第14話 タムナス荘

 馬が風を切って、耳元でごうごうとうなり声を上げる。

 始めはうるさく感じていたが、さすがにもうこの音にも慣れてきた。今は雑音として耳の横を通り過ぎて行くだけだ。

 それよりも……

(お尻痛いっ! というかもう体しんどい! まだ着かないのかなぁ……)

 馬にまたがってから、かなり長い時間が経過していた。休憩はまったく取っていない。

 ハーシェルは、一度この揺れまくる馬から降りて、思いっきり体を伸ばしたい気持ちでいっぱいだった。そうすることができるなら、春のまだ冷たい池に飛び込んだっていい。

 周囲の景色は相変わらず生い茂る木々ばかりで、たいした変化はなかった。いったい、いつになったら森を抜けるのだろうか。


 はっと気がついて顔を上げると、目の前にはのどかな平地が広がっていた。民家がぽつぽつと建っており、畑も多く見える。農地の野菜の実のそばを、足元の馬のひづめがのんびりと通り過ぎて行く。

 妙に景色がはっきり見えるな、とハーシェルはいぶかしんだが、答えはすぐに分かった。ただ単に、夜が明けようとしているのだ。

(……ん? 夜が明けようとしている?)

 きっかり三秒、ハーシェルの思考が停止した。

 それから突然状況を理解すると、ハーシェルは驚きのあまりあんぐりと口を縦に開けた。

 まさか、ずっと寝ていたというのか。風がうなり、上へ下へと容赦なくゆれ続ける馬の上で。

(絶対に寝られないと思ってた……)

 そう言えば、途中からなんとなく眠くなっていたような気がする。本当に眠いときはどんな状況でも眠れるものなんだなと、ハーシェルはほとほと感心した。

 夜明けということは、結構な距離を進んだはずだ。もうアッシリア王国は出てしまったのだろうか、それとも――

 きょろきょろとあたりを見回していると、馬で隣に並んできたセミアが声をかけた。

「おはよう、ハーシェル。いい夢は見れたかしら?」

 風はほとんどなく、馬はもう走っていない。ハーシェルは母を見上げた。

「お母さん、ここ――」

「ここは、ナイルの辺境地にある村だ」

 背中の後ろで、ラルサがハーシェルの問いを察して答えた。

「テーベ村っていってな、あまり裕福な村とは言えないが、村の人たちは気のいい者ばかりだ。今日はここで休んでいくぞ」

 すでに国境は越えてしまっていたらしい。ひそかにその瞬間を感じてみたいと思っていたハーシェルは、ちょっとがっかりした。

「ねえおじさん、へん……なんとか地って、なに?」ハーシェルが聞くと、ラルサは「ナイルの外れ、国境付近にあるってことさ」と教えてくれた。

 草地にぽつぽつと建つ家々の間には畑や田んぼが広がっており、壁には農具が立て掛けられている。どこかで、おんどりが高い鳴き声を上げた。

 違う国なのだ、もっと劇的な変化や大都会を想像していたハーシェルは、どこか見慣れた感じの田舎の風景に少し、いやかなりがっかりした。

 そのことをラルサに言うと、ラルサは「がはははは」と大きな口を開けて笑った。

「そりゃ、ナイルといってもここはまだ端っこの端っこだからな。アッシリアに限りなく近い位置だ。気候もそんな変わらねぇのに、突然景色がひっくり返ったりしないさ。……だがな、王都についたらそんなことも言ってられないと思うぞ?」

 ラルサが意味ありげに言った。

「やあ、旅のお方かい?」

 空が明るみ始め、早起きの農夫たちが畑へ出るようになった頃、畑に下りていた村人の一人が声をかけてきた。

 白髪の老人は年齢こそ高そうだが、日に焼けた体は筋肉質でそこらの若者よりもパワーがみなぎっている。しかし対照的にしわの深い笑顔はとても優しげで、ハーシェルはすぐにこの老人が好きになった。

「ああ。家族で旅行中でな。あちこちまわってるんだ」

 ラルサが答えた。

 老人は口を開けて、がはははと豪快に笑った。笑い方がラルサにちょっと似ている。

「そりゃあいいや」

「ところで、この辺でどこかいい宿を知らんかね? 長旅で疲れたもんで、ちょっと休みたいんだ」

 ラルサが聞くと、老人は明るい声で言った。

「ああ、それならタムナスさんとこの宿がいいな。そのまま真っ直ぐ行って、二番目の角を左に曲がってすぐのところだよ。ちょっと狭いが、主人はいいやつでな。わしの息子の友達がやってるんだ」

「なるほど。んじゃ、とりあえずそこに向かってみるとするかな。ありがとな、じいさん!」

 ラルサがにかっと笑った。

 それに対して、老人もしわの深い笑みを返した。

「おう、ゆっくり休んでいけよ」

 セミアが老人に軽く頭を下げたので、ハーシェルもあわてて少し頭を下げた。

 老人の畑を通り過ぎると、ハーシェルが不思議そうな顔をして言った。

「……家族?」

「ほんとのことを言うわけにゃいかんだろう」

 ラルサがしぶい顔で言った。

「この先城に着くまでは、俺たちは『家族』として通すからな。なんなら、『お父さん』って呼んでくれてもいいぞ?」

 ラルサはにやりと笑ったが、セミアを見てすぐに笑いを引っ込めた。

「いや、今のは冗談ですぞ? セミア様」

「ふふ、分かってるわよ。それくらい、気にしなくてもいいのに」

 セミアがおかしそうに笑って言った。

 だが、ハーシェルはラルサの冗談もありだなと思った。実際、ラルサのような人がお父さんだといいと、一度ならず感じている。

 今度、どさくさまぎれに呼んでみよう、とハーシェルはひそかに思った。

 それから三人は畑や田んぼに面したあぜ道をずっと進んで行き、言われた通り二番目の角を左に曲がった。

 すると、そこには周囲の民家よりひとまわり大きな建物があった。二階建てで横に長く、土壁には年季が入っている。きっとこれが目的の宿だろう。

「た……たん、ぬ……?」

 ハーシェルは入り口上部の木板に書かれている文字を読もうとしたが、どうにもはっきり読み取れなかった。今まで見てきた文字とよく似ているのだが、どれも少しずつ形が違っている。全体的に、ハーシェルが知っている文字よりくねくねしているような感じがした。

「ああ、それは『タムナス荘』って読むんだよ」

 解読に奮闘しているハーシェルに気づいて、ラルサが言った。

「ナイルとアッシリアはもともとは同じ文字だったが、分かれてからそれぞれの国で別の文字に発展していったんだ。もっとも、それらの文字ももう古いもので、今では別の文字が周辺の国々の共通文字として使われている。ここらや嬢ちゃんが住んでたところは中心街から外れた田舎町だから、まだ古い文字が使われているんだろうよ」

「へぇー」

 ハーシェルは自分がラルサの説明をきちんと理解できたのかよく分からなかったが、とりあえず相づちを打った。

 馬を預けて「タムナス荘」の看板をくぐると、気の良さそうなおじさんが「いらっしゃいませ」とハーシェルたちを笑顔で迎えた。おそらく、この人がさっきの老人が言っていた「タムナスさん」だろう。

「三名様でしょうか?」

 タムナスの言葉に、ラルサが頷いた。

「ああ。大人二人と子ども一人、一泊で頼む」

「はい、かしこまりました。お部屋はご一緒でよろしいですよね?」

 家族連れだと思ったのだろう、タムナスさんがにこにこして尋ねた。

 ラルサは難しそうに眉をひそめた。

「部屋は……あー、べ」

「一緒で」

 セミアが断言するように言った。

「かしこまりました。では、こちらへどうぞ。お荷物、お持ちいたしますよ」

 タムナスは、カウンターの壁にいくつもかかっている鍵のうちの一つを取ると、手荷物をいくらかラルサから受け取った。そして、案内のため背を向けて歩き始めた。

 ラルサは不服そうな表情でセミアを見たが、「か・ぞ・く、でしょ」と口の形だけでセミアが言うと、あきらめたようにタムナスのあとに続いた。

 ハーシェルたちの部屋は、階段を上り右に向かって三つ目のドアのところだった。タムナスはドアの鍵を開けると、荷物を部屋に運び入れるのを手伝ってくれた。

「部屋を出る際は、鍵をかけることをお忘れなきよう。一階には食堂もございますので、ご自由にどうぞ」

 荷物をすべて部屋に運び入れると、タムナスは「ごゆっくりと」と言ってその場を立ち去った。

「ベッドだ!」

 ハーシェルは部屋をひと目見て歓声を上げると、白い布団の上にダイブした。

 ベッドは壁際に沿って四つ並んでおり、間にはそれぞれ引き出し付きの小さな台が設けられている。入り口の正面には窓があり、やわらかい朝日が部屋を薄く照らしていた。

 いつも敷き布団で寝ていたハーシェルにとって、ベッドは憧れだった。質素な狭い部屋も輝いて見えるような気がする。古い民宿のベッドは、ふかふかというよりは少し硬かったが、その落ち着いた匂いや体になじむような肌触りをハーシェルは気に入った。

「ここでちょっくら眠って、明日――もう今日か、王都に向けて出発だ。しっかり休んでおくんだぞ」

 ラルサが、奥のベッドに腰をかけながらハーシェルに言った。

「でも、ハーシェルちっとも眠くないよ? さっきいっぱい寝たもん」

 ハーシェルはベッドに寝転がったままラルサの方を見て言った。

 ラルサは笑った。

「寝たって言ったって、馬の上でだろう? あんなの、ちゃんと寝たうちに入らないさ。そのまま目を閉じて、ゆっくり十秒数えてごらん」

 ハーシェルは、言われた通り目を閉じてみた。それから、数を数える。

 一、二、三、四、五、六……

 あれ……?

「……やっぱり……ちょっとねむい、かも」

 意識がふわふわと遠くへ引っ張られていくように感じる。もう、再び目を開けることすらおっくうだ。

 ラルサが続けて話す声が聞こえた。

「そうだろう。これが城のベッドとなりゃ、どんなに目が覚めてる真っ昼間でも一分足らずで寝ちまうっていう噂だ。まあ、俺は寝たことないがな。なんでも、その布団の生地っていうのは……」

 だが、城の布団の生地が何なのかは、ハーシェルには分からずじまいだった。

 その言葉を聞く前に、ハーシェルの意識は完全に闇へと沈んでいった。

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