第10話 逃げる者、追う者
ナイルの、王女……
「……それじゃハーシェル、お姫さま?」
ハーシェルは裏返ったような声で言った。
「そうよ」
セミアの明るい茶色の目は、真剣そのものだった。
ハーシェルはセミアと同じ色、セミアより少しだけ大きい瞳をめいっぱいに開いた。
「きれいな服を着て、おいしいものいっぱい食べて、広い広いお城に住んだりするの?」
ハーシェルが想像するお姫様とは、そのようなものだった。母が寝る前に時々読み聞かせてくれた、物語の中に登場するお姫様たちだ。だが、それはあくまでも遠い国の、遠い世界の物語で、自分とはまるでかけ離れたものだった。
「そうよ」
セミアがまたうなずいた。
ハーシェルはさらに大きく目を見開いた。
「……すごい」
それは、女の子なら誰もが一度はあこがれる夢のような世界だ。ハーシェルはそんな世界を想像して幸せに頬がゆるみかけたが、あることに気づくと、笑顔も浮き立つ心も急速にしぼんでいった。
「待って」
ハーシェルの顔からは、もはや血の気が失われていた。
「『そうよ』ってどういうこと? それじゃ、まるでハーシェルたちがここから出て行くみたいじゃない。だって、お姫さまって、お城にいるものなんでしょう?」
ハーシェルがこわごわと尋ねた。
セミアは悲しみとも、哀れみともとれる表情をハーシェルに向けた。
「戦争は終わったのよ。私たちは、帰らなければならない。ラルサがここへ来たのは、それを知らせるためよ。だから言ったでしょう? 移動するって」
それは、ハーシェルにとって死刑の最終宣告も同然の言葉だった。
「いやよ!」
ハーシェルは布団の上に立ち上がって叫んだ。
「ここを出て行くなんて、絶対にいや! それなら、お姫さまなんかじゃなくっていい。このままここにいる方が、ずっといいもん! ここを離れるのはいや。ウィルに会えなくなるのもいや! 明日、一緒に市場に行くって約束したもん! 絶対に、いや!」
ハーシェルはそれからしばらく、いや、いやを繰り返した。
セミアはただ黙っていた。厳しい口調でさとそうとすることもなければ、なぐさめることもなかった。
それが、逆にハーシェルを落ち着かせた。何も返事が返ってこないのだから、必然的に、言い返す言葉も生まれない。
言葉はだんだんしりすぼみになっていき、やがてハーシェルはあきらめたように何も言わなくなった。
どちらも言葉を交わさないまま、数十秒か、数分の時が流れた。ハーシェルには、どのくらい経ったのか分からなかった。
ハーシェルがぽつりとつぶやいた。
「ナイルって、遠いの? ときどき、ウィルに会いにここに戻ってこられる?」
セミアは、なぜか深くため息をついた。
「距離的には、戻るのが不可能なほど遠くはないわ。アッシリアの本当にすぐ隣だもの」
「じゃあ――」
ハーシェルは顔を明るくして言いかけた。
しかし、セミアは暗い表情のままハーシェルの言葉をさえぎった。
「だけどね、やっぱり不可能なことなのよ。アッシリアとナイルの間には、それ以上に大きな問題があるの。距離が近いことなんて、何の意味ももたない。一度アッシリアを出てしまえば、戻るのは絶対に無理な話だわ」
どうして、とハーシェルが聞いた。
セミアはしばし言いにくそうに口をつぐんだが、やがて重い口調で答えた。
「――アッシリアは、ナイルの敵国なのよ」
ハーシェルの顔に驚きの表情が広がった。
その時、とんとん、と木の戸をノックする音が小屋に響いた。
二人はびっくりして体を縮み上がらせた。
時刻はもう夜の九時を過ぎている。いつもとは違うことが起こっていることもあいまって、二人は不意打ちの訪問者に異常な警戒心を抱いた。セミアはドアの方向を見つめたまま身じろぎもしない。
しかし、声は意外とすぐに聞こえてきた。
「セミア様、わたくしです」
ラルサの声だ。
セミアはホッと息を抜くと、立ち上がりながら言った。
「ちょっと待ってて」
セミアは早足に寝室から出て行った。ハーシェルもセミアに続き、少し遅れて部屋から出る。
そこでは、ちょうどラルサが周囲にちらちらと視線を配りながら戸を閉めている最中だった。戸を閉めた後、ラルサは横板を引いて鍵をかけることも忘れなかった。
戸が閉まるやいなや、セミアが口を開いた。
「ラルサ、よかった、来てくれて。大変なの。石が――」
「石が、目覚めた?」
セミアの言葉をつぎ、ラルサが振り向いて言った。
セミアはちょっと驚いたような顔をした。
「ものすごい光でしたからね。明日に備えて、馬屋で最終確認をしていたら簡単に見えましたよ。山の中のこの小屋の方向から、光が放たれているのが。派手に光ったのが、不幸中の幸いといいますか、それもまた不幸といいますか……」
ラルサは困ったように眉にしわを寄せて、右手で
それから、ちらりと石に目をやって言った。
「この子が石に触れたことは?」
セミアは首を横に振った。
「いいえ。おそらく、今回が初めてだと思うわ」
「そうですか。この子が石に触れたことが起因と考えて、まず間違いはないでしょうね。しかしまあ、二百年もの長い間眠っていた石を、こうもたやすく目覚めさせてしまうとは。この子はいったい……」
ラルサは考え込むように黙った。しかし、すぐに顔を上げた。
「とにかく、すぐにアッシリアの者がやってきます。あの光で誰も気づかないはずがございません。出立のご準備を」
セミアはうなずくと、台所の戸棚から大きなリュックサックを取り出した。その中からたっぷりとした茶色のマントを引っ張り出すと、寝衣の上から体に巻きつけるように羽織る。そしてもうひとつ、今度は少し小さめのマントを出してハーシェルに着せ始めた。
「これから長い旅になるけれど、あなたは何も心配しなくていいからね。お母さんの膝でずっと眠っているといいわ。そうしたら、きっとすぐに着くから」
セミアはハーシェルにマントを着せ終えると、立ち上がってリュックサックを背負った。マントを出したせいか、その大きさはずい分としぼんでいた。必要最低限のものしか入れていないようだ。
「あっ、いけない。寝室のランプをつけっぱなしだったわ」
セミアはハッとして言うと、急いで寝室の方に戻ろうとした。
その時、それまでやけに静かだったハーシェルが、ふいに口を開いた。
「……約束、したのに」
セミアは足を止めて振り返った。また、髭をなでつけながら考えにふけっていたラルサも、顔を上げてハーシェルを見た。
ハーシェルは、どこかぼんやりとした表情をしていた。
「ずっと一緒にいるって。来年も再来年も、鬼ごっこして、川で遊んで、一緒にアップルパイ食べるって。約束――」
ハーシェルの両目に、ふわっと涙が浮かび上がる。
そして、そのまま眠るように気を失った。
ハーシェルの後ろには、たった今軽く首筋に手刀を入れたラルサが、その小さな体を支えながら立っていた。
「手荒なことをしてすみません。でも、こうしてあげた方がこの子のためだと思ったので……。見ていられなくて」
ラルサは、いたたまれないような表情をして言った。
セミアは首を振った。
「いいえ、いいのよ。私もその方がいいと思うわ。このままでは、ハーシェルの心が悲しみでつぶれてしまう」
「運命とは、いささか残酷だとは思われませんか? この子が無邪気な笑顔で野原で遊んでいるのを見ると、時々そう思うことがあるのです。子どもらしく自由で平穏な毎日を過ごしてきたのに、そのままでありたいと願っても、これからはただの子どもでいることさえできない……」
ラルサはハーシェルの頭をそっとなでながら、悲しげに言った。
あどけない表情で眠っているハーシェルはまだ幼く、頬には涙のあとが残っている。
これからこの子に訪れるであろう試練を考えると、ラルサは不敏に思えてしかたがなかった。
「……石まで目覚めさせてしまった上に、唯一の友達にも二度と会えないかもしれない。この子は、運命に耐えていけるでしょうか?」
さぞかし娘が心配だろうと思いながらセミアの顔を見て、ラルサは驚いた。
意外にも、セミアはラルサほど心配そうな表情はしていなかった。むしろその瞳はまっすぐとして気丈で、今朝までの不安そうな顔が嘘のようだ。
「いいえ、ハーシェルはそんなことでへこたれたりしないわ」
セミアは、ラルサに向かって微笑んで見せさえした。
「私の子ですもの」
その姿を見て、ラルサはなぜか妙に納得してしまった。
一人赤ん坊を抱きかかえたままこの小屋にたどり着き、今朝までの心配をものともせず自分の娘を心から信じる強さをもっている。そんな母の娘なら、大丈夫だという気がしたのだ。
(相変わらず、見かけによらず心がお強いお方だ……)
ハーシェルのことを心配して弱っていたのは、自分の方なのかもしれない。ラルサは表情を改めると言った。
「では、ランプを消したらすぐに出発いたしましょう。もしも追っ手が来たときは……いいですね?」
セミアはしっかりとうなずいた。
「ええ。あなたを置いて全力で逃げるわ」
「……あの、もう少しわたくしのことを心配するそぶりを見せてくださっても。あってはいるんですが」
ラルサがしぶい顔で言った。
「あら、だって心配したってしょうがないじゃないの。私はきっとハーシェルを守るのに必死だもの。それに、あなたは死なない。そうでしょう?」
セミアはいたずらっぽく笑った。その言葉からは、ラルサに対する全信頼が見てとれた。
「ええ、そうですね」
ラルサは目をわずかに細めて微笑んだ。
セミアがランプを消すと、三人は小屋を出た。
晴れた空にはまんまるにほど近い月が輝いている。野原に咲き渡る花は、みなその花びらを閉じて静かに眠っていた。
小屋の前では、ラルサが引き連れて来た二頭の馬が並んで立っていた。馬の片方には、すでに荷物がくくりつけられている。
セミアはラルサのリードも待たずにさっさと荷物がない方の馬に乗り上がると、見慣れた小屋を振り返った。
使い古した箒、壁板の補修の跡、中からよく子どもたちを眺めた窓。そのひとつひとつに、今ではひどくいとおしさを感じる。
仮の住まいではあったけれど、七年経った今、この小屋はハーシェルだけでなくセミアにとっても“家”そのものであった。ここを離れたら最後、この小屋はもう誰のものでもなくなってしまうのだろう。しかしまたいつか、花咲く野原の中で、誰かが偶然この小屋を見つける時が来るのかもしれない。
「では、いいですか?」
自分の前にハーシェルを座らせ、ラルサがセミアを振り返って言った。
セミアは小屋から目を離して前を向くと、覚悟を決めたようにうなずいた。
二頭の馬が一列となって、月明かりを頼りに夜の野原を駆け下りる。その先には、底知れぬ闇をたたえた深い森が待っていた。
セミアはもう、振り返らなかった。
* * *
セミアたちがアイリスの野から消えてまだ数分と経たぬ頃。
アイリスの野には、セミアたちと入れかわるように、暗褐色のマントに身を包んだ男たちが荒々しい様子で現れていた。人数は七、八名で、胸にはそれぞれワシの翼をかたどった銀の紋章――アッシリア王家直属の部下であることを示す紋章が、月明かりに照らされて光っている。
男たちはすぐに丘の頂上に立つ小屋を見つけると、一人を先頭に馬で丘の上を駆け上がった。小屋の前に着くと先頭の男は後ろの三人にその場に残るよう指示し、残りの数名を連れて小屋に入った。
男たちは乱暴にドアを開け、土足のままずかずかと部屋に上がり込んだ。
部屋にはまだ生活の跡が残っており、洗った皿や使い込んだフライパン、テーブルの上には花を生けた花瓶がある。花はまだほとんどしおれていない。
窓辺には、きれいに編み込まれた花冠が一つ置かれてあった。この家の住人が作ったものだろうか。窓から差し込む月明かりにちょうど照らされて、暗い部屋の中でくっきりと白く浮かび上がっている。
それらにざっと目を通すと、次に男たちは寝室に入った。ほんのついさっきまでそこで寝ていたかのように跡の残った布団、そして、その側には手持ち用の小さなランプが立っている。
「ちっ、逃げられたか……」
クローゼットの中やカーテンの裏など、人が隠れられそうな箇所を隈なく物色したあと、部下の一人が舌打ちをして言った。
仲間に指示を出していた男はかがんでランプに手を伸ばすと、丸みを帯びたガラスにそっと触れた。その感覚にすっと目を細める。
「まだ温かい……」
男は立ち上がると、険しい表情で仲間の方を振り向いた。
「探せ。まだそう遠くへは行っていないはずだ。急げ!」
男たちは短く返事をすると、すばやく小屋を出て馬に再びまたがった。
隊を二人ずつに組み直すと、リーダーの「散れ」という一言と同時に、男たちは一斉に放射状になって斜面を駆け下りた。
そのうちの一つは、真っ直ぐにハーシェルたちが進んだのと同じ方向へと向かって行った――
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