竜田川無理に渡れば紅葉が散るし渡らにゃ聞かれぬ鹿の声

 夜に電車を逃せば半刻は駅で待ちぼうけをくらうような場所で、吹きすさぶ風は殊更に冷たい。腫れてなどいなかったはずの頬と口元が今更ながらに痛んで、手で覆い隠すようにして軽く触れる。街灯が細道を照らし切れていないような川近くの畦道であることに感謝するしかない。もっとも、このご時世に娘を嫁に出す男親のお約束がまかり通る場所があったのかと思えば、あながち演技でもなくなる。すぐ隣から見上げてくる不審げな視線には敢えて目を合わせず、凍らないように流れを維持する水を視線で示す。

「川辺の露を見た女性に、あれは何ですか、って聞かれる話、ありましたよね」

「芥川?」

「それです」

 伊勢物語の一節だった、と高校の古典でしか読んだ覚えのない記憶で認識している。駆け落ちした男女の話で、結局答えずに寝ずの番をしたその日の夜に、女を鬼に喰われてしまう、というものだっただろうか。悲嘆のうちに詠んだ短歌だったか何だったかを、若い女教師が朗々と諳んじていたことが妙に印象に残っている。

「同じ川にまつわる間抜けでも、逃避行の船旅の最中に仮面の男とその取り巻きに囲まれるほうがまだマシかなあって」

 その言葉に、生真面目に眉を寄せて考え込んでいることは、視線を注がずとも分かる。

「そんな古典あったっけ?」

「いえ? まだ10年と経ってない物語ですね、こちらは」

 次の休日に貸しますよ、うん、という会話の後に、はたと気づいた顔で再びこちらを見上げる気配を感じ取った。今度はきちんとそちらを向けば、柳眉を僅かに逆立てた細面の顔がある。

「どうしました?」

「話を逸らしたね?」

「ご明察」

 ぱちぱちと軽く手を叩く。抗議の言葉を投げつけられてもおかしくない場面で手を伸ばされ、最低限の構えだけを取った。しかし頬に触れた手は張り倒す勢いなど一切なく、逆に小さく震えている。足の止まった相手に合わせてその場に立ち止まって三拍、己の失策に気づいて浅く息をついた。

 見る見るうちに視線を地に落とした目の前の女性は、他者の感情をとても大切にする人で、そのくせ負の感情を保つことがひどく苦手なのだ。生来の怜悧さも相まってどこか謎めいて見えていた年上の女性の世界に、敬愛ひとつで土足同然に踏み込んで、ただ不器用なだけだったことを知った日を思い出す。そのとき胸に去来したのが失望ではなく安堵だったからこそ、あのときも今も、意識して喉に力を込めた。楽観的に聞こえてくれるはずの、声を紡ぐ。

「無茶をしたなあ、とは思いますよ」

「だったら、なんで」

 腰を引いて抱き寄せる。容易く腕の中におさまった身体は細い。身じろぎをすればすぐ分かるほどに。この時間に此処を通る人間など、それこそ妖怪の類より珍しいと知っているくせに一気に速くなった鼓動。全てに気が付いていないふりをして、そのまま続けた。

「無理にでもやらなきゃ、聞けないものがありましたからねえ。例えば」

 腕を緩めて、頬に手を添えてこちらと目を合わせさせる。

「目の前の美人さんは、こんな無茶ばかりする男でも添ってくれるのか、とか」

 返事はなかなか生まれず、そして直接的ではなかった。目を伏せてずるいとひとつ呟くだけで胸にうずまり声を消す。そんな可愛らしい仕草に、つい、そのずるい男に簡単に捕まるのが悪いんですよと減らず口を叩いた。

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