第2話 出会い
ハーシェルとウィルが出会ったのは、二人がまだ五歳の時だった。
母が昼食の準備をしている間、ハーシェルは小屋のすぐ外で一人で遊んでいた。
季節は春。辺りはぽかぽかと暖かい陽気に包まれている。蜂たちが飛び交い、たくさんの野花が花ひらく、生物たちの一番生き生きとした季節だ。
ハーシェルはしばらく草をいじったり、蝶を追いかけたりしていたが、やがてそれに飽きるとごろん、と地面に寝転がった。
青空の中を、わたがしのようにふわふわした雲がゆっくりと流れていく。春風が、そよそよとハーシェルと野原の上を散歩する。
ぼーっと雲を眺めていたハーシェルは、ふと、視界の端に何か白いものがあることに気がついた。
顔を横に向けてみると、すぐ隣には白くてかわいらしい、小さな一輪の花が咲いていた。突然、ハーシェルはこの野原にはこの花がたくさん咲いていることに気づいた。何という名前の花だっただろう。前に母が言っていた気がする。
その時、白い花の向こう側でキラッ、と何かが光った。
ハーシェルはよく見ようと体を起こしたが、再び目を向けると、そこには何も光ってはいなかった。
(……なんだろう? 気のせい?)
ハーシェルはしばらく首をひねっていたが、もしかして、と思いもう一度その場に寝転がってみた。
すると、確かにまたキラリ、と何かが光った。それは光ったり光らなかったりを繰り返していた。どうやらこの角度からしか見えないらしい。
光の根源は、丘を下った先の木々の向こうにあった。今自分がいるところからは少し離れていたが、気になったハーシェルは立ち上がって丘を下り始めた。
丘を下るにつれ、光の正体がだんだんと明らかになってきた。太陽の光が、池、または川の水できらきらと反射しているようだった。光ったり光らなかったりしていたのは、周囲の木々が風にゆられて時々水面を隠していたためであった。
ハーシェルは森に入る手前でいったん止まった。
もっと近くに行ってみたいが、これ以上進めばいつ戻ってこられるか分からない。もしかするともうすぐそこかもしれないし、数十分はかかる距離かもしれない。小さな光の輝きだけで距離を判断することは難しかった。
(昼ごはん、もうすぐできるかなぁ……)
それなら、そろそろ戻らないとと思いつつも、ハーシェルの心は好奇心でいっぱいだった。
森の向こうはどんな所なんだろう。川かな? 魚とか、いるのかな。
考えるより先に、ほとんど体が勝手に動いていた。ハーシェルは森の中に足を踏み入れた。森といってもあまり険しくはなく、幼い子どもが普通に進める程度にはひらけていた。だから、ハーシェルは気にせずにどんどん奥へ進んでいった。
途中で、「一人で森に入っちゃだめよ」と母が言っていたことを思い出した。少し罪悪感を抱いたものの、もう入っちゃったし、と思うと母の忠告はどこへやら、次の瞬間には完全に忘れ果てていた。
目的の場所へは十分ほどで着いた。
森がやや開けたところ。そこにあったのは……
「わぁ……」
ハーシェルの顔が笑みに崩れた。
――そこにあったのは、キラキラと輝く大きな池だった。
池の周囲には、薄青やピンクの水草や花が茂っている。空はほぼ木々で覆われており、その隙間から漏れ出す幾筋もの光が池をより一層美しくしていた。
ハーシェルは興奮で胸が高鳴るのを感じた。こんなにきれいな光景は、今まで目にしたことがない。
ハーシェルは興味津々に池に近づいた。
落ちないように気をつけながら水の中をのぞき込むと、小さな魚たちがハーシェルの目の前をすばやく走った。しかし動きの速い魚たちは、一瞬でどこかへ姿を消してしまう。
(どこ行っちゃったのかな……)
ハーシェルは消えた魚を追って、あまり深く考えずに池のふちに身を乗り出した。
その時、足が濡れた地面でずるっと滑った。
「……え?」
一瞬、時が止まったかのようだった。前のめりになったまま、行き場のない左足が宙に浮いている。
しかし次の瞬間、視界に水が迫り、身体は水の中へと転がり込んだ。
ハーシェルはその水の冷たさに驚いた。春で外が暖かいからといって、水は決して温かくはないのだ。
川で水浴び程度ならしたことがあるが、足の届かない水の中で泳いだことなど一度もない。
(あ、あがらなきゃ……!)
しかし身体は浮き沈みするだけで、まったく言うことをきかない。それどころか、服の重みで水面に顔を出せる時間はあっという間に短くなっていく。
ハーシェルがちらりと岸の方を見ると、岸は手を伸ばしても届きそうにない距離にあった。
(うそ⁉ あんなに近くにあったのに……!)
突然、恐怖が現実味を帯びてハーシェルを襲ってきた。岸に手が届けば、まだなんとかなると思っていたのだ。
冷たい水が口に入ってくるのを感じた。必死に息を吸おうとするが、入ってくるのは水ばかりだ。
もう、どうすることもできなかった。
「――?」
今、何か音がしたような……。
誰もいないはずの森の中で、男の子は辺りを見渡した。
しかし、周りの木々や植物は依然として静かで、そよ風に誘われてわずかにその葉がゆらいでいる程度だ。生物がいる気配すらない。
男の子は首を傾げた。
(確かに聞こえたんだけどなぁ……。何かが水の中に落ちたような、バシャッって音。でも、そもそもこんな所に水なんてあるのかな……)
男の子は、音がしたと思われる方向へ少し歩いてみた。すると、何かきらきらしたものが木の幹の向こうに見えた。まさか、本当に水があるのだろうか。
音も気になったが、のどが
すると、そこではのどの渇きなど吹っ飛ぶような事態が起きていた。
自分と同い歳くらいの女の子が、池でおぼれそうになっているのだ。もう、水面に顔を出すことさえままならない状態だ。
(どうしよう、早く助けないと!)
男の子はひとまず近くに落ちていた中で一番長い枝を取り、女の子の方へ駆け寄った。右手はそばにあった木の幹にしっかりとつかまり、枝を持った左手をできるだけ女の子の方へと伸ばす。
女の子は反射的に手を枝の方へ伸ばしたが、つかむにはわずかに遠かった。男の子は必死に腕を伸ばしたが、これ以上は近づけそうにもない。
ここで、男の子は作戦を変更した。
前のめりになっていた体をもとに戻し、靴と上着を脱ぎ捨てた。そして、すぐさま池に飛び込んだ。
冷たい水が体中にしみわたる。
男の子は、気力を振り絞って女の子のもとまで泳いでいった。
「……ねぇ、きみ! 大丈夫? ――起きてよ!」
女の子はぐったりとして動かない。意識はほとんどないように見えた。
(まさか――)
男の子はさーっと絶望が心の中に広がるのを感じた。男の子はその思いを必死に振り払うと、女の子を引っ張って泳ぎ出した。
人を引っ張りながら泳ぐのは始めてだったため、何度か女の子もろとも沈みかけてひやりとする。なんとか岸までたどり着くと、男の子は自分が先に上がって女の子を引っ張り上げた。さすがに重かったので、ほとんど引きずり上げるような形になった。
ようやく地面に寝かせることに成功すると、男の子はふらふらしながら立ち上がった。池から助ける過程でだいぶ体力を消耗していた。
しかし、意識のないまま放っておくわけにもいかない。誰か、人を呼ばないと――。
「だれか……だれかいませんかー⁉」
男の子は残った体力を振り絞り、精一杯の声を上げた。
――――……
返事はなかった。さすがに、こんな所にはだれもいないのか。
男の子はちらりと女の子の方を見た。
茶色い三つ編みの女の子は、静かに地面に横たわったままだ。
焦りと恐怖で頭がどうにかなりそうだった。
(お願いだ、生きていてくれ――)
男の子は女の子に背を向けて走り出した。
「だれか、いませんかー⁉」
力の限り叫びながら森の中を走る。だがいくら叫んでも、いっこうに人がいる気配はない。
そうして走り続けることしばらく。男の子がもうダメかとあきらめかけた頃、森のどこかから別の叫び声が耳に届いた。
急いで声のする方向へ行ってみると、そこではきれいな女の人がしきりに誰かの名前を呼んでいた。女の子と同じ色の茶色が、肩を過ぎて優しくウェーブしている。
「すいません! 女の子がっ……池で、女の子が……!」
息を切らしながら駆け寄り、男の子は言った。
女の人はひどく青ざめた表情で振り返った。男の子を見て、少し驚いたように目を見開く。
女の人は、すっと真剣な表情になった。
「案内して」
顔の端に何か当たったような気がして、ハーシェルは目を覚ました。
ゆっくり、ゆっくりと目を開く。
まず男の子の顔が目に入った。それから、その背後にある緑色の木々。顔は、頭の側に座っているので上下が逆さまだ。男の子のグレーの瞳が、静かにハーシェルの瞳をのぞき込んでいた。
ハーシェルの意識が戻ったことが分かると、男の子はほっとしたような表情をした。
「……よかった。気がついて」
その真っ黒な黒髪からは、ときおり雫がしたたり落ちていた。きっと、さっき顔に当たったのはこの雫だろう。
「きみのお母さんなら、今水を取りに行っているよ。もうすぐ戻ってくるころだと思う」
「――だあれ?」
「ぼくはウィル。きみは?」
ハーシェルは起き上がり、片目をこすりながら言った。
「ハーシェル」
それからというもの、ウィルはよくハーシェルの家に遊びに来るようになった。ハーシェルの家がある山と同じ山の村に住んでいるというウィルは、だいたい昼ごろにやってきて、夕方に帰っていくことが多い。親に手伝わされている仕事を、こっそり抜けてきているそうだ。
それから二年の月日が流れ、二人は今七歳になっていた。
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