第9話 目覚める

  

 *  *  *



 その日の夜のこと。

 ハーシェルとセミアは床に就いていた。と言っても、眠っているのは母のセミアだけで、ハーシェルは布団をかぶったままぱっちり目を開いていた。時々あることだが、たまたまセミアの方が先に眠りについてしまったのだ。

 まだちっとも寝る気のしないハーシェルは、横になったまま明日のことを考えていた。昼にウィルと遊んだときに、明日一緒に市に行く約束をしてきたのだ。


『市場か……。楽しそうだね』

 ハーシェルの提案に、ウィルは表情を明るくして言った。

 ハーシェルは目をキラキラとさせた。

『でしょでしょっ? 明日あるから、一緒に行こうよ』

『そうだね。でも……』

 ウィルは何か悩むように少し黙ったが、気を変えたのか笑って言った。

『うん、行くよ。一人で行くよりは楽しそうだ』

 ハーシェルは驚いて、一人で行ったことがあるの? と尋ねたが、『え、うん、まあ』と妙に落ち着かなげに言葉を返されただけだった。

 通い慣れているハーシェルでさえ、一人で山を下りようとなど考えたこともない。道に迷わない自信はあったが、七歳のハーシェルにとってはやはり遠いし、不安だ。同じ山に住んでいるウィルも、市場までの道のりはハーシェルとそう変わらないはずだが――


(ウィルって、意外と行動力あるような……)

 ハーシェルは天井の木目をにらんだ。

 まあ、しょっちゅう一人で山道をくぐってハーシェルのところまで来るくらいだ。町に下りることも、似たようなものなのかもしれない。

 ハーシェルは寝返りを打ってセミアと向かい合った。

 暗闇に目が慣れてきたハーシェルには、その表情がはっきりと見えた。形のよい唇をかすかに開け、きれいに整ったまつ毛がわずかに上下している。

「お母さん」

 なんとはなしに、ハーシェルは母の名を呼んでみた。しかしその声が届いている様子はなく、規則正しい静かな寝息ばかりが聞こえてくる。

(つまんないなぁ……)

 横向きになっている母の胸からは瑠璃色の石がすべり落ち、布団の上に転がっていた。深い瑠璃色の海の周りを、薄い霧が覆い隠すように白くうず巻いている。暗くてはっきりと色は見えないものの、いつも眺めているハーシェルにとっては、その色が今もよく見えているような気がした。

 あまりに暇だったハーシェルは、なんとなく手を伸ばして石に触れてみた。

 ――その時だった。

 突然、すーっと霧が晴れるように、石の表面の白いもやがゆっくりと動きながら消えていった。かと思うと、石の中心から全体にかけて白い光が勢いよくあふれ出した。石が熱を持ったように熱くなる。光は部屋全体を青白く照らし出し、小屋のすき間から幾筋もの光となって外に飛び出した。

 ハーシェルは「わっ!」と叫んで石から手を離した。

 しかし、手を離したところで光が消えることはなかった。むしろその勢いを増している。あまりの眩しさに、ハーシェルは目を開けているのがやっとだった。

 セミアも、その明るさに気づいて慌てて飛び起きた。

「いけない!」

 セミアはすぐさま自分の手で輝く石を覆い隠した。それでも光はあふれんばかりに手の中から漏れ出していたが、幾分いくぶんかはマシになった。

 二人で息をのんで見守っていると、やがて徐々に光は弱まっていき、部屋は再び暗闇に包まれた。

 セミアは恐る恐るといったふうに、ゆっくりと手の中を開いた。石は、光を失って静かにそこに横たわっている。

 セミアはそれを確認すると、黙って近くに置いてあった手持ち用の小さなランプに火を灯した。二人の周囲がほんのりとだいだい色の明かりに包まれる。

 明かりの中で石を目にしたハーシェルは、その石が光り輝く前と今では全く違っているように感じた。

 まず、明らかに変化しているのは色だ。謎めいた雰囲気の深い青が、ずいぶんとすっきりした明るい青になっている気がする。

(……いや、違う。色が変わったんじゃない。もようが変わったんだ)

 瑠璃色の周りを覆うようにあった、うっすらとした白が見事に消え去り、あとにはもともとあった青だけが残されている。すっきりして見えたのは、このせいだったのだ。

 さらに、気のせいではないかと思えるほどわずかではあるが、石がかすかに光っている。青の色自体が変わったのではない。白が消え、石が薄く光っているがために、色が変化したように錯覚したのだ。

 そして、もう一つ。見た目以上に大きく異なっていることがあった。

 石に、ものすごい生命力を感じるのだ。

 光る前はただの物体だったはずのものが、まるでどこからか命を吹き込まれたように息づいている。

(この石、生きている……)

 なぜそう思うのかはよく分からなかったが、ハーシェルは確信をもってそう感じた。

「石が目覚めた……」

 セミアが石を見つめたまま、放心したようにつぶやいた。

 それから、きっ、と表情を変えると、ハーシェルと向かい合って言った。

「こうしてはいられないわ。いい、ハーシェル、今から私が話すことをよく聞きなさい。あなたにずっと黙っていたことがあるの。どっちにしろ明日の朝には話すつもりだったけれど、少し早めなくてはいけなくなったわ。あまり時間がないから、絶対に口を挟まないこと。質問は全部移動中に聞くから。いい?」

「移動……?」

 ハーシェルは聞き返そうとしたが、「いい?」ともう一度セミアに厳しい表情でさとされると、突いて出てきそうになる言葉を飲み込んで、黙ってうなずいた。

 セミアは、すぅーっと深く息を吸って話し始めた。

「今から七年前、この国の隣にある大帝国――ナイル帝国と、その西のミスク共和国の間で戦争があったの。ほとんど不意打ちの状態で襲われたナイルの王宮内は、それは慌てたわ。民を先に避難させていたのが、唯一の救いだった。けれど、王宮の人々はまだ逃げてはいなかった。王宮を落とされるなんて、よっぽどの時だけですもの。だけど、ミスクの勢力は予想以上に大きく、その上同盟国に出兵していたせいで、国に残っていたナイル兵は少なかった。王宮にまで戦が及ぶ危険性が生じたのよ。そこで、王妃とまだ赤子だった王女は、安全のため国外へ避難した。……このアッシリア王国へ」

 セミアは、そこでいったん言葉を止めた。

 ハーシェルは、セミアの話を難しい顔をして真剣に聞きながらも、なぜ母は自分にこんな話をするのだろうといぶかしんだ。国同士の戦の話や、そこから逃れた王妃と王女の話が、いったい自分にどう関係しているというのだろう?

 そして次に母が発した言葉は、ハーシェルにとってはにわかには信じがたいものだった。

「私たちがその王妃と王女、アッシリアに逃れてきたナイルの正統な王族なのよ」

 ハーシェルは、ぽかんと口を開けてセミアを見つめた。

 今、母はなんと言ったのだろう。ナイルの、正統な王族……?

 続けて、セミアは静かな表情でハーシェルに言った。

「それに、私たちの姓は『エリス』じゃない。正しくは『ルイス』。あなたはナイル帝国でただ一人しかいない、王女なの」

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