20160325:くるくるに吸われた想い

 降りしきる霧雨と縦横無尽に放たれた電磁波に覆われた街へと、ノコは鉱石ラジオを相棒に木々の合間に自転車を漕ぐ。電磁波はわずかに吸収でもされたのか、雨は常にほの温かく、ラジオはノイズを振りまいている。

 ラジオからは少しばかり古めかしいシャンソンが流れていた。音質はあまり良いとは言えず、曲と曲との間に流れる葉書を淡々と読む声はかろうじて女性のものと判る程度の質だった。

 ぷつりぷつりと音が一瞬途切れると、ノコはペダルを漕ぐ足を止めた。既に何事もなかったかのようにノイズ混じりの次の曲を流すラジオを手に取ると、しばし耳を傾ける。甘い声。甘い歌。悲哀を謡ったフランスの歌が、ただ、静かに流れるばかりだった。

 ノコの口を溜息がつく。ラジオを戻し、ペダルへ足をかけ直した。ほの温い霧雨がノコの頬を優しく叩く。光のもやに包まれたノコを受け入れるようにそこにあった。

 イクちゃん。ノコの呟きは誰に聞かれることもなく、雨に吸われて熱へと変わった。


 *


 イマジナリーフレンドと言うのだと、ノコへと白衣の女性は言った。真っ白い染み一つない部屋の中で、しわ一つない白衣は潔癖なのだと思わせた。

 女性はペンを置いて微笑みかけた。ノコへ。ノコの背後に佇む、ノコの母へ。綺麗で完璧な微笑みだとノコは思った。

「子供は空想の友人を持つものです。成長とともに友人から卒業し、本物の友人を持つのですよ」

 頭の上でひときわ大きな溜息が落ちたのをノコは聞いた。そっと肩にかけられた手は温かく、けれど、ノコには重かった。

 ノコはふと視線をあげた。女性の背後、沢山書類の挟まった棚の前。

 イマジナリーフレンドとその存在を名付けられた『イク』が、困ったように、心底困ったようにノコへ微笑み肩をすくめ。ノコは目だけで、頷いた。

 母も女性も、イクには気付いていないようだった。そして。

 ノコは秘密主義になったのだ。


 *


「星が瞬く間というのは、大気が流れ、地球が生きて動いている証である」

 町外れの所々が崩れたコンクリートのビルの、貼り出した二階の下にノコが自転車を進めると、そんな声が聞こえてきた。少し下がって見上げれば、淡いもやの光の中、屋上に影が見えていた。

「つまり我々は、星が瞬く間に生まれ落ち、その短き生を生き抜いて、やがて空気の隙間に消えていくのだ」

「先生、星の瞬きは短い時間の比喩なのでは?」

「キミは人の一生が長く果てしのないものだとでも言うのかね?」

 ノコはとって返してラジオを取った。外側に設えられたらせん階段を、揺れるノイズ混じりのシャンソンとともに駆け上がる。時折、足を滑らせながら屋上まで到着すれば、薄汚れた白衣のもじゃもじゃ白髪の老人と、サイズの合わない上着をだらしなく着込んだ少年が、ノコへと軽く手を上げた。

「やぁ、来たね。くるくる原理の始まりの日に生まれた友よ」

 ノコは息を弾ませながら、軽く手を上げてみせる。勢いに振られたラジオから、音が揺れて流れ続ける。

「あれ、イクは一緒じゃないの?」

 少年の声に顔を上げ、ノコはくしゃりと顔をゆがめた。


 *


 その日、母親は鉱石ラジオの音に見守られながら、全世界の歓喜の声を聞きながら、一人の女の子を産み落とした。占いでは二人と言われていたが、超音波の結果も、触診の結果も、生まれてみてもやはり子供は一人だった。

 遠く宇宙の果てで遙か昔に生まれた巨大天体が、自らの重さに負けて自らと周囲とを無限に吸い込み始めた残滓、生まれたジェットを世界が始めて観測した日。降りしきる雨とジェットの波動が世界を優しく揺らした日。ノコは生まれ、イクも、生まれた。

 ただし。――イクは身体を持たなかった。


 *


 先生と呼ばれた老人は、モニタの前で空を見上げる。どんよりと頭上をふさぐ雨雲など、まるで存在しないかのように。

「光すらも吸い込むブラックホールはくるくる渦巻きの降着円盤を形成するのは知っているね?」

 ノコはモニタをのぞき込む。ラジオがあたってかつりと堅い音を立てた。

 シャンソンが浸すように流れている。

「銀河を形成するのもうずまき。ブラックホールの周囲にあるのもうずまき。木星の大赤斑も、サイクロンの巨大な雲も、川の澱みにできるのもくるくるです」

 モニタには、数多の光点が映し出されていた。よくよく見れば、光点はほんの少しずつ、気付かないほどの速度で一斉に動いていた。一分間にわずか四度程度のとても小さな速度で。

 そうだ、と老人は少年の声に大きく頷いてみせる。ついでとばかりに、ぼすぼすと、すっかりぬれて冷たくなったノコの頭に手を置いた。

「渦にはエネルギーが蓄積される。何でも吸い込み、吸い込んだ位置エネルギーを変えてため込んだエネルギーだな」

 相転移ですか? 少年が問う。さてな、と老人はとぼけた声を返した。

「何でも吸い込み、ため込むものだ。どんな形であるかなど、物理学者でも判らない。物質を超えたエネルギーの塊であるかもしれず、対生成、対消滅を繰り返す、アクティブな世界なのかも知れない。はたまた」

 ぼす、ぼす。

 ノコの頭を何度も叩く。ぼす、ぼす。

 されるがままになりながら、ふとノコはモニタの影、現れた始めた光点を見た。

「想いの残滓を飲み込んで、別世界が生まれているのかも知れないね」

 星座の形は知っている。この星から宇宙を平面で表し生まれた大三角の星座の中のもやもやと輝く一点。

 ノコが生まれた日。吹き抜けたジェットの故郷があるはずの方向だった。

「先生」

 ノコはそっともやを指す。少しずつ少しずつ、もやはモニタの中を動く。

 雲を透かし届いた電磁波、人の目には見えない光。くるくるの原理をまとった星の光が、もうすぐ頭上にやってくる。

「なにかね、ノコ君」

「イクちゃんは吸われてしまったのかな」

 ラジオの音が荒れるように悪くなる。ラジオの電波を吸収して、雨が少しばかり温くなる。

「イクちゃんは残滓なの?」

 問われ、ノコは少年を見上げた。まっすぐな目がイクを見下ろす。

 だって。ノコは目を瞬いた。

「だって、イクちゃんは」

「そうかもしれない。そうでないかもしれない」

 頭に載った老人の手が、肩にまで下りてきた。ノコは左、右は少年。

 ノコの言葉を遮るように発された言葉は、大きな声のままで続く。

「残滓と言うことは想いのそのものがどこかにあるというわけだ。例えば、そう……ブラックホールの闇の中、我々にはうかがい知れない、孫宇宙、そう、宇宙がバブルだとした場合の孫宇宙に、その本体があることも、ある」

「先生、僕らは孫宇宙には行けないのでしょうか」

 老人に押されるまま、ノコと少年と老人は歩き出す。老人はぶるりとひとつ大きく震えた。

 ラジオはいよいよノイズを深め、すでに音をなしていない。仄かな温度の雨は……けれど、身体を冷やすには十分だった。

「くるくるの原理も孫宇宙も、我らはただ、あると信じるしか、ないのだよ」


 *


 一緒だったのだとノコは信じている。

 ブラックホールの中に似た、宇宙の始まりのようなその場所で、ずっと、二人で。

 イクの身体が何時消えたのか、ノコは知らない。その頃のノコには視力などなかったから。

 ただ。


 *


「イクちゃんはきっと」

 雲の向こう、ジェットの故郷を、ノコは見上げる。

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