瑠璃の王石

鈴草 結花

第一部 王女の帰還

◇ 序章

 『ナイル帝国』。

 そこは、周辺の国々の中で最も大きな領土を誇る大帝国である。

 気温は一年を通してほぼ暖かく、南西部には砂漠が広がっている。その領土の広大さから、風土の違いや小ぜり合いこそあれ、他国との交流も盛んなこの国は多くの物と人々の活気に満ちており、街はいつも人々の笑顔で溢れていた。

 ――しかし今、街は静寂に包まれていた。

 いくら耳を澄ましても、聞こえるのは石畳みの通りを吹き抜ける風の音だけ。

 いつもとは対照的なこの寂しげな街には、今、誰もいなかった。



  ……そう、ナイルでは、戦争が始まろうとしていた――――



   *  *  *



 その頃、ナイルの王宮では盛大な祝いが開かれていた。

 場所は大広間。王宮の多くの場所は主に金と白で彩られているが、ここもその一つである。高い天井は大きなドーム型になっており、古代の神々の姿が鮮やかに描かれている。大理石の床は中心から外側にかけて複雑な円形模様が描かれ、太く白い柱には繊細な彫刻が施されていた。

 そこは多くの人で賑わい、互いに喜びを分かち合っていた。王族や貴族だけでなく、武官や文官、医者や女官など、王宮の様々な身分の人々が入り混じっている。

 この光景を見て、この国に戦争が迫っていると考える者はまずいないだろう。しかし彼らは皆、決して戦争のことを忘れているわけではなかった。その証拠に、祝いの宴には欠かせないはずの酒が全く見当たらない。また、豪華な料理もそう多くは振る舞われてはいなかった。兵士たちの食料のためだ。

 だがそれらを除けば、普段の宴と何も変わらず、今だけは人々には何の不安もないように思われた。そして、それほどの喜びをもたらしたものは――

「ナイルの姫、バンザーイ!」

「新しい王女の誕生に!」

 人々が口々に叫んだ。その視線の先にいるのは、きらびやかな衣装を身にまとった男女――この国の王と王妃、それに王妃の腕に抱かれている王女だった。

 彼らは今、大広間の壇上へと続く階段からゆっくりと降りている最中だった。そして三人も、さまざまに喜び合っている人々の中へと加わった。

 途端に、直接祝辞を述べようと、また一目赤子を見ようと多くの人が三人の周囲へ集まった。これも身分にさほど差はなかった。宴の席では身分の差を取り払い、皆で祝福するというのがナイルの伝統であった。

「王女がご無事に誕生されたこと、お祝い申し上げます、アスリエル王」

 近衛隊長のサラバンが王の前へ進み出て言った。

 アスリエルは軽く微笑んだ。

「ああ、確かにそうだな。何にしろ、無事に生まれてくれたことが一番嬉しい。特にこの時期とあっては。……ところでサラバン、民の避難は全て終えたか?」

「はい、王」

 サラバンが即答した。

「西方の国境付近の町はもちろんのこと、城下町の人々まで、全て他国あるいは辺境地へ避難を終えました」

「そうか。まあ、ミスク軍もまさかここまでは来るまいが、念を入れるのに越したことはない。――民は、この国にたった今王女が誕生したとなど、思ってもみないだろうな」

「ええ、本当に。しかし、民の避難が間に合って良かったです。あの間者が口を割らなければ、間違いなく不意打ちでしたよ」

「間者は一週間後と言ったが、それが事実かは分からぬ。三日後か、もっと早い可能性もある。決して油断してはならぬぞ」

 はい、とサラバンが口を開こうとした時、突然耳をつんざくような泣き声が辺りに響き渡った。

 びっくりしてサラバンが王の隣を見ると、王妃の腕の中で赤ん坊が大きな声を上げて泣いていた。

 赤ん坊の側に立っている男を一目見たアスリエルは、すぐに状況を察した。男は赤ん坊の顔を見ようと少し顔を近づけていたが、泣き声とともにぎょっとしたようにのけぞり、今はしょんぼりと打ちひしがれた表情をしている。

 王妃は大丈夫よ、と男に向かって笑いながら赤ん坊をあやしていた。

「ラルサ、だから前から言っているだろう。いい加減にひげをそれと」

 アスリエルがあきれたように言った。

 ラルサと呼ばれた男は、熊のようにふさふさと生えている自分の口髭をいじりながら不満そうに言った。

「いいじゃないですか、髭くらい。髭があるからこそ男ってもんですよ。それに案外役に立つかもしれませんよ? この髭面大男を一目見れば、敵も恐れを成して逃げること間違いなし!」

 ラルサは得意げに言い切ったが、それからちょっと自信を失くしたようにつぶやいた。

「しかし、まさか王女様に嫌われてしまうとは……。そろそろ髭、そるか」

 その頃、王妃セミアは赤ん坊をあやしながら若い侍女たちとおしゃべりをしていた。

 これまであまり王妃と接する機会のなかった侍女たちであったが、最初はたどたどしく緊張していたものの会話が弾み、今ではさほど気兼ねせずに会話できるようになっていた。

「本当におめでとうございます、王妃様」

「ありがとう」

 セミアがにっこりと微笑んだ。

「とても王妃様に似ておいでですね」

「きっとお美しくなられますわ」

 侍女たちが赤ん坊を見ながらはしゃいだ様子で言った。

「ところで王妃様、もう姫の名前は決めておいでで?」

 セミアがうなずいた。

「ええ。この子の名は――」

 その時、大広間の一番奥の扉が大きな音を立てて開いた。セミアが立っている場所からずっと進んだ、ちょうど真正面に位置する扉だ。

 音に驚いた人々は、皆話をやめて扉の方を見た。

 そこには、護衛兵のセスが大きく息を切らしながら立っていた。顔は焦りと緊張で張り詰めている。

「王!」

 セスが叫んだ。

「敵襲です! たった今見張りの兵より知らせが。どこから湧いて出たのか、その数は七万を優に超え、ヒーズ、レクサスの街を突破! ――真っすぐこの王都へと向かっています!」

 わずかな沈黙の間の後、状況を理解し始めた人々が徐々にざわめき始めた。さざ波のように広がった不安の声は、あっという間に広間を埋め尽くした。どこからか、女性のすすり泣き声が聞こえてくる。

「静まれ!」

 アスリエル王の朗々とした声が響いた。

 その声が広間の端まで届いた時には、あたりは水を打ったように静かになっていた。

 王のよく響く低い声には、一度言っただけで人々を従えてしまえるような威厳がある。こんな時なのに、いつものことながらセスは感心してしまった。

「セス、城にいる者たちをすぐに安全な場所へ避難させよ。サラバンはここにいる兵を全て集め、出兵の準備をさせよ。出来次第、すぐに出立させていい。ミスク軍には王都の地を一歩も踏ませてはならぬ。必ずや王都とこの城を守れ。指揮はそなたに任せる。ラルサ」

 アスリエルはラルサの方を見た。

 ラルサは腕を組んだまま、王の言葉を待つように柱にもたれて立っていた。

 その表情は、厳しいものの決して動揺してはいなかった。落ち着き払った冷静な表情は、いくつもの戦乱を戦い抜いてきた者だけが見せる顔だった。

 ラルサは王を見た。

「分かっていますよ。王妃を守れ、とおっしゃるんでしょう?」

「ああ。お前に頼むのが一番安心できる」

「いいのですか? 私が戦いに出なくても」

「きっとサラバンが上手くやってくれる」

 ラルサは王妃とその娘を見た。王妃は心配そうな表情でラルサを見つめている。

 王妃と姫を守る。それは戦いの中へ出て行くほど危険な行為ではないかもしれないが、守ることには重大な責任がついてくる。本気で守るならば、相当な覚悟が必要だ。

 だが、ラルサがそんなことを考えたのはほんの一瞬だった。

「もちろん、やりますよ。この命に替えてでも、最後まで守り通して見せましょう」

 アスリエルは、ほっ、と息をついた。

「感謝する」

「では、セミア様も皆と一緒に隣国のリディアへ……」

「いや待て」

 アスリエルは、早速避難部隊へ加わろうとするラルサを止めた。

「何です?」

 ラルサが足を止めて振り向いた。

「――アッシリアだ」

「は?」

「リディアではなく、アッシリアへ行け」

「……は……はあ⁉」

 ラルサは驚いて王に詰め寄った。

「アッシリアですって!? お気は確かですか? あの国は……」

「逆に気づかれにくいだろう? リディア? そんな国、ミスクでなくとも容易く予想できる」

「し、しかしですね……」

「いいか、よく聞け」

 アスリエルはラルサに一歩近づき、その褐色の瞳を真っすぐに見据えた。

「もしこのナイルが戦に負け城を落とされたら、ミスクは必ず王妃を探す。真っ先に探すのはリディアだろう。ナイルの同盟国であるし、距離的にも逃げやすいからな。だが、アッシリアは? どう考えても連中は探すまい」

 ラルサは納得しかけたが、まだ反論した。

「そうだとしても、危険過ぎます。第一、どうやって入るおつもりで――」

「私は、いい案だと思うわ」

 セミアが言った。

「あそこは、小さいけれど悪い国ではないわ。きっと、なんとかなるわよ」

 ラルサは少し考えるように口を閉じたが、やがて意を決したように言った。

「分かりました。セミア様がそうおっしゃるのなら」

「よし、決まりだ。……そうだ、」

 アスリエルは思い出したように自分の首に手を掛け、身につけていた首飾りを外した。銀色の鎖の先には、深い海の色をした石が下がっていた。

「これを持って行け」

 アスリエルは首飾りをセミアに渡した。

 受け取ったものの、セミアは戸惑ったようにアスリエルを見上げた。

「でも……これは……!」

「お守り代わりにくらいなるだろう」

 ナイル軍、いざ出陣! という声がどこからか聞こえてきた。人々は駆け回りつつも、避難民と出陣する者、城に残る者にだんだんとまとまりつつあった。いつ城に戻り、再会できるとも知れず、人々は別れを惜しむ間もなく自分の向かうべき場所へと向かう。

 そして、まもなく私もこの城から去らなければならない――

 セミアは目を伏せた。

 アスリエルがセミアをそっと抱き寄せた。セミアは驚いてアスリエルを見上げた。

「また会おう」

 また会おう。

 きっと会える、ではなく。

「ええ」

 セミアは腕の中でにっこりと微笑んだ。

 それからアスリエルから離れ、ラルサとともに人々の中へと去って行った。

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