第六章 王宮へ

第15話 夢

 ハーシェルは一人、荒れ果てた大地に立っていた。

 そこには、何もなかった。

 花も鳥も、虫も、たった一本の草木さえ、まるで生き残ることを許されなかったように存在しなかった。重く渦巻く曇天のグレーと、どこまでも続きそうな暗い土色の地面、その二色だけが不気味にハーシェルの目に映る。

 その光景に、なぜかぞっとした。

 何があるわけでもない。だが、何もないことこそが、ハーシェルには恐ろしく思えた。少しでも心安らげられるものを求めて、ハーシェルは歩き始めた。

 地面は時折大きくひび割れ、裂け目があったり、盛り上がったりしている。焼け焦げた植物の残がいのようなものもよく見られた。しかしそれも、生ぬるい風にあっという間にさらわれて消えていった。

 何か、とんでもないことが起こったのだ。

 すべてのものが塵と化し、大地が割れるほどの大きな出来事。巨大な天変地異か何かか、それとも――

「わっ」

 考え込みながら歩いていると、つま先が何かにつまずいて転んだ。

 何もないと思って歩いていたのに、一体なんなんだ。若干腹を立て、どうせ木の枝かなんかだろうと足元を振り向いた。

 そのものを見た瞬間、ハーシェルは思わず悲鳴を上げた。



 ――そこにあったのは、体から切り離された人の腕だった――――




「うわぁっ!」

 ハーシェルは叫び声とともに、ベッドから飛び起きた。

 部屋の窓からはあたたかな日差しが差し込み、外からはチュンチュン、と鳥の鳴き声がする。奥のベッドに腰かけて荷物をごそごそしていたラルサが、「なんだぁ?」と言って振り向いた。

 先ほどとは打って変わって平和な風景に、ハーシェルはほっと胸をなで下ろした。じとり、とかいた汗が背中をつたう。

「大丈夫? ハーシェル。怖い夢でも見たの?」

 着替えを済ませたセミアが、心配そうにハーシェルを見て言った。

「うん、ちょっと」

 実際にはちょっとどころではなかったが、詳しく話す気にはなれなかった。思い出すだけでも、気分が悪くなりそうだ。

 いやな気持ちを振り払うように、ハーシェルはぶんぶんと頭を横に振った。

「どのくらいの間、寝てたの?」

 気を紛らわせようと、ハーシェルが明るい声で尋ねた。

「そうね、今が昼前だから、だいたい五時間くらいかしら? でも、悪い夢を見ていたのなら、早く起こしてあげたらよかったわね」

 セミアは微笑んで言った。

 その時、ラルサが「よっしゃあ!」と立ち上がった。

「嬢ちゃんも起きたことだし、下の食堂で昼飯食ったら出発だな。次の町、クムルスに着くのが今夜、その次のマリに着くのが明日、王都セインに着くのは明後日ってところか。まあ、少なくとも明後日の昼頃には王宮に入れるだろう」

「えー、そんなにかかるのー?」

 ハーシェルはがっかりした。ナイルに入ったからには、もうすぐそこに王宮があるのかと思っていたのだ。

「ま、昨夜みたいに夜通し馬をぶっとばせば別だがな。俺はそれでもかまわないが、そうするか?」

 ラルサはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

 ハーシェルは、昨夜の馬での疾走を思い返した。

 それは、どこからどう考えても快適とは呼べない時間だった。腰のあたりに、おそらく生まれて初めてであろう筋肉痛すら感じている。

「……いや、いい」

 ハーシェルはげんなりした目つきで言った。

 それから、セミアのリュックに入ってあったいつものワンピースに着替え、寝ている間にゆるんでしまった三つ編みを母に直してもらった。

 食堂に下りると、パンにサラダとスープ、ソーセージや卵の盛り合わせを食べた。食材はすべてタムナスの実家で採れたものや、近所の人の差し入れだそうで、どれも新鮮でおいしかった。

「また、いつでもいらして下さいね」

 見送りのため、玄関先に立ったタムナスが笑顔で言った。

 時刻は昼をまわり、あたりには農作業をしている大人や道端で遊んでいる子どもがぱらぱらと見受けられる。道で人がすれ違うと、ハーシェルが畑のおじいさんとすれ違ったときのように親しげにあいさつを交わしていた。

 ラルサが言ったようにあたたかくていい村だな、とハーシェルは感じた。

 タムナスの言葉に、セミアが微笑んだ。

「ええ。お世話になりました」

 その時、なぜかタムナスの頬がぽっと赤く染まった。

 そして、急にラルサの腕をぐいっとつかんで自分の方に引き寄せると、早口でラルサにささやいた。

「最初に見たときから思っていたのですが、どうやってこんなにきれいな奥様を手に入れられたのですか⁉ 何かコツがあるのなら、私にも教えて下さいよ!」

 真剣な表情のタムナスに、ラルサはあいまいな顔で笑うしかなかった。

 馬に乗ると、三人は別れのあいさつを交わしてその場をあとにした。



 その晩、ハーシェルたちはクムルスの町に着いた。その後も旅は順調に進み、ラルサが言っていた通り、次の日の昼にはマリに入った。マリに着いてからなんとなく、ハーシェルはアッシリアにいた時よりも暑いように感じていた。「今日は暑いね」とラルサに言うと、ラルサがナイルはアッシリアよりも全体的に気温が高いのだと教えてくれた。言われてみると、町の人々の服装はアッシリアよりも薄着であることに気づいた。生地やデザインも、少し違うようだ。

 食べ物は、多くのものはアッシリアと変わらなかったが、知らないものも時々あった。その中でも、ハーシェルは「チュリス」という果物が特に気に入った。これはアッシリアのりんごに似ているが、りんごよりもひとまわり小さく、甘い。それに、色は赤よりも黄色に近かった。ハーシェルはこの果物をとても気に入り、三つも買ってしまった。ちなみに、食べ切れるのかどうかはまた別の話だ。

 ふらふらと興味の向くままに寄り道をするハーシェルに、ラルサは「この調子じゃ、城に着くのは一週間後になっちまうぞ……」とあきれたように言った。ハーシェルはぴたり、とはしゃぎ回るのをやめたが、その後も好奇心が抑えらず駆け出してしまうことも多々あった。二、三回、迷子にさえなりかけた。



 そんなこんなで、王都セインを目の前にしたのは、アッシリアを出発してから三日目の昼過ぎだった。

 今、ハーシェルたちの目の前には巨大な門がそびえ立っていた。

 どっしりとした石造りの門は上がアーチ状になっており、両脇には二人の門番が槍を構えて立っている。これまで通ってきたどの町の入り口にも、このように立派な門はなかった。やはり、他の町と王都ではわけが違うようだ。

 ハーシェルたちはラルサを先頭に、堂々と門の真ん中を通過しようとした。

 その時、右側にいた門番の男に声をかけられた。

「おい、ちょっと待て」

 ハーシェルたちが立ち止まると、門番はすたすたとこちらへ歩いてやってきた。

 何か悪いことでもしたのだろうか。門番は厳しい表情をしている。

「ここでは、検問を受けなければ中へ入ることは許されない。何か身分を証明できるものや、紹介状はお持ちか?」

 え、とハーシェルは驚いた。

 周りを見回してみると、確かに、門番たちは門から出て行く人々については特に気に留めないが、入る人々については検問を行っているようだ。ちょうどハーシェルの後ろあたりでも、荷車を引いた商人風の男が左の門番に検問を受けている。

 まさか、ラルサはそのことを忘れていたのだろうか。

 疑いの目でハーシェルがラルサを見上げていると、ラルサは、ああっ! と何かを思い出したようにポンと手を打った。

「そう言えば、ナイルを出てから外してたんだったな。えーっと、どこにしまったっけな……」

 馬から下りると、ラルサは荷物の中を何やらごそごそと探し始めた。

 リュックの外袋を片っ端から開け、中身を全部地面にひっくり返し、中に入っていた巾着袋を探ったり、服のポケットを裏返したりする。

 無惨に地面に放り出された荷物の数々をひと目見て、ラルサが普段どれほど荷物の整理をしていないのかが、ハーシェルにさえ分かった。

 マイペースに荷物の間を探すラルサを、ハーシェルはあきれたように、セミアはただ静かな様子で、門番は胡散臭そうな表情で見守った。

 それから約五分後、どこから取り出したのか、「あったあった」と言いながら、何かを手に取ったラルサがのん気に立ち上がった。

 手のひらに収まるほどの小さなそれを門番に見せると、門番はぎょっとした様子で姿勢を正して敬礼した。

「これは、大変失礼をいたしました!」

 ハーシェルはびっくりして、ぽかん、と口を開けた。

 ラルサはなんとはなしに「いいや、こちらこそ悪かった」と言うと、地面に広げた荷物をあっという間にもとの状態に戻していった。量の割に片づけが早いのは、何も考えずにぽんぽんとリュックや袋の中に放り込んでいっているからだろう。だから、あとで物を探すはめになるのだが。

 最後に「あ、そうだそうだ」と地面に残った手紙を拾い上げると、少し土を払って門番に渡した。

「これを、あとで王宮へ届けてくれ。急ぎではないから、手が空いている時でかまわんよ」

「はっ、かしこまりました!」

 手紙を受け取った門番は、ぴしっと直立して言った。

 ラルサが馬にまたがると、今度こそハーシェルたちは門をくぐり抜けた。

 ラルサの前で馬に揺られながら、ハーシェルが尋ねた。

「ねえ、さっきのなんだったの?」

「ああ、あれな」

 ラルサが後ろでうなずいた。

「これのせいだよ」

 ハーシェルが振り向くと、ラルサの手が胸元の小さなバッジを指し示していた。青い花のマークが描かれた盾に、金色のつるが絡みついたような形をしている。

「これはいわば、俺の身分を証明するもんだ。王家に仕える者の証とも言える。これをつけていれば、いちいち検問を受けずに通過することができるんだ。……俺はまあ、城ではそこそこ高い位だから、門番の兄ちゃんはあんな態度をとったんだろうよ」

 ラルサは、謙遜するようにちょっと言葉をにごして言った。

 横に並んだセミアが、微笑んで言葉をつけ足した。

「ラルサは将軍なのよ」

「ショウグン……?」

 聞き慣れない言葉に、ハーシェルはきょとんとした。

「ナイルの兵士や軍隊の中で、一番えらい人のことよ。たくさんの兵士たちに戦い方を教えたり、指揮したりしているの」

「へぇ……」

 目をぱちくりさせ、ちょっと感動したようにハーシェルが言った。

 大食いで大ざっぱで、底抜けに陽気なラルサだが、城では随分と立派な人のようだ。

 門の先は、幅広い石造りの橋になっていた。馬で荷を引いた商人や旅人、観光客など、さまざまな人々が往来している。

 そしてその橋の先に、先ほどくぐり抜けた門とは別に、少し小さめの門が建っていた。こちらの門には、特に門番のような者はついていないようだ。

 前を行く荷車に続き、ハーシェルたちはその門の下をくぐった。

「わぁ……」

 門の先の光景を目にしたハーシェルは、思わず感嘆の声をもらした。

 後ろで、ラルサがニッと笑った。

「ようこそ、王都セインへ」

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