アリスブルーの戒め
半年で社会人はなかなか変われないが、学生はそうではない。盆の帰省はそんな述懐を湧かせ心の裡の何かを少しずつ空けていくものだ。蝉時雨が遠く響く祖父母の家の居間での昼下がり、髪を明るい茶色に染めた従弟は、毎年変わらぬ挨拶を交わした後、薄い唇を開いた。
「姉さんが大学のときに髪染めてたの、真似するって決めてたんだ」
彼は両親の結婚から一年待たずに産まれた、三人兄弟の長男だ。実の姉などいるはずもなく、先の発言は我が一族で唯一未婚の女であり数年前まで「子供たちの中で一番年上で頭の良い子」であった私のことを指す。外界から隔絶された空間で読書の時間を享受していた副作用で凝り固まった首を回しながら、背丈だけは青年という形容が似合うようになった相手を眺める。
「似合ってるよ」
「派手すぎない?」
「派手すぎない」
語尾だけを変えて疑問を否定した。当世一の色男、とは親戚の欲目を以てしてもとても言えた顔ではないが、さしずめ流行りのドラマで名字だけ公開される脇役にでもいそうな、とは称賛できる洒落っ気はある。彼の黒髪を梳くように撫ぜるのがかつてささやかな楽しみだった、と柔らかな思い出が乾いていく心地を覚えるのは、余計な感傷だろう。
そっか、とはにかんだ従弟は、私が三人掛けのソファを占有する作業に戻ったと同時、隣に何の気負いもなく腰掛けた。煙草の薫りも香水の匂いも漂ってこないことに我知らずひとつ息をつく。
「何読んでるの?」
それは彼の口癖だった。もっとも、年に二度しか言わないのだから、そう認識しているのは私くらいのものだっただろう。スポーツであれば須らく愛する父親から産まれていながら、ボールにもラケットにも、いわんや駅伝の中継にも興味を示さなかった幼子は、絵本を両手で抱きしめては児童文庫を読み耽る従姉へと駆け寄り、粗筋の説明をねだったのだ。もちろん年の差が片手で余る子ども同士であれば噛み砕いて伝えることは至難の技であり、結局従弟の持って来た絵本の読み聞かせに終始していた。今思えば拙い育児ごっこに過ぎなかったが、やんちゃ盛りの彼の弟二人に手を焼いていた叔父達に感謝されて悪い気はしなかったし、そもそも自分に懐いてくれる従弟というのは、早々に反抗期を迎えた弟妹よりも可愛らしいものだ。それこそ物語の中で多用される、きらきらと、という形容詞が似つかわしい瞳を自分に向け、小さな足を遊ばせながら聞き入る姿は、純粋に姉貴分として慈しむに相応しい、弟同然の存在だった。
そう、弟だった。弟だったのだ、だから。
不意に頬へと伸ばされた指に顔を背けるのは、きっと正しい。
「姉さん?」
甘えるような声が追いかけてくる。振り向けば長く見守り続けた顔があるはずだというのに、見ることが恐ろしい。私が中学生だった時分に抱き上げてほしいとせがんで伸ばされた指とは違う、それだけを痛切に感じて他が分からない。
「な、んでもない」
早口に答え、先の質問にも解を渡してやるべく文庫本を閉じて表紙を見せてやろうとする。しかし従弟が先に動いた。私の首元、僅かに灰色がかった水色の石が嵌められた、ペンダントに触れる。
「つけてくれたんだ」
こと理数系に限っては私より遥かに頭が良く、一年前まで名高い私立高校の首席争いに身を投じていた従弟が、修学旅行先であった海外のお土産だとわざわざ年末に贈ってくれた、華美ではない装飾品。恋人以外で異性に何か贈られたのは叔父からの卒業祝いぶりだと血の繋がりを感じたものだった。その時は、そう、むしろ叔父を連想したことに微笑ましいと思っていたのだ。叔父。従弟の父親。私の初恋のひと。
「合わせやすい、から、助かってる」
「そっか、良かった。嬉しい」
純然と穏やかな喜びだけを示しているように聞こえた声。直前の行動には何の他意もないのだろう。読めないくせに私の文庫本を借りようとしたときと同じだと、鎌首をもたげる正体不明の感情に言い聞かせる。ペンダントをするために選んだ襟元の開いた服は、誰も気に留めないだろうと鎖骨が年甲斐もなく晒されていて、従弟の指に近い。
「ね、ねえ、叔父さんは?」
「弟達連れて買い物行った。姉さんのところもでしょう?」
「うん。早く、帰ってくるといいんだけど」
「何で?」
言葉に詰まる。祖父母の家に帰省した叔父夫婦と彼以外の従弟が、挨拶を終えるや否や夕食の買い出しに出掛けるのはいつものことだ。帰省となれば祖父母を連れ出すのが趣味になる我が両親と弟妹達も似たようなもので、従って今、祖父母二人が暮らすには広すぎる居間には、私と私を姉さんと呼ぶ相手以外、誰もいない。誰かが扉を開け明るい声で帰宅を告げるまで、少なくとも二時間はある。逃げなくては、思い上がりだと笑われても諭さなくては、と頭の中をそればかりが回り、何で、という幻聴が陽炎のように混ざり合う。
姉さんと呼ばれている相手だ。
――実の姉弟ではない。
彼はまだ未成年だ。
――あと数年のうちに成人する。
氷さえなかなか溶けない室温の中、保ち続けていたはずの戒めがぐらりと形を崩していく。駄目だ駄目だと思っていても呼ばれる声に口ごもる。何故ならば、また近づいたその声に、分かって逃げていたことがある。
「姉さん」
彼の声は、過日の片恋の相手とよく似ていて、されど私ただひとりだけの許しを求めていた。
白梟の巣の中身 蒼城ルオ @sojoruo
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