。それよりも、他の者の手当てをお願いします。わたくしよりも治療を必要としている者は、たくさんいます」
眉間にしわを寄せてハーシェルは口を開きかけたが、結局、思い直したように口をつぐむ。
一つうなずくと、ハーシェルはラルサの側を離れた。
血を流し横たわっている人々の間を歩きながら、ハーシェルは自分にできることを探した。
大勢のけが人に対して治療に当たっている人の数は少なく、明らかに手当ては間に合っていない。
やることはいくらでもあるはずなのに、ハーシェルは何をすればいいのかまったく分からなかった。すぐに自分が治療に関して何の知識も持っていないことに気づき、ハーシェルは自分の無力さに失望した。
「私に何か手伝えることはある?」
近くで座って兵の手当てをしていた女官に尋ねてみる。
女官は、脇腹の傷に視線を落としたまま答えた。
「では、そちらの布を絞ってここに……って、えっ⁉ 姫様⁉」
顔を上げた女官は、ハーシェルを見てすっとんきょうな声を上げた。
「布を絞ればいいのね」
ハーシェルは言うと、そばに置いてあったバケツに布を浸して、絞ろうとした。
女官は大慌てで言った。
「ああ姫様! 姫様がそのようなことをなさる必要はございません! ここはどうぞ私たちにお任せになって、部屋へお戻り下さい」
あわあわと女官はハーシェルから布を取り上げようとしたが、ハーシェルはぐっと腕を引くと強い目で女官を見た。
「何言ってるの。人手が足りていないんでしょう? そんなことを言ってる場合じゃないわ」
ハーシェルは布をきつく絞ると、女官に手渡した。女官は驚いたような顔をして何も言わなくなった。
分からなければ、聞けばいい。そのことを学んだハーシェルは、その後もあちこちを周ってけがの治療を手伝った。
広間の一角には、横たわる人たちの隣で泣いている人々がいた。横たわっている人々の顔には白い布がかけられている。亡くなったのだろう。家族や恋人がいる者もいただろうに……
治療が間に合わず、目の前で亡くなってしまう人も何人もいた。医師や女官たちと一緒に多くの人の治療に当たりながら、ハーシェルはその現状にひどくショックを受けた。
ラルサの言った通りだ。
自分は何も分かっていなかった。
戦争をするということは、人が死ぬということだ。多くの血が流れるということだ。頭では分かっているつもりだったのに、頭で理解するのと、実際に目にするのとでは全然違っていた。
なぜ、人と人は殺し合わなければならないのだろう。
その中に、死にたいと思っている人など一人もいるはずがないのに。
ハーシェルから遠く離れたところで、セミアも治療を手伝っている姿が見えた。手が汚れようと服に血がつこうと、お構いなしだ。
その日、ハーシェルは一日中大広間を駆け回って治療に専念した。
気づけば日は沈み、明るかった空には濃紺の夜のとばりが下りている。
床に座り込み、慣れた手つきで包帯を巻いていると、隣で手当をしていた医師に声をかけられた。
「そろそろお疲れでしょう。姫様は、部屋に帰ってゆっくりお休みになってください。後のことは、私たちがやっておきますから」
おおかたの兵が治療を終え、大広間は昼間に比べてずい分と静かになっていた。女官もその数を減らし、今では十人ほどの人手で残りの手当てを行っている。
ハーシェルは額ににじみ出た汗をぬぐった。
「ええ、そうね。じゃあ、悪いけれど後は頼むわ」
最後にきゅっと包帯の端を結ぶと、ハーシェルは立ち上がった。
その時、医師が小さく声をかけた。
「あの……」
「なあに?」
ハーシェルが振り返る。
医師は意を決したように真剣な表情になると、突然頭を下げた。
「ありがとうございました。姫様にけが人の世話をさせるなど、本来ならあってはならぬことです。しかし、おかげ様で大変助かりました。皆、心から感謝しております」
近くにいた女官たちも、同じように頭を下げた。ハーシェルが腕に包帯を巻いた兵士も、少し微笑むと、腕に支障がない範囲で頭を下げ感謝の意を示した。
ハーシェルは困ったように笑った。
本当に、自分はなんて愚かだったのだろう。
こんなふうに、一生懸命他人の命を繋いだり、必死に生きようとしている人たちがいるというのに、自ら命を投げ出すような真似をしようとしていたとは。
そのことに気づけたのは、みんなのおかげだ。
「こちらこそ、ありがとう」
なぜお礼を返されたのか分からず、皆は困惑したように互いに顔を見合わせた。
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