白梟の巣の中身
蒼城ルオ
ダブルウォーカー
冷房が要らない季節になると、朝の六時は存外暗い。黄昏といえば夕暮れを指すのが常識だけれども、原義に沿えば今だってそう形容する資格を持ち合わせている筈だ。掛け布団を引き摺り上げようとして許されないことに気づき、せめてと開け放したままの窓に背を向ける。携帯電話の目覚まし機能が五月蠅い。殺意を覚えないよう敬愛するミュージシャンの出世作に設定した自分を褒めるべきだろう。
朝を讃える比喩に該当する歌詞に差し掛かったところで着信ボタンを押した。ベッドの下のスリッパをはき、勉強机の椅子にかぶせたままのカーディガンをはおり、伸ばした袖越しにドアノブを掴んで、まわす。台所に一番近い部屋を寝室に選んだことは、先程の着信音に続く英断だ。
直進するだけで辿りつく冷蔵庫からベーコンと卵を取り出す。コンロに置かれたままのフライパンに溜息をつき、軽く洗ってベーコンを放り込む。盛大な音と共に飛散する油にももう慣れた。シンクの隣にある棚からボウルと皿を取り出したところで、先程出てきたばかりの部屋の扉がもう一度開く音がした。人のことが言えた義理ではないが、スリッパの音は存外響くものだ。振り向けば、普段以上に目を細めた視線とかち合う。
「おはよう」
少しだけ嗄れた声に、水の入ったコップを渡す。
「おはようございます、先輩」
その言葉に髪を少しだけ触られる。掻き乱すように撫でる癖に拗ねてからというもの、律儀に自制しているらしいことが可笑しくて仕方ない。
「飲み物とお皿だけ用意していて貰えますか。目玉焼き作ってパン焼くだけですから」
面倒だから煎り卵でも良いかと考えつつ、音のおとなしくなったベーコンを皿に移し彼に渡す。
「コーヒーは冷蔵庫です。砂糖入れすぎないで下さいね」
素直に頷く姿には、記憶の中の着崩された学生服はどうしても重ならず、踵を返す背中に笑みが零れた。
先輩に初めて会ったのは、高校一年生の冬だった。否、顔と名前は一致していたから、知識ではなく血の通った人間として認識したのがその時だった、と言ったほうが良いのかもしれない。
存在が認識されているかどうかさえ怪しい部活動にあてがわれた、旧校舎二階の左隅の小部屋。それが、私が知る限り高校三年生の先輩が最も愛した部屋であり、私たちの居場所だった。元々理科系の研究授業が盛んだった頃の準備室だったらしく、試薬独特の匂いが鼻についてはいたが、それにさえ慣れてしまえば南向きの窓と教室で使わなくなったロッカー、全体の半分はまだ健在のソファが置かれた空間はそれなりに居心地が良かった。
しかし、部室棟の通路として一番使われていた東階段と付近の廊下は何故か薄暗く、七不思議と言わず二十は下らない噂でひしめき合っていた。これが私の在学中の女子部員が片手で数えられる唯一絶対の理由だったと言っても過言ではない。度重なる改築のうちに部室棟と部の鍵の保管場所である職員室を繋ぐ通路が其処を通るものしかなくなっており、ただでさえ女子生徒の顰蹙を買っていたのだ。
そのようなものほど一部の男子生徒には興味を惹かれるものであり、先輩もその一人だった。曰く、怪談というものは夏が相場だ、それ以外の季節ならば問題ない、と。
その独自の理論で嫌がる部員を宥めすかす姿が、私の記憶の一番古い先輩だ。細面で制服より白衣が似合うだろう顔が化学から遠い分野に輝くことがアンバランスに思えたのである。もっとも、そのちぐはぐ具合が親近感を抱かせた理由でもあった。あの人はあんなことにも興味を抱く人なのか、と。
私だけでなく後輩たちを驚かせたその手の発言は、共に過ごすうちに慣れる部類のものだった。いつの間にか教師の目をかいくぐって夜の学校に居残ることが部の恒例行事になっていたものだ。同期で唯一同性だった親友が極度の怖がりで、毎回ついては来るくせに途中で足がすくみ、結局最後まで回れなかったことも良い思い出だ。本当に怖いのではなく誰かが悲鳴をあげるたびに心配する副部長の気をひくためだと、からかい混じりの揶揄があったことを差し引いても、だ。少しでもいわくがある場所には頑として寄りたがらない駄々っ子を何度も見ていたし、それが非難されるならば私も同罪だった。
午後十一時の学校で、奇妙な光が見えたと全力疾走する姿が微笑ましかった。突然の物音に肩を跳ねさせた時、口では散々軽口を叩きながらわしゃわしゃと頭を撫で回してくれる手が温かかった。部室に着いた途端投げ捨てるせいで常に皺が寄っている上着を見失わないように、暗い階段を何度も駆け上がった。
そのような高校生活を送っていたものだから、いつものように副部長の提言によって中止になった後、先輩が声をかけてくれた時は、それまでとは違う理由で鼓動が早くなった。
「あいつにバレないように、こっそり続きやらないか」
由緒正しい七不思議の六番目、魂を抜かれる姿見の前を通るために、普段使う昇降口ではなく自動販売機前の裏口を使って出入りする順路。手垢のついたそれであっても、密かに慕っていた人と初めて並んで歩いた道が特別にならない女はそうそういない。先輩の歩幅との違いに自然早足になり、立ち止まってくれるのは数拍後ということも何度かあった。ようやく足並みが揃ったのは踊り場に備え付けられた件の姿見が見えてきた時だったように思う。怪異の前に幻を見せると尾ひれがついていた冷たく硬い物体に手を当て、これが幻なら良いかもしれないと半ば本気で思った。
願っていた。何でも良いから一緒にいさせて下さい、と。
先輩が鏡を軽く叩き、自分たち以外の何かを見つけようとするかのように覗き込んでいる間、私はずっと先輩自身を見つめていた。その後、結局何事もなく裏口まで戻り、無糖コーヒーを買って帰る後ろ姿さえも、次の春以降は一生見ることの出来ないだろう相手として、全てを目に焼き付けようとしていた。叶わない願いだと、解っていたからこそだ。
事実、姿見の御利益か先輩が些細な用事に私を誘ってくれることは増えたが、それはあくまで可愛がっている後輩止まりだった。バレンタインデーには何も出来ず、卒業式に駄目元で第二ボタンを強請った時も、一瞬目を見開き、次いで困ったように苦笑していた。それでも、その後ぐしゃぐしゃと私の髪を乱してお詫びだと言わんばかりに渡してくれただけで、十分だった。
だから、あの夜からちょうど三年後、大学も同じところに進んだ親友の家から帰る道の途中で再会した時、咄嗟に挨拶が出来なかったのは、私の不作法ではなく卒業後行方をくらませた彼の所為だと未だに主張する。部室で広げていた滑り止め校のパンフレットはどれも他県の私立大学ではあったが、まさか本命が数年後に私の第一志望校になる大学だったなど、予想もしなかったのだ。一方予測を立てる手がかりのひとつも無かったはずの相手は私の疑問に平然と告げた。
「あいつが教えてくれたから」
変わらないイントネーションに、かつて私たちがいた場所で二番手を務めていた人のことだと分かった。どうやら気を引きたかったのはあちらのほうだったようで、意外と嫉妬深くて困ると愚痴を零しながら遠距離恋愛自体を苦にするつもりはないらしい恋人の性格を思えば納得せざるを得ない。消息不明だと思っていたのは私だけだったのかと軽く憤ると同時に小さく息をついた。親友も私と同じように知らなかったのかもしれないという可能性に思い当たったのだ。むしろ、そうであってほしかった。
自然と並んで歩く形になり、旧交を温めるために何処か店でもと誘われ、慌てた。行きたくないわけではない。しかし、学生街で夜の飲食店と言えば余程運が良くない限り待たされるものの代名詞だ。そして、当たり前のことではあるが、大学に入ってからの思い出で塗り潰された場所しかなかった。
公園で良いですよと足を向けたものの、自動販売機を風避けに出来る位置のベンチであってもとても長居出来るものではない。ハンカチを敷いた上に腰掛け手を擦り合わせていると、低糖コーヒーの缶を手渡された。どうした、と声に出さずに問いかけられたことから察するに、その時の私は余程妙な顔をしていたのだろう。すぐ隣に座られたことに気づくのも遅れたほどだ。距離を置こうとするのも不自然で、どうか鼓動の音が聞こえませんようにと思いながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いえ、失礼ですが、高校の時は想像できなかったので」
「流石に大学に入ったら後輩に奢るぐらいのことは覚えるよ」
そこまで狭量だと思っていたわけではない。冬の夜と目の前の存在と言えば私の中では高校生活の中の最も煌めいた思い出を構成するものの両翼を担っていて、揃ったからこそ僅かな違和感が拭えなかったのだ。
振り返って考えれば、そうであってほしくないという利己的な欲望のほうが強かった。変わってほしくなかった。今更現れて、私以外の誰かを後輩と思い飲み物を奢っていることを暗に示してなど欲しくなかった。散々人を付き合わせてその自覚もなく、異性の歩幅の違いに戸惑う幼い尊大さを持ち合わせたままでいて欲しかったのだ。それが叶わないのなら、いっそ何も分からないままで良かったのだ。全てが変わってしまえば、この恋情も過去への未練に変わってしまう。
願っていた。何でもいいから恋心のままでいさせて下さい、と。
沈黙が降りしきる。元より全く連絡をとらないまま数年経った人間との再会では、さほど話題はない。加えて私は、これ以上変化を突きつけられることを恐れていた。自然、口火を切る側は決まる。丁度吹いた北風に、背中を押されたのかもしれない。
「卒業式の後のこと、覚えてるか」
この物言いは、と目を合わせられなかった。質問の形をとって念を押す、あの日かけられた声と同じものだ。当時は待ってくれなかった返事までの間合いを感じたくなくてすぐに頷く。すぐ近くで、白い息が漏れた。
「本当は、ちゃんと、応えたかった。応えなくて、ごめん」
消え入りそうな謝罪の声に、そちらを見る。常に前を向いて自分の興味のあるものしか映さなかった瞳が、私だけを射抜いていた。声の弱さを補うような眼差しに、何故だか泣きそうになった。鼻が痛い。
「もう、覚えてないかもしれないけど。お前と二人で学校歩いたの、大事な思い出なんだ」
違う。覚えている。私も大事です。まるで思考回路が焼き切れるようで、それ以降の言葉はろくに覚えていないと言ったら彼は叱るだろうか。存外、肩をすくめるだけで許してくれるのかもしれない。内容もさることながら、その言い回しに、無意識に囲っていた氷の壁を溶かされた心地がした。
彼の言葉に、過去を表現するものは一つとしてなかった。彼の中では、あの夜は過去ではないのだ。嗚呼そうだ。今は、冬だ。彼が、何かを囁く。風が五月蠅くて聞き取れない。けれど唇で意味はとれる。
「先輩、好きです。後輩じゃなくなっても、先輩の傍にいたいです」
耐えかねたように零れた言葉は、冬を越えた先で言うはずだった、冬に戻るための呪文だった。
結局煎り卵になった今朝のおかずと食パンをそれぞれ皿に分け、机まで持って行く。
「どうぞ。遅くなってすみません」
「何言ってるんだ。いつもありがとう」
席に着きながら交わすいつものやりとりは、知人友人から聞いたところによると理想的過ぎる、らしい。季節ごとのイベントはことごとく無視しているのだが、それを差し引いても羨ましがられる。実際今の状態に全く不満は無いのだから、恵まれ過ぎてはいるのだろう。些細なことでもきちんと礼を言われることは、相手が近しい相手でなくても嬉しい。最愛の存在ならば尚更だ。
どちらからともなく手を合わせて、朝食を口に運ぶ。すぐに空になる向かい側の席のマグカップにコーヒーを淹れ、砂糖を落とす。すぐ目を合わせて意味ありげに細められ、笑みが返される。どうやらお気に召す味だったようだ。年上を相手にしていても下手をすると年下より分かりやすい時がある、という親友の言葉が実感出来るのはこういう時だ。
その、仲睦まじいと此方とて思っている親友たちでさえ、今の状況になる時には異論を唱えた。否、あの二人はどちらかと言えば心配していた、だろうか。
「先輩」
返事はなくても視線は此方に向いている。雑談ならこの程度で問題ない。彼が私と同じ空間にいて、私に好意的な興味を抱いてくれるのならばそれで良い。
「高校時代は、甘いもの大嫌いでしたよね」
彼が先輩であろうとなかろうと。
私が知る先輩は、コーヒーは常に無糖だった。バレンタインデーに何も出来なかったのは、先輩がチョコレートの匂いを嗅ぐだけで嫌気がさすと言っていたからだ。先輩に対し、唯一変わっていて欲しいと思ったもの。
「よく覚えてるな」
「先輩のことですから。お砂糖足りてますか」
「分かってるんだろう。お前のほうこそ、コーヒーなくなってる」
彼が、笑う。私だけを見て、私に興味があるのだという糖分を大いに含んだ視線で、笑う。色違いの私のカップに黒を注ぎ白を混ぜる姿は、私の愛した尊大さで、私の知らない狡猾さだ。
二重人格。よく似た双子。互いを殺す為に存在するドイツの怪奇現象は何という名だったか今の私には思い出せない。思い出せなくても良い。彼と共に歩けるならば。
再会するまで飲んでいなかった砂糖入りのコーヒーは、今や私にとって欠かせないものになっていた。
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