第二章 市場と王様

第3話 朝市

 翌朝、ハーシェルはいつもより早く目を覚ました。

 外はまだ薄暗く、日はほとんど昇っていない。

 隣を見ると、母は静かに寝息を立てて眠っていた。

 やはり、いつもの首飾りをしたままだ。首飾りと言っても、銀色のチェーンの先に瑠璃色の石がぶら下がっているだけという、簡素なものだ。母は常にこの首飾りを身につけており、首飾りをしていない姿などほとんど見たことがない。きっと、とても大切なものなのだろう。

 そして、それはハーシェルにとっても同じだった。

 石は、人から見れば地味で平凡なものだが、ハーシェルにはそうは思えなかった。青は青でも、どこまでも深く、それを白い霧が隠すような色合いをしており、神秘的な雰囲気を醸し出している。似たような石は市場にもたくさんあるが、この石には他の宝石類とはどこか違う魅力が、確かにあった。

 ハーシェルは、母の胸に下がっているこの石をよく眺めていた。

 しかし、今晩は少し違った。

(……え?)

 ハーシェルは、目を見張って石を見つめ直した。

 今、模様が動いた……?

 石の白いもやのような部分が、あたかも自然な霧のように石の中で動いているように見えたのだ。

 しかし、石はいたっていつも通りで、何も動いてはいなかった。

(気のせい?)

 今まで、石を眺めていてこんなことは一度もなかった。きっと、布団にくるまったままで、うとうとしていたせいだろう。

 そのためか、数秒後にはそんなことは忘れ、意識は夢の世界へと旅立っていた。

 次に気がついた時には、もう完全に日が昇っていた。小鳥たちの高いさえずり声が聞こえる。

 ハーシェルはぼんやりと目を開けた。

(……もう朝? そういえば、今日は市場に行くんだっけ……。――あ! まずい!)

 ハーシェルは慌てて飛び起きた。

 そして、まだ隣で眠っているセミアを残したまま、外へと出て行った。



 セミアが目を覚ますと、隣にいるはずのハーシェルがいなかった。

 寝衣はきちんと畳まれていたので、不思議に思って外に出てみると、ハーシェルは地面の上に座り込んで何やらやっていた。

「ハーシェル、今日は早いのね。……何をやっているの?」

 ハーシェルは、セミアの声にくるりと振り向いた。背中に何か隠しているようだ。両手が背中から出ていない。

 ハーシェルは話そうか迷うように口ごもっていたが、しばらくして決心したように口を開いた。

「あのね、ウィルには内緒よ……?」

 そして、ハーシェルはセミアにちょっとした"計画"を話した。

 計画を聞いたセミアは、微笑んで言った。

「それはきっと、ウィルくんも喜ぶわね」

「うん!」

 ハーシェルが嬉しそうに答えた。

「今日は、早めに朝ごはんにするわよ。市場に出かける日ですからね」

 ハーシェルはちらっ、とさっきいじっていた草むらの方を見た。

「もうちょっとしたら、行く」

「わかったわ。じゃあ、が終わったら戻ってらっしゃい」

 セミアは草むらの方に目をやった。

 はーい、とハーシェルが答えると、セミアは朝食の準備のために小屋へと戻って行った。



 朝の市場は大変人で賑わっている。

 普段は人通りの少ない静かな場所でも、この週一回開かれる市の時だけは、様変わりしたように活気あふれる場となる。石畳みの通りにはずらりとテントが張られ、野菜や果物、衣類などを求めて市場は人でごった返している。

 この市場に集まるのは、主にここ、エルベの町の人々だ。エルベは、どちらかと言えば田舎の小さな町だ。だが、ハーシェルはその中でも町とは言えないような山奥に住んでいるので、ここに来るためには三十分ほど歩いて山を下らなければならない。しかし今ではもう慣れたもので、ハーシェルはそれほど遠いとは感じていなかった。

 朝に最も人が多い理由は、昼や夕方になると目当てのものが売れてしまう可能性があるからだ。だから、欲しいものや良いものを手に入れたい人々は、みんな朝に集まる。

 ハーシェルたちの目的は主に普段の食事の材料だけなので、特別朝早くに来る必要はない。だが、昼だとウィルが来る可能性があるし、朝の方が食材が新鮮なのも確かだ。

 ハーシェルは、この人でごった返す賑やかな市場が嫌いではなかった。客寄せの明るい声や、様々な人々の会話が作り上げる活気ある雰囲気は、いつもハーシェルを楽しい気分にさせてくれた。

「ねえママ、あれほしいー」

 小さな男の子が母親の手を引いて、しきりに店の食べ物を指差す。母親は困ったような顔で立ち止まり、反対の手をつないだ父親は「この前食べたばかりじゃないか。食いしん坊だなぁ」と言って笑った。

 ハーシェルはじっとその家族を見つめていた。

「……ねぇお母さん、お父さんにはいつ会えるの?」

 ふと、ハーシェルが聞いた。

 ハーシェルは生まれてから一度も、父親に会った記憶がなかった。母は、お父さんは遠い所で仕事をしているから、忙しくてなかなか帰って来られないのよ、と言っていた。

 そして、母からはいつも決まった返事が返ってくるのだった。

「そうね、もうすぐ会えると思うわ」

 セミアは、はぐれないようにつないでいるハーシェルの手をぎゅっと握って言った。

 もうすぐ? もうすぐっていつなんだろう。一週間後? それとも、一年後?

 母は、もう何年も前から同じ答えを返している。最近では、ハーシェルは母の言う「もうすぐ」という言葉の意味がよく分からなくなっていた。

 母はこの話をする時、決まって不安で、落ち着きがなくて、どこか寂しげな表情をする。そのせいもあって、母にそんな表情をさせたくないハーシェルはこの質問を避けるようになっていた。しかし、違う答えが聞けはしないだろうかと、思わずまた聞いてしまったのだった。

「ハーシェルは、お母さんと二人で暮らしていて寂しい?」

 セミアが言った。

 ハーシェルはぶんぶんと首を横に振った。

 寂しいわけがなかった。母は明るくて優しいし、それにウィルもいる。ウィルが来てからというもの毎日遊ぶことに忙しく、寂しさを感じる暇もなかった。

 ただ、時々市場や町で父親がいる家族を見ると、会ったこともない父親が少し恋しくなることがあるのだ。父に会ったことのないハーシェルには、父親がどういうものなのか正直よく分からない。しかし、いると分かっているのに会えないというのは、何だかいじらしかった。

「そう。よかったわ」

 セミアは、それなら言うことなし、というように微笑んだ。

 ハーシェルは母の顔を見上げた。

(だけど、お母さんは寂しそうに見える……)

「あら、いらっしゃいエリスさん」

 商品が入った箱から顔を上げ、店のおばさんが陽気な笑顔でハーシェルたちを迎えた。

 二人は果物屋の前にたどり着いていた。木箱のケースの中には、果物があふれんばかりに転がっている。色とりどりの果物が所せましと並べられた店内は、まるでカラフルな海のようだった。

 ちなみに、エリスとはセミアの姓の名だ。

「相変わらずべっぴんさんだねぇー。あたしなんか年々しわが増えるばかりで。ねぇ、あたし前にあなたに会った時、左目のここのしわあったと思う? なかったわよねえ? でも、ビタミンは毎日ちゃんととってるのよ。だって、果物にはたくさんのビタミンが含まれているんですもの。最近肌の張りもなくなってきた気がするし、やっぱり年のせいなのかしら……」

 果物屋のおばさんは、しばし考え込むように丸い頬に手を当て、首を傾げた。

 それから、はっとしたように手を離した。

「あらっ、いけないいけない。あたしったらまたおしゃべりに口がはしっちゃって。……今日は何にするかい? りんごはどう? ビタミンたっぷりだよ。まあ、あんたにゃ必要ないかもしれんが」

 ハーシェルは不思議そうな顔をしてセミアを見上げた。

「べっぴんさんってだあれ? お母さんの名前ってセミアだよね?」

「いいのよ、あなたは気にしなくて」

 セミアは慌てたように言った。

「――じゃあ、りんごを三つほどいただこうかしら。この前作ったアップルパイで切れちゃったから」

「わーいっ、りんごー!」

 セミアはお金とりんごを交換し、二人は「まいどありー」とおばさんの営業スマイルに見送られた。セミアはハーシェルの手をしっかりとつかみ直すと、再び人混みの中へまぎれた。

「お母さん、りんご食べていい?」

 店を出るなり、早速ハーシェルが言った。

「えっ、今?」

「うん」

 いつもなら、少なくとも食べづらい人ごみを抜けた帰り道に言うのに……。

 セミアは少し疑問に思ったが、その時、前方の石段に座っている二人の少年が目に入った。少年たちの片手には、それぞれかじりかけのりんごがある。

 なるほど、とセミアは理解して、袋の中からりんごを一つ取り出した。

「落とさないように気をつけるのよ」

 はーい、と言って、ハーシェルは小さな口を開けてりんごを一口かじった。

 食べ歩きながら前を見てみると、少年の片方はもうほとんどりんごを食べ終えている。二人は楽しそうに談笑していた。どうやら友達同士のようだ。

 (友達……)

 ハーシェルはあることを思いついた。

「ねぇお母さん、今度の市場はウィルをさそってもいい? ウィルと一緒に、市場をまわってみたいの!」

 これまで友達と一緒に市に来る、という考え方をしたことがなかったハーシェルは、自分の新しい思いつきに心を浮き立たせた。これまでずっと母としか来たことがなかったため、なぜか「市は母と行くもの」という習慣が染みついていたのだ。

「ウィルくんと?」

 セミアが聞き返した。

「ええ、いいわよ。じゃあ、来週の市の時はウィルくんも誘って一緒に行きましょうか」

「やったあ! 楽しみ」

 ハーシェルが喜んだ。

 それから二人は店を回っていくつかのじゃがいもとにんじん、それにハーシェルの服を縫うための布を買った。ハーシェルの服は、いつだって母親お手製のワンピースなのだ。

 ハーシェルは、その間ずっとウィルと市場を回ることを想像していた。あの少年たちみたいに、今度は自分がウィルと一緒にりんごを食べよう。どっちが速いか競争するのもいいかもしれない。それから、あちこちの珍しい物を見回って……。

 ハーシェルは、今から楽しみで仕方がなかった。

 目的のものをすべて買い終えたハーシェルたちは、家路へと足を向けた。

 ハーシェルが食べていたりんごはまだあまり進んでいなかった。左手で母の右手をつかみ、落っことしそうになりながらなんとか右手だけで食べているので、なかなか順調にいかないのだ。

 その時、通りの向こうが少しざわついていることに気づいた。人々が通りの向こうに集まって、しきりに何かを見ようとしている。何か行事でもやっているのだろうか。

「なにっ、そんなにおえらい方が来ているのか?」

「行ってみようぜ」

「こんな機会めったにないわ!」

 それまでバラバラだったはずの人の流れが、通りの向こうへ向けた流れへと徐々に統一され始める。

 その中の一人が、後ろからハーシェルの肩にどんっとぶつかってきた。

 ぶつかった拍子に、ハーシェルの右手からりんごが転がり落ちる。

「あっ」

 ハーシェルは短く声を上げた。

 りんごは、人々の足の間をするすると通り抜けて転がっていく。

「待って」

「あっ、ちょっと待ちなさいハーシェル!」

 セミアの制止をよそに、ハーシェルは母の手を離してりんごを追って走り出した。

 たくさんの人の足の間を、赤いりんごはするすると転がっていく。地面が斜めになっているせいもあって、りんごはどんどんとそのスピードを増していた。

 ハーシェルは小さな体で、人々の間をすり抜けながら走った。

 やがて地面が平坦になったその先で、りんごは動きを止めた。

 やった! と心の中で歓声を上げ、ハーシェルは人ごみをかき分けてりんごの前に飛び出た。

 落ちたりんごを拾い、転がる過程でついてしまった土をちょっと払う。まあ、これくらいなら、家に帰って洗えばなんとか食べられるだろう。

 セミアのところに戻ろうと、ハーシェルはりんごを持って立ち上がった。

「……?」

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