20160423:語らう夜が始まる
グラスを回して軽やかな音を立てる。
人形のような整いすぎた顔をした男は、項垂れたまま、テーブルに滴をいくつも落とした。
気付いて、お願い。
「苦しいんだ」
絞り出されたような声を聞きながら、祈るような気持ちでマリアは男から目を反らす。
「勝手に涙が溢れてくる」
だからなのよ。涙が溢れてくるのは、マリアも同じ事なのだ。
マリアは語らう夜に終わりを告げた。アルファへ向けて明日はないと一つ告げた。
そしてアルファは泣き崩れた。泣くことの意味すら、知らないままで。
「あなたの聡明さに憧れた。冷静さが、決断力が好きだった」
この役目を嬉しく思ったのは本当だった。きっとアルファの役に立てると、上司にも期待され、自分自身でも期待した。
新しい生活は、アルファとともにあると信じた。
「それでも、瞳に夢を映している、そんなあなたが好きだった」
カツンとわずかにティーグラスが音を立てた。アルコールを知らないままのアルファのためのアイスティー。
世界のために製造されたデザインチャイルド。選び抜かれた遺伝子を持ち、世界一の環境とで、来たるべき日のために、大切に作られた。
人の感情も知るべきだとは、誰が言い出したことだったのか。
――そしてアルファは、崩れ去った。
マリアの目の前でいくつものグラフがレイヤーを輝かせる。
「西ナイルで発生した疫病は……」
赤い点が浮く。点は別れて増えて、移動をしては別の場所で同じ事を繰り返す。世界的にアナウンスがされていても、彼らは彼らの都合を優先する。
「医療機関へのアナウンスと、各国の情報共有の徹底が急務です」
「友好国は対策済みだ」
「非友好国、加盟国以外にも」
赤い点が行き交う中、数カ所ぽっかり空いた場所があり。やがてその周囲が赤色一色に染まって行った。
「退去勧告を受けたと連絡があったそうだ」
彼らは国を守ることで精一杯。力及ばず倒れたとしても、誰も痛ましい顔などしないだろう。
難民の移動を重ねる。特大災害の情報を載せる。赤い点は増えていく。堤防決壊の瞬間のように。
「国を超えなくては」
「そのための連合では」
言ったのは誰だったか。くってかかったのも、誰だったか。
静寂の中、オブザーバーとして呼ばれた男はか細い声でマイクへ囁く。
「経済的に超えるのです。ねぇ……マリア?」
静寂が訪れた。
マリアは目を二三度瞬いた。スポットライトがあたったかのように、舞台の上へ立たされた。
一度だけのど元が大きく動く。そしてマリアは、全ての視線を受け入れた。
「データセンターを軌道上に作ります。衛星を配置することで全世界、二四時間いつでもアクセス可能な」
中央のモニタに計画書のレイヤーが描き出された。
ばかばかしい。……そんな声すら、マリアは結局聞かなかった。
――望まれたのは、経済界の神に等しき全能性。
――『ヒト』らしい発想で。けれど何処にも偏ることなく。
泣き疲れて気を失うように寝てしまったアルファを、スタッフの手を借りてどうにかタクシーまで連れて行く。
時刻は零時を少し回っていたが、マリアは気にせず職場の住所を運転手へと告げた。
動き出すとアルファを持たれかけさせながら、流れていく景色へ顔を向ける。細く締まった顔つきが、摩天楼の空気に大きく映り込む。
冷静なのね。
マリアはガラスに映った自分を見る。
少しばかり疲労で落ちくぼんだ瞳、白い物が混ざり始めた長い癖毛。
静かな瞳が、見返してくる。
何処にでもいる普通の中年女性のハズだったのに。
溜息をついた。一度だけで留めて置いた。こぼしてもこぼしても回収してくれる人など、どこにもいないのだろうから。
携帯電話を取り出した。……上司は起きているだろうと確信のように思いながら。
『はい』
マリアは一度だけ目を閉じる。そしてしっかりと、前を向く。
「……マリアです。アルファの試験は最悪の結果で終わりました」
どうすれば、とも、困る、とも。声は導いてはくれなかった。
「アルファの代わりの人選ですが」
わかって、いた。
だから私は、前を向く。
「私では、不足でしょうか」
――恋は罪悪と知っているキミだから、適当だと私も思う。
シャトルは逆噴射を繰り返し、ゆっくりと船止の側で止まった。一台停まれば一杯になってしまう小さな港は、防犯のためとも、効率のためとも説明された。
促されるまま殺菌シークエンスをこなしていく。塩素消毒。紫外線による雑菌除去、ガスを噴霧され、薬剤を飲み込んで。
そしてようやく、コロニーへ足を下ろした。
マリアは扉を見据えた。銀行の金庫とも言えそうなロックが、こちらとあちらをふさいでいた。
真空が作る静寂(しじま)の中、消せない駆動音が満ちている気がするのは、既に稼働を始めたそれらが呟く声だったか。
「さぁ。マリア」
マリアは確かに頷いた。
扉の向こうにある物を見据えて。
――世界一の頭脳を持ち、世界で一番『世界』を知るはずだった男の代わりに。
――私は『世界』を知ろうと思う。
――私は『世界』になろうと思う。
――瞳に夢を映して、語るあなたが好きだった。
全世界のビックデータを扱うサーバ群が、数々のAIとともに、監督者たるマリアを迎える。
『地球』を導く監督者たる、絶対の。
――『世界』と語らう永遠の夜が始まる。
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