第一章 アイリスの野
第1話 野原のふたり
晴れ渡った空の下、ここ、アイリスの野には春が訪れていた。
そこはアッシリア王国の山奥、木々が少々開けたところにあり、ゆるく傾斜した野原は小さな丘のようになっている。点々とある草花は生き生きとして咲き誇り、そよ風に吹かれて揺れている。蝶や蜂たちは蜜を求めて花の間を飛び交い、その周囲では、木々が春を歓迎するようにさわさわとさやいでいた。
傾斜した野原を登ったところには、小さな小屋が立っていた。煙突から煙が出ているところを見ると、何か料理を作っているらしい。
その小屋から少し離れた所に、二人の子どもが並んで座っていた。一人は、二つくくりの茶色の三つ編みに、それと同じ茶色い目の女の子。もう一人は、黒髪にグレーの瞳の男の子だ。
二人は、手に同じ小さな白い花を持っていた。そして、二人ともその花を必死に編んでいる。冠にするつもりなのだ。
しばらくして、ついに女の子の方が編み終わって声を上げた。
「でっきたぁ―! ほら見て! やっぱりハーシェルの方が早かった。まあ最初から、ウィルに負けるなんて思ってなかったけど?」
くやしいでしょ、と女の子が得意げに男の子の方に花の冠を掲げた。
それを見て、男の子――ウィルは、少し眉をひそめた。
「いや、うん、くやしいって言いたいとこだけど……その出来じゃあなぁ。ハーシェルは確かに編むのは速いけど、どう見てもぼくの方がうまくできてるよ」
ほら、とウィルはハーシェルに自分の編みかけの冠を見せた。
あちこちに花がバラバラに飛び出て、何度か触るとすぐに解けてしまいそうなハーシェルの冠に比べ、ウィルの冠はしっかりとしていて、見た目にもきれいだった。
ハーシェルはうっ、と息をつまらせた。
「で、でも、ハーシェルの冠はちゃんと完成してるし……それに、アイリスの花って、あんまり冠作るのに向いてないと思うし」
ハーシェルが食い下がった。
「今さら何言ってるんだよ。この花で冠を作りたいって言い出したのはきみだろう?」
ウィルがあきれたように言った。
確かにそうだった。町で花の冠を頭にのせている子どもを見て、ハーシェルも冠を作りたいと言い出したのだ。
ハーシェルたちが編んでいるアイリスの花は、編むには少し短く、冠作りに向いているとは言えなかったが、ハーシェルはこの花がとても好きだった。だから、どこにでも咲いている普通の花だが、どうしてもこの花で編みたいと思った。
ハーシェルの家の周りにはたくさんのアイリスの花が咲いている。だから、ハーシェルたちは小屋を含め、このあたり一帯の場所のことを「アイリスの野」と呼んでいた。
そして、ときどきウィルとこうしてアイリスの花で冠を編むようになったのだ。やり方は母に教えてもらい、ウィルに伝えたのだが、ウィルの方が断然上手かった。
「だけど、前よりうまくなったと思うよ。前はもっとゆるくて、ハーシェルがぼくに見せようとした時点ではずれちゃったもん」
「うん……。でも、あの町の女の子がつけてた冠はもっと立派で、きれいだったなぁ。やっぱりまだまだダメね」
ハーシェルはちょっとしゅんとして言った。
「ハーシェルは、一回に編む本数が少ないんだよ。……それと、競争はやめるべきだな。速さばっかりが上がる。そうしたら、いつかぼくよりうまくなるよ」
「別に、ウィルに負けたとは思ってないけど?」
ハーシェルはきっ、とウィルをにらみつけた。
「え? そうだったの? てっきり、ぼくに負けたから悔しがってるのかと……」
ハーシェルが言い返そうと口を開いた時、後ろの小屋の方から声が飛んできた。
「ハーシェルー、アップルパイ焼けたわよー」
振り向くと、ハーシェルの母のセミアが小屋の窓からひょこっと顔を出している。セミアの優しくウェーブした茶色の髪が、風にふわふわと揺れていた。
「わかったー! すぐに行くー!」
ハーシェルもセミアの方に向かって叫び返した。
それから、ウィルの方に向き直って嬉しそうに言った。
「やった、アップルパイだって。久しぶりだね」
「そうだね」
ウィルが言った。
母は、ときどきハーシェルとウィルに手料理のお菓子を振る舞ってくれる。
中でもアップルパイは絶品で、ハーシェルの大好物だった。しかし最近は食べていない。
「行こう、ウィル」
ハーシェルは編んだ冠を横に置いて立ち上がろうとしたが、その前に頭の上に何かがふわりとかかった。
触ってみると、さっきウィルが編んでいた冠が完成してハーシェルの頭の上にのっていた。
「それ、あげるよ。今までで一番うまく編めたから」
ウィルが笑って言った。
「ありがとう」
ハーシェルも嬉しそうに笑った。
それから、冠を頭にのせたまま今度こそ立ち上がった。ウィルもほとんど同時に立ち上がった。
「だけど、背はやっぱりハーシェルの方が高いね」
ハーシェルがウィルの頭の先の方を見て言った。
「高いって……ほとんど変わらないじゃないか」
「でも、高いのは高いんだもん。――はやく行こう。パイ冷めちゃうよ」
ハーシェルはウィルの手を取って走り出した。
春の暖かい風が心地よく二人に吹きつける。丘の上を一気に駆け上がると、ハーシェルは小屋の戸を押し開けた。
開くと同時に、二人は甘いパイの香りに包まれた。
セミアは、キッチンにある食事用のテーブルの上でアップルパイを切り分けている最中だった。キッチンと言っても、この小屋には風呂場やトイレを除いて部屋は二つしかない。キッチンは普段ハーシェルとセミアがくつろぐ場所なので、食事以外のときは居間とも言える。その奥には寝室があり、床に布団を敷いて寝ている。小屋の中では、基本靴を脱いで生活していた。
「お母さん、ハーシェル二個食べてもいい?」
ハーシェルが靴を脱ぎながら母に尋ねた。
「あら、だめよ。だってあなた、いつも二個目の途中でお腹いっぱいになって残しちゃうじゃない」
セミアは少し眉をひそめて言った。
「えー」
ハーシェルが頬をふくらませる。
「大丈夫、ハーシェルの分までぼくが二個食べてあげるから」
ウィルも靴を脱ぎ、おじゃまします、と言って部屋に上がった。
「むかつく」
ハーシェルはますます頬をふくらませた。
それからハーシェルは、カタンッ、と椅子を引いて自分の席につき、ウィルもいつものようにその隣の椅子に座った。
セミアは二人の前にパイを並べ、自分もハーシェルの向かい側の席について言った。
「どうぞ召し上がれ」
『いただきまーす!』
ハーシェルとウィルは、同時に手を合わせて言った。
ハーシェルはパイを手に取って口に入れた。底の生地はサクッとしていて、りんごはとろけるように甘く、出来立てのためほかほかしていた。
「おいしいー!」
ハーシェルが目をキラキラさせて言った。
ウィルも隣でうんうん頷いて同意した。
「うん、本当においしい」
「喜んでくれてよかったわ」
セミアがにっこり笑った。
それから二人はしばらく夢中でアップルパイを食べた。
二人がアップルパイを食べるのを微笑んで眺めていたセミアは、少しして、ふとハーシェルの頭の上にあるものに目を留めた。
「――そう言えば、さっきからしてるその冠、ハーシェルが編んだの?」
セミアが尋ねた。
「ううん、ウィルにもらったの!」
首を横に振り、ハーシェルは嬉しそうに答えた。
「そう、よく似合ってるわ」
セミアが微笑んだ。
ハーシェルはえへへ、と少し照れたように頬を緩めた。そして残り一口のパイを大事そうに食べ、空になった皿を母に突き出す。
「お母さんおかわり!」
「だめ」
「……」
即答だった。
いつもの流れで、さっきの会話を忘れてつい二個目を差し出すものと思っていたが……。ハーシェルの考えが甘かった。
「で、でも、ハーシェル全然お腹いっぱいになってないよ? ぺこぺこだもん! うん。そうだよ。今日はまだまだいけそうな気が――」
「だーめ。今まで何回もおかわりしてきて、最後まで食べ切れたことは?」
「……。……ない、けど」
母に言い包められて、うなだれる。反論のしようがない。
さらにそこで、嫌味のようにウィルが割り込んできた。
「まあファーヘル、ふぉんふぁに落ひこんふぁって。ゔぉくが――(ウィル、パイを飲み込む)……ぼくが、きみの代わりに食べてあげるからさ。おばさん、おかわり下さい」
もぐもぐ言いながらハーシェルに続いてパイを食べ終わったウィルが、セミアに皿を渡す。
「はいはい、おかわりね」
セミアは笑顔であっさりとウィルから皿を受け取り、新たにパイをのせる。
その様子を見て、ハーシェルは苛立つように体を揺らした。
「えー、ウィルずるい、ずるいっ」
「あら、ずるくなんかないわよ。ウィルくんは二つでお腹いっぱい。ハーシェルは一つでお腹いっぱい。それぞれの体で食べられる量は違うのだから、それに合わせるのは、平等でしょう?」
なんだかすごくもっともなことを言われたような気がしたが、ハーシェルの苛立ちは治まらなかった。
「でも……」
セミアがウィルに皿を渡す。ウィルは皿を受け取る前に、ちらっとハーシェルを見た。ハーシェルにはその目が、「やーい、くやしいだろ」と言っているように見えた。
それからウィルは受け取った皿を自分の前に置いて、手を合わせた。
「いただきます」
ウィルはパイに手を伸ばした。
その時、突然ガタンッと音を立ててハーシェルが立ち上がった。
ウィルはぴくり、と手を止め、セミアは驚いたようにハーシェルを見た。
「……先に外行ってる」
ウィルが得意げに隣でパイを食べるのを見ていられるか。
ハーシェルは自分の空になった皿を取り、流しの上に置いた。それから戸口に向かっていると、背中越しにセミアが言った。
「ハーシェル、自分のお皿は自分で洗いなさい」
この小屋では自分のことは自分でする、というのが決まりで、ハーシェルはいつもきちんと自分の皿を洗っていた。ウィルはさすがに客なのでセミアが洗おうとしたが、ウィルも押し切って自分で洗っていた。
「あとでやる」
そう言うと、ハーシェルは靴を履いて小屋から出た。
バタンッ、と少し大きな音を立てて戸が閉まる。二人はハーシェルが出て行った戸を無言で見つめた。
「……ちょっとやり過ぎたかしら。まあ、気にしないで。そのうちあの子の機嫌も治るわよ」
セミアは椅子から立ち上がり、ハーシェルの皿洗いに取りかかった。「あとで」と言ったら、たいていやらないのがハーシェルなのだ。
「どうしたの、ウィルくん。お腹でも痛いの?」
さっきは手を伸ばしかけていたのに、なぜだかウィルは全くパイを食べようとしない。ただ、少し考え込むような表情でパイを見つめていた。
セミアには、ウィルが考えていることが分かるような気がした。
そして、ウィルは手つかずのパイから顔を上げ、セミアが思った通りのことを言った。
「このパイ、二つに切り分けてもらえませんか?」
セミアはちょっとウィルの顔を見つめた。それから、にっこりと笑って言った。
「ええ、いいわよ」
ハーシェルは小屋から少し下った野原に座り込み、近くの花びらを舞う蝶をぼんやりと眺めていた。
蝶の動きは予測できない。隣でひらひらしているかと思えば、いつの間にか先の方でひらひらしている。黄色い花の方へ行くのかと思いきや、急に方向転換して白い花の上にとまる。蝶は結構気まぐれ屋さんなのかもしれない。
蝶を眺めるのにも飽きて、ハーシェルはそのままどさっと後ろに倒れた。野原の景色から一転して、雲ひとつない空が視界いっぱいに広がる。すると、その何も動くものがない空色一色の景色の中に、どこからかまた蝶が迷い込んできた。
あなたは一体、どこへ行くつもり?
「……」
ウィルとはたいてい何かをして遊んでいるが、ときたま、お菓子が焼けるのを待つ間などに、草の上でぼーっとして時間を過ごすことがある。その時は全く暇だとか、つまらないとか感じたことはなかったのだが、今はとにかく暇だった。
やっていることは同じなのに、ウィルがいないだけでこんなに違うことが、ハーシェルは不思議だった。だいたい、ウィルとは何もしなくても、一緒にいるだけで楽しいのだ。
早くウィル来ないかな――
蝶があちらこちら舞いながら、だんだん隅の方へとそれていき……視界から、消えた。
その時、蝶と入れ替わるように、ひょっこりとウィルが顔をのぞかせた。
「ハーシェル」
「わっ」
ハーシェルはびっくりして飛び起きた。
いつの間にか、ウィルが後ろに立っていた。ハーシェルは突然現れたウィルに腹を立て、いくらぼーっとしていたとはいえ、気がつかなかった自分にも腹を立てた。
「驚かさないでよ。ぜんぜん気づかなかったじゃない」
「そりゃ、気づかれないように来たんだもん。当然だよ。……お皿、おばさんが洗ってくれてたよ。だから、わざわざ洗いに戻る必要はないって」
「あとでやるって言ったのに」
ハーシェルは唇をとがらせた。
「そう?」
ウィルが言った。全然信じていない口ぶりだ。
でも、どうして来たのだろう? いくらなんでも早すぎる気が……
そこで、やっとハーシェルはウィルが手に持っているものに気がついた。
アップルパイだ。しかしさっきハーシェルが見た大きさとは全く違っていて、小さなパイを二つ、片手ずつに持っていた。おそらく母に切り分けてもらったのだろう。
「……それ」
ハーシェルはパイの方を見て言った。
「ああ、これ? 一人で食べてもつまんないなと思って。……だからほら、あげるよ」
ウィルは何でもないことのように淡々と言い、ハーシェルにパイの片方を渡した。
ハーシェルは思わずパイを受け取った。まだ、パイはほんのりと温かかった。
「それに、半分だったら最後まで食べられるだろう?」
ちょっと驚いたようなハーシェルの顔に、ウィルはにっこりと笑いかけた。
それからウィルはハーシェルの隣にすとんっと座り、小さなパイを食べ始めた。
ハーシェルは、なんと言葉を返したらよいのか分からず、戸惑ったようにその様子を見つめていた。ウィルが自分に気を遣ってくれたのは確かだが、素直に『ありがとう』と言うのも何だか小っ恥ずかしい。何しろ、さっき少々荒々しく家を出て行った後なのだ。
ウィルは、パイを手に固まっているハーシェルを見た。
「ハーシェルも早く食べなよ。冷めちゃうよ」
まるでわかっている、というようにウィルが笑って言った。
その時、ハーシェルはお礼も謝罪も必要ないということに気がついた。
思えば、いつもそうだ。ハーシェルが何かの気持ちを押さえ込んでいる時も、隠している時も、無意識な感情さえも、ハーシェルが何も言わなくても理解してくれる。母が理解してくれない時でも、ウィルは必ずちゃんと分かってくれる。不思議だと思いつつも、ハーシェルはそれを心地よいと感じていた。
そうなったのは、一体いつからなのだろう?
手に持ったパイをさくり、と一口かじる。りんごの甘みがやさしく舌の上に広がる。
ハーシェルはその味に少し首を傾げた。
さっき食べた時よりもおいしい気がするのは、気のせいだろうか。
ウィルがときどきいじわるだったり、からかってきたりしても、本当は優しいことをハーシェルは知っていた。今だって、パイの残りを切り分けて自分に持ってきてくれた。森で迷子になった時も、最後まで自分を探してくれた。出会った時も――
(そう言えば、ウィルがいなかったら……)
「……どうしたの?」
「え?」
ウィルを見ると、ウィルは問いかけるようにハーシェルを見ていた。そこで、ハーシェルはパイを食べる自分の手が止まっていることに気づいた。
「あ、ううん、何でもない。……パイ、おいしいね」
「うん」
そして、ハーシェルはそんなウィルのことが、
「ねえ、さっきのよりおいしい気がするんだけど、ぼくの気のせいだと思う?」
ウィルのことが、
――大好きだった。
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