第3話

「照りもせずくもりもはてぬ春の夜の、」

 何気なく諳んじてみる。次の授業の準備の手伝いなんて格好の大義名分を貰って、雨の日の化学準備室で二人きり。なにそれ、と呆れたように返してくる心地良い声は、やっぱりこういうことは知らない。

「源氏物語ですよ。主人公が都を追放されることになる不倫の、きっかけになる歌」

 ただの物語だ、と思う。晴れでも曇りでもないおぼろげな空こそ美しいという歌に惹かれておきながら、曖昧な状態で済ませずに更に踏み込んでしまう人間なんて、物語の中にしかいない。世間の目に晒されたときに蔑まれ嘲笑われる恋情は、育つことなんてない。

「確か、大事な人をわりと非合法な形で手に入れて、それなのに浮気するんだっけ?」

 頷こうとした。どうしようもないですよね、と話題を打ち切ろうとした。そのために、棚に入れる荷を取るふりをして屈みこんだ。けれど、その前に、声が降る。

「――理解出来るのは、前半だけかな」

 駄目だ、と思った。今顔を上げてしまったら、問いたくなる。そんな形で、手を取りたい相手がいるんですか、と。

「そ、うですか。よく分からない、ですね」

 どうにか絞り出した声に、そうだねと答えてくれる声はいつもどおりで、大きく息を吐き出した。

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Geister【←】 蒼城ルオ @sojoruo

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