第4話 りんごのその先
立ち上がって辺りを見回して初めて、ハーシェルは自分がちょっとおかしな状況にあることに気がついた。
人々が道を開けるように広く両脇に控え、その道の中央には立派な
そしてなんと、ハーシェルはその人たちの真ん前にいた。
ハーシェルは思わずぽかん、とその団体を見上げて立ち尽くした。
かなりまずい状況にいるということが、子どものハーシェルには、ましてや普段山に住んでいる田舎の子どもには分からなかった。
鎧の男がダンッと槍先を地面に打ちつけた。
「王様の御輿をお止めするとは何たる無礼! 控えよ!」
槍先についた深緑の旗には、二枚の羽を広げたような形をした銀のマークが描かれている。
ハーシェルは槍の音にびくっと体を震わせ、恐ろしさにしどろもどろなりながら言った。
「……えっと、あ、ごめんなさ……」
「誠に申し訳ありませぬ!」
その時、セミアが突然ハーシェルの前に飛び出し、身体を地面につけて頭を下げた。
「このたびは、この母の不注意のために起こったこと。ですから、今回だけはどうかこの子の無礼をお見逃し下さい! 罰するなら、娘でなくこの母をお罰し下さい」
ひれ伏して頭を下げる母に、ハーシェルは心臓が飛び出るほど驚いた。
母はいったい、何をしているのだろう。母ではなく、悪いのは自分だと叫びたかった。母はちゃんと自分を止めようとしたのだ。言うことを聞かずに勝手に飛び出していったのは自分だ。
しかしハーシェルは、なぜか一言も口を出すことができなかった。
ハーシェルは、両手で持ったりんごをぎゅうっと握り締めた。
「しかしだな――」
男は言いかけたが、輿の人物がその言葉を遮った。
「もうよい。たかが子どもではないか。時間を無駄にするな」
重々しく、低い声だった。まるで地面の底から響いてくるようだ、とハーシェルは思った。
「……っ! はっ、申し訳ございません」
男は王に軽く頭を下げた。
「そこをどけ。邪魔だ」
男はしっしとハーシェルたちに向かって手で追い払う仕草をした。
「ありがとうございます……!」
セミアはもう一度深く頭を下げて立ち上がると、逃げ込むように人ごみの中へとハーシェルの手を引っ張った。
あまりに強く引いたので、人ごみの中に入る直前に、またハーシェルの片手からりんごが転がり落ちた。しかしその場を去ることに必死なセミアはそれに気づくことはなく、またハーシェルも、そんなことはどうでもよくなっていた。
王をひと目見ようと集まっていた人々の集団を抜けても、市場の中ごろに来ても、セミアは何も言わなかった。
市場を出る頃になると、ハーシェルはさすがに不安になってきた。
どうして母は何も言わないのだろう? それに、母が怯えているような気がするのは気のせいだろうか? 自分の手を握る母の手は、わずかではあるが震えていた。
「お母さん……」
ハーシェルが不安げにセミアを見上げて呼びかけた。
セミアは振り向きもせずに、ただ前を向いてハーシェルを引っ張っていく。
「お母さん、ごめんな――」
「ハーシェル! あなたは自分が何をしたか分かっているの⁉」
人通りの少ないところまで来ると、セミアはハーシェルの方を振り向いて怒鳴った。
ハーシェルは突然の母の怒りに、びっくりして体を縮めた。
「あなたは、とってもとっても危険な行為をしたのよ? 殺されていたかもしれないのよ? お母さんはハーシェルが走り出した時に止めたわよね、『待って』って。あんなに人の多い中、何があるかも分からないのに、一人で勝手に行ってしまってはだめでしょう⁉ 迷子になってしまうかもしれない。いいえ、迷子ならまだいいわ。まったくよりにもよって王様の一行の前に飛び出すなんて、ましてやあなたは――」
セミアは急に口をつぐんだ。
(まあ、気づかれてはいないようだし……)
「……とにかく、もうこんなことは絶対にしないこと。分かった?」
「……はい……」
ハーシェルが消え入りそうなほど小さな声で言った。
ひどく打ちひしがれている様子のハーシェルに、セミアは気後れしたようにはっ、と表情を変えた。
セミアは頬をゆるめて、しょんぼりとしたハーシェルの頭を優しくなでた。
「ごめんね、少し怒りすぎちゃったわね。走って行った先に、あんなにえらい人たちがいるとは思わないものね。今日は町の視察かしら? ……あら、そう言えばりんごはどうしたの? 拾ったと思ったけれど」
「落としちゃった」
「あらら。りんごを追って行ったのに、りんごも取れず、お母さんにも怒られちゃって、今朝は散々だったわねぇ。でもきっとその分、これからはもっといいことがあるわ。悪運は全部使い果たしちゃったもの」
ちょっと笑顔が戻ってきたハーシェルに、セミアはうなずいて、微笑んだ。
家が近づいてくると、ハーシェルは母の手を離して走り出した。
すぐに森が開け、目の前には花が点々と咲いているいつもの野原が現れた。
しかし、一つだけいつもと様子が違っていることがあった。小屋の隣に、茶色い毛並みの馬が繋がれているのだ。
ハーシェルは小屋の方を見上げて首を傾げた。
(馬? なんで……)
怪訝に思いながら野原を駆け上がり、小屋の戸に手を掛けようとした時、ハーシェルは戸がわずかに開いていることに気づいた。今日は慌てて出かけたわけではないし、母はきちんと戸を閉めたはずだ。
ますます不審に思い、戸のすき間からこっそり部屋の中をのぞいてみた。
中を見て、ハーシェルは目を丸くした。
そこには男が一人、見物でもするようにゆっくりと部屋の中を眺め歩いていた。
かなり背が高く、大柄のその男は口のまわりにはふさふさと茶色い髭が蓄えられている。目は鋭くはないが、にらまれたら怖そうだ。まるで熊のようだ。
(どろぼうだ)
とっさにハーシェルは思った。
他に、勝手に人の家に入って、部屋を眺めまわすのに理由などあろうか。
ハーシェルは、外用に立てかけてある
扉をばっと開けて、ハーシェルは部屋の中へ飛び込んだ。
「やぁー!」
箒を振り上げ、泥棒めがけて勢いよく振り下ろす。
「ん? ……うわ⁉ なんっ、いてっ」
振り向いた男は、不意打ちを食らって見事に額の真ん中に箒の柄を叩きつけられた。本当は頭を叩こうとしたのだが、高すぎて届かなかったのだ。
男は額を手でさすりながらうめいた。
「いててて……お嬢ちゃん、なかなかやるなぁ。箒でも凶器に変われるって教えてくれたのは、お嬢ちゃんが初めてだぜ」
子どもの力とはいえ、本気で振り下ろされた箒はかなり痛かった。ましてや固い柄の部分だからなおさらだ。
「おじさん、どろぼうでしょ! うちにとるものなんか、なんにもないよっ。出てって!」
ハーシェルが箒を構えたまま言った。
「泥棒……?」
男はきょとんとした。それからふっと吹き出すと、声を上げて笑い出した。
「ふはははっ! 泥棒かっ……くくっ、まあ確かに、無理もないかもな。こんな髭づらの怪しいおじさんが、部屋でうろうろしてりゃ、誰でも泥棒だと思うわな」
男は笑いながら言った。
「え、違うの……?」
今度はハーシェルがきょとん、とする番だった。
「それにしても、なかなか勇気のある子だ! 泥棒に向かって箒一本で立ち向かってくるとは。お父上の娘だけある」
お父上、という言葉がハーシェルの頭に引っかかった。この人は、父のことを知っているのだろうか……?
ハーシェルが口を開きかけた時、セミアが小屋に入ってきた。
セミアは男を一目見ると、驚いたように固まった。
「ラルサ……ラルサじゃないの!」
「お久しぶりです、セミアさん。お元気でしたか?」
男が顔をほころばせて言う。
ハーシェルは驚いた。
「え⁉ お母さん、この人知ってるの?」
「ええ、私の――昔の知り合いの、ラルサよ」
よろしくな、とラルサはニカッと笑った。
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