20160409:コーヒーの味

 ソーダ水超しの景色はほんの少し色が付いて、曇り空に薄明るい街が水色の中に沈んでいた。コップの底からわいてくる泡に飾られたら、そこはもう、僕らの知らない街だった。

 僕は窓に向かうカウンター席の少し高いスツールによじ登る。コップを上からのぞき込みストローで一口吸い上げれば、シュワシュワ口の中がはじけ出した。

 ソーダ水はほんのちょっぴり大人になった気分にさせる。

「ソーダ水だなんて、ビーはガキだな!」

 よいしょっと。クッキはアイスコーヒーを片手に隣のスツールによじ登った。アイスコーヒーの下の方は、色も薄く、とろりと溶けるような境が見えた。透明な部分はだいぶ厚そうにも見えた。……直ぐにクッキにかき混ぜられてしまったけれど。

「ほっといてよ」

 コーヒーは大人の味だなんて言い出したのは誰だったっけ。クッキも他の仲間たちも、近頃はコーヒーばかりを飲んでいる。飲んでいると言ったって、シロップやらミルクやら、たんまり入れないと結局飲めやしないのだけど。

「コウバシイ、良いにおいだ!」

 ざしざしざし。クッキはクラッシュアイスを押し込み混ぜ込む。マドラーが、押されて取られて再び水面を叩くとき、クッキーはこれ見よがしに鼻をひくつかせて見せるのだ。

 大人なんだと、周りに思わせるためだけに。


 大人になりたい。


 先生たちは朝学校にやってきて、夜学校から去って行く。

 僕ら子供は校舎と寮の往復ばかりだ。気がついたときにはそうだったし、外に行っても仕方が無いから、結局往復を続けている。クッキも仲間も寮の最上階に張り付きはしても、行動に移したことはないらしい。つまり、外に出たことは。

「ハダザムイ夜はヒトハダが恋しくなるんだ」

 ぴゅうと風が吹き込んで、慌てて部屋の窓を締めたソーダ水のコップはいつの間にやら汗を掻かなくなっていて、クッキは熱湯で入れたコーヒーにミルクと砂糖を大量にぶち込んで、大人の味だと、啜っている。

 甘くないのかな。僕は思う。僕はコーヒーが好きじゃないけど。あんなにミルクたっぷりなそれは、本当にコーヒーなのだろうか。


 大人になれば。


 先生の飲むコーヒーはもっとずっと琥珀色とか言う色だった。もっときついにおいがしていた。香水のにおいに混じって甘くなくて香ばしい、すっきりとした匂いがしていた。

 大人の飲み物なんだからねと、先生は赤い唇で笑って見せた。子供が飲むには少し早いね、と。

 試してみたくて、先生のカップをねだって貸してもらってみた。温度の下がった、それでも熱いカップの中、湯気が香りを運んできた。――多分僕は、むせたのだ。

「無理しなくていいのよ。どうせ、大人になればこんなものを飲むしかやってられなくなる」

 目薬を差して瞬いた目で、先生は僕を見る。目尻から零れた滴の少しばかりつんとしたにおいを、感じた気がして僕は思わず顔をしかめた。


 大人になるんだ。


「なぁ、コーヒー、美味い?」

 僕の目の前で、クッキはどぼどぼとミルクの中へコーヒーを入れる。終わればガムシロップを、そしておもむろに混ぜ始める。

「うまいよ!」

 クッキが飲み始めたコーヒー入りミルクからは、もはや香ばしいにおいはしなかった。

「コーヒーが美味いなら、クッキは大人なのかな」

「もちろんさ。だから俺は外に行くんだ!」

 すっかり陽射しの落ちた外。窓からは、僕らの知らない大人たちの街が見える。

 ずっとずっと、知らない、街が。


 大人だから。


 季節がまた一つ巡っても、クッキの手元、汗掻くグラスはわずかばかり色の付いた、乳白色をたたえていた。先生はコーヒーはまだ早いと良い、自身は濃い色のカップをゆっくり傾けた。

 香ばしい、においがする。

 口を付けてみたいと、思うほどに。

「飲んでみるか、ビー?」

 突然言われたのは、一体何時の事だったか。

 ソーダ水の氷がカランと微かに音を立てた。

 窓から吹き込む風がどこか青さを含んでいた。

 乾いた風に先生はそっと目薬を取り出した。

 先生のカップを渡された僕は、琥珀色を凝視する。


 大人への。


 ミルクが入った色ではなかった。ミルクの匂いも感じなかった。

 少しばかり甘いのは、砂糖がわずかに入ったから。

 そっとカップに唇を寄せた。

 先生が見守る中で、甘い匂いに誘われるように。


 *


「発達途上、成長の安定」

「アダルトチルドレン」

「マザーにふぁざー、コンプレックス」

「大人と子供を明確に分けることなど出来はしない」

「しかし、どこかで分ける必要がある」


 子供は守られるべきである。


「基準を設ければ良いのでは?」

「基準を満たせないのなら?」

「子供のままでいるだけのこと」

「基準を根源的なものに据えれば」

「少なくとも、一つの指標とはなるはずでしょう?」


 *


 一口、含む。

 苦みを覚える。思わず涙目になりながら、二口目を向かい入れる。

 甘みが口中を広がっていく。苦みはもう、そこにはなかった。


 *


「その指標で『大人』になれば良いのでは」


 *


「羽根が開くとは何処の誰が例えていたか」

 カップを置く。コーヒーの、先生の。香りが僕を満たしていく。

 ついと伸びた先生の手指が、僕のあごを上向かせた。

 赤い唇が、目の前にある。

「甘い匂いに誘われた幼虫は、蝶になりはばたいていく」

 先生の匂いが、僕を。

「いつまで経っても子供でいるものもいる。羽化が出来ず幼虫のままで有り続ける。かと思えば、早々に大人になるものもいる」


 脳の成長、身体の成長、ホルモンバランス。

 性的不能も幼体の……子供の証といえなくも、ない。


 *


「苦みの摂取は大人の証だ」

「子供は本能で苦みを避ける」

「ならば苦みを」

「コーヒーを」

「基準としてすり込もう」


「大人である自分を思い出すための鍵として」


 *


「おまえは、守りのないこの社会で、はばたいていけるのか?」

 先生の声が耳に浸みる。……意味など、知れない。けれど。 

 いつの間にか小さくなった先生の頭を引き寄せる。

 吐息が絡み、冷たい手が僕の胸を押してくる。

 ……それを除けて。


 赤い赤い芳醇な香りを放つ唇へ。

 僕は僕の唇を寄せた。



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