第四章 約束
第7話 出立の準備
それからというもの、近くの町に宿をとっているというラルサは、毎日のようにハーシェルの家にやって来た。宿をとってからは、馬ではなく歩いて来るようになっていた。「いっそここに泊まればいいのに……」とセミアは言った。男一人分の寝るスペースくらいあるのだ。しかしラルサは、「王妃様とわたくしが同じ部屋で寝るなど、めっそうもございません!」と、瞬時に提案を断った。
ラルサは、小屋を訪れてはよくハーシェルやウィルと遊んだ。小屋の外で追いかけっこをしたり、そりすべりをしたり。特にそりすべりは、今までに二人がやったことも、考えたこともなかった遊びだったので大興奮した。
「こうやって、この箱を縦に切って広げるだろう?」
ラルサはこの日、町から厚い紙でできた大きな箱を二つほど持ってきていた。市場でいらなくなったものをもらってきたのだ。普段は、この中に果物や野菜などが詰め込まれている。
「そして、ここをこうくっつけて……ひもを通せば……」
ラルサは意外にも器用な手つきで、その箱を折ったり、切ったりを繰り返した。ただの箱だったはずのものが組み合わされて、徐々に別の形のものへと作り変えられていく。
しばらくすると、それは立派なそりへと
わぁっ、とハーシェルたちが歓声を上げた。
「そんじゃ、行くぞ!」
そりを脇に抱えたラルサを先頭に、三人は小屋の外へと走り出ると、ラルサは野原の傾斜にそりを置いた。
そしてその上に座ると、ハーシェルたちを手招きした。
「さあ、嬢ちゃんたちも乗るんだ」
まだハーシェルのことを「姫」と呼ぶわけにはいかないので、ラルサはハーシェルのことを「嬢ちゃん」と呼んでいた。セミアには先に無礼を謝っておいた。ちなみにウィルのことは、「ウィル坊」と呼んで親しんでいた。
『ええ⁉』
ハーシェルとウィルは同時に声を上げて驚いた。どう見ても、三人で乗るには狭すぎるのだ。
「お前ら二人ともちっこいから大丈夫だ! そら、乗った乗った」
ハーシェルが先に乗り込み、ウィルがそれに続いた。確かにぎりぎりだが、なんとか三人とも乗ることができた。ハーシェルが先頭で、ウィルが二人の板ばさみになるような形になった。
ラルサがひもを持ち、他の二人もひもやらそりの縁やらをつかんだ。
「しっかりつかまってるんだぞー! 行っくぞー、三、二、一……」
『うわぁーっ!』
子どもたちの叫び声が、澄んだ青空を突き抜けて響き渡った。
最初は怖がっていたものの、それはすぐに興奮へと変わった。二人は味をしめて、何度もそりで丘をすべった。遊び疲れたハーシェルはその晩、夕食も食べないで気を失うようにぱたん、と布団の上に倒れた。そして、そのまま朝まで眠りこけてしまった。
三人で近くの川に遊びに行ったこともあった。いつもは母がついてきたが、今回はハーシェルとウィル、ラルサの三人だ。ラルサは手づかみで魚を捕まえて見せ、ハーシェルとウィルを大いに驚かせた。負けじと二人も挑戦したが、すばしっこい魚をつかまえることは思った以上に難しかった。しまいには、魚に向かって飛びかかったハーシェルは勢い余って水の中へ転び、服を全部濡らしてしまった。怒られることを覚悟して家に帰ったが、セミアは「派手にやったわね」と言って笑っただけだった。
そんな日々が続き、約一週間が経とうとしていた。
今朝も、ラルサはハーシェルの小屋を訪れ、セミアと椅子に座ってお茶をしていた。
「本当に、いつもありがとう。ハーシェルたちと遊んでくれて。あの子たち、最近とても楽しそうだわ」
セミアが紅茶をすすりながら言った。
ラルサは首を横に振った。
「いいえ、そのように感謝されるほどのことはしていませんよ。『遊んであげている』なんて感覚は全くありませんからね。子どもたちよりも自分の方が楽しんで遊んでいるのではないか、なんて思うこともしょっちゅうですよ。あ、でも嬢……ハーシェル様には、かないませんね。あの子は何に対しても全力で楽しんでいる……いえ、いらっしゃる」
ラルサは言葉につっかえながら言った。
セミアはふふっ、と笑った。
「無理しなくてもいいのよ」
「わたくしにも、あの子とそう年が離れていない息子がいるもので。子どもと遊ぶことには慣れているのです」
そう言って、ラルサも少しお茶をすすった。
「では、早く息子さんに会ってあげなくてはね。もう一ヶ月もあなたの帰りを待っているんですもの」
「――セミア様」
ラルサはかたん、と紅茶のカップを机の上に置いた。
それから、決然とした表情でセミアをまっすぐに見て言った。
「明日の早朝、ここを発とうと思います」
夜に出て行くことも考えたが、夜では逆に怪しまれやすい。朝ならば、少し遠出をする、とでも考えれば、全く不自然な行動ではない。それがラルサの考えだった。
「荷物と……心のご準備を」
ラルサはかなり心構えをして言ったのだが、セミアは特に驚いてはいなかった。
ただ、そんな気遣いをしてくれるラルサを安心させるように微笑んだ。
「心の準備なら、とっくにできてるわ。私も、そろそろ頃合いだと思っていたの。あとは荷物の準備と……」
(――ハーシェル)
セミアは心の中でつぶやいた。
あの子に、本当のことを話さなければならない。本当のことを知ったら、あの子はどんな顔をするだろうか。自分がお姫様であると知って、喜ぶ?
……いや。きっとひどく驚き、悲しげな表情をするだろう。ハーシェルは、この野原とウィルのことが大好きなのだから。この場所を去ることは、とてもつらいことに違いない。その上、ここへ戻ってこられることは、決してないのだ。
それに、セミアはもう一つ心配していることがあった。果たして、ハーシェルは王宮の暮らしに上手く馴染めるのだろうか。山で自由奔放に育ってきたハーシェルにとって、王宮での暮らしは堅苦しいはずだ。
ラルサはセミアの考えていることを察してか、黙ったまま何も言わなかった。「大丈夫ですよ」なんて、言えるわけもない。
ふと、ラルサが言った。
「そう言えば、嬢……ハーシェル様は、一人で外に出て何をしておいでなのですか? もう一時間以上、部屋にお戻りになっていませんが」
「さあ? どうしてかしらね」
セミアはとぼけた。
ハーシェルは、セミアにこっそりある『計画』を話してからというもの、毎朝一人で外の草むらに座り込んでいた。時々立ち上がっては、アイリスの花を何本か摘んでいる。そして最後には、必ずこそこそと小屋の裏に何かを隠しているのだった。
ずっとハーシェルが行っていたこの行動の意味は、今日の昼、ウィルがハーシェルの家にやって来た時にすべて明らかになる。
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