第8話
「アイドルになった理由?」
出番を終えてカレンたちのもとに戻ってきたハナヨは首筋にうっすらと汗をかいていた。パイプ椅子に座ってカーディガンを脱ぎ、それをミネコに渡して代わりに目薬を受け取った。天井を向いて目薬をさしたハナヨは遠くを眺めるように西の方角を向いた。
「マジックアワー」
カレンとリョウは首をかしげ、助けを求めるようにミネコを見た。
「マジックアワー。撮影用語だな。日没後数十分間だけある薄明るい状態だ。黄昏時と言ったほうが馴染みがあるかな?」
「黄昏時……」
ふたりはハナヨに倣って西の方角に目を向けるが部屋には窓がなく、外のようすはなにも見えなかった。
「そう。黄昏時といえば妖怪の時間。日本文学において、なにかが起きるときは必ず、時刻は黄昏時。それがベター」
カレンとリョウは顔を見合わせ、互いにハナヨの話が理解できたかを確かめ合った。しかし、どちらもそれができておらず、もっと詳しい説明を求めろ、とその役割を押しつけあった。
「その時刻、私は妖怪を見たのよ」
「そういうの、好きっ!」
カレンが身を乗り出すと、ハナヨはふっと笑い、そのときの情景を思い出すように目を閉じた。
「あれはまだ私がアイドルになる前、普通のOLとして働いているときのことだった。帰りの地下鉄に乗るため、駅に入ろうとしたときに見た夕日の眩しさをいまでも覚えているわ」
ふんふん、とカレンは前のめりにハナヨの話に耳を傾け、リョウは白けたような顔で腕組みしながら聞いていた。
「そのときはなにも思わず地下鉄に乗ったのだけれど、いざ出発して駅を離れるとホームの明かりが届かなくなった。すると車内を照らす明かりだけがその地下で唯一の光源になったの。そのとき、異変に気がついたわ。窓の外に目を向けると、見たこともない醜い顔の妖怪が現れたのよ」
「左様ですか」
「相手はじっと私を見つめてくるの。怖くなって目をそらそうと思っても、金縛りにでもあったみたいに体が動かなくなって、そのまま妖怪と見つめ合っていたわ。そろそろあちらの世界に引きずり込まれてしまいそうだというときに地下鉄がカーブに差し掛かった。そこで私はバランスを崩して窓の頭をぶつけたのだけれど、気がついたときには金縛りが解けていたのよ。駅について窓の外を見ると、そこにはもう妖怪はいなかった。けれど、このまま地下鉄に乗り続けていたらまた、すぐにその妖怪と出会ってしまいそうな気がして怖くなって、私は仕事を辞めたわ」
「それで、アイドルに?」
ええ、とハナヨは頷いた。
「普通に働くことはもうできないと思ったから。幼いころに願った夢を、また見てみたくなったのよ」
「それから妖怪を見たことは?」
「ないわね。あれ以来、地下鉄には乗っていないから」
ハナヨは席を立ち、カレンを見下ろして微笑んだ。
「怖かったけれど、出会えたことに感謝しているわ」
そう言ってハナヨは衣装を変えるために室内から出て行った。それと同時にミネコはカメラマンに呼ばれてなにごとかの話し合いを始め、カレンとリョウはふたりきりになった。
「天啓っていうのかな。もしかしたら妖怪じゃなくて怖い顔の天使だったのかも!」
「いや、自分の顔だろ」
え、とカレンは目を瞬かせ、戸惑ったようにリョウを見た。
「だからさ、地下鉄に乗ると窓に自分の顔が映るじゃん。外が暗くて中が明るいと。夕方なんだから疲れて顔してて、しかもメイクだって崩れてるだろうから、それで醜く見えたんじゃないの?」
「じゃあ、ハナヨさんは、『私はこんなことをしてていい人間じゃない』みたいなことを思って会社を辞めたってこと?」
だろうな、とリョウが頷くと、カレンは騙されたことの不満で頬を膨らませた。
「まわりくどいね」
「恥ずかしかったんだろ。普通に話すのは」
「リョウ! ちょっと来なさい」
ミネコに手招きされ、リョウはカメラマンたちのもとに駆けていってしまい、カレンは慣れない場所でひとりにされた心細さで小さくなりながらみんなの帰りを待った。
「あたしがモデル? まじで?」
「ああ。ハナヨと並んで、先輩後輩のようにという注文なんだが。……OLの」
「現役で女子高生なんですけど」
「まあ、一八で社会人になる人もいるんだ。そういう体でいけば大丈夫さ。メイクも変えるしね」
はあ、とリョウはわかったようなわからないような返事をし、ちらとカレンのほうを見た。カレンは首をかしげ、リョウを見ていた。
「さっきの七センチヒールの人じゃダメなん?」
カメラマンもミネコも渋い顔で、唸るような声を出しながら首をひねった。
「はっきり言って、ハナヨは専業でモデルをやっている人たちに嫌われている。本業がアイドルのハナヨに自分たちの仕事を奪われているのだから、しかたがないことかもしれないが」
「君なら背もあるし、ハナヨちゃんのモチベーションも上がると思うんだよね。どうかな?」
はあ、とリョウはカレンのほうを気にしつつ、ミネコに連れられて部屋を出た。そして、入れ替わるように七センチヒールのモデルが戻ってきて、カレンの隣のパイプ椅子に座った。彼女は、うぐいす色のファーコートの下に同色のタートルネックを着込み、ハイウエストのミニスカートとニーハイブーツをブラウンで揃えた冬の装いだった。
「ねえ」
暑そうだな、とカレンがぼんやりとそのモデルを眺めていると、突然彼女のほうからカレンを見ることなく声をかけてきた。カレンははじめ、自分を見られていないことから聞き間違いかと思って黙っていた。しかし、モデルが横目で睨むようにカレンを見たので、カレンは消え入りそうな声で返事をした。
「あんた、なんでここにいるの? モデルになりたいの?」
「ハナヨさんの見学に。……メンバーなので」
「あっそ」
カメラマンに呼ばれて立ち上がったモデルはカレンを正面から舐めるように全身を眺めた。カレンが居心地悪そうにもじもじしていると、モデルは鼻で笑った。
「なんか役立たずそう。踊れるの?」
突然の侮辱にカレンが顔を上げると、モデルはすでにカメラマンのほうに向かって歩き出しており、カレンを振り返ることはなかった。
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