20160319:パステルカラーの向こう側
なくしたんだと思った。
なくしたときにそう感じた。そう感じて、けれど、何をなくしたのか判らなかった。
溶けてしまったんだと思った。なくしたと感じたときに空に溶けて消えていく、その感覚だけが残っていた。だからきっと、それは手の中におさまるものだったのだろうと考えている。
*
群れる少女たちを教室の窓から見送るのが日課のようになっていた。一人教室に残って読書をし、時には宿題をこなす。部室に割りあたっていない部屋だったから、追い出されることもなく。運動部は校庭の隅に体育館の片隅に更衣室を持っていたから、男子が着替えるなんてこともなかった。
誰にも邪魔されることのないこの時間が好きだった。学校なんてという子もいた。一人なんて寂しいじゃないと、言ってくるクラスメイトも。そうねと曖昧に頷き返せば、彼女たちは溜息ついてやがて興味を失った。
まるで孤独恐怖症であるかのように、群れずにはいられない彼女たちを。
いつか忘れる日常の中で、今この時の安心を求める彼女たちを。
どこか冷ややかに、見下ろすことが。
「ほんとに、いた」
遠い運動部のかけ声。風がカーテンを揺らす音。静かの音に彩られた空間は無遠慮な声で消え去った。
足音は続かない。読んでいた本にしおりを挟みおもむろに顔を向ければ、男子生徒が立っていた。知ってる顔だ。知っていると思った顔だ。今年のこのクラスではない。昨年、同じクラスにいただろうか。
目が合ったから。少しばかり首を傾げて返してみせた。
「なに」
「ここにいるって聞いたから」
「そうね。放課後は大抵ここにいるわね」
まだ目は合ったままだった。意味もなさそうで、こちらから外した。
読んでいた続きへと視線を落とす。何処まで進んだのだったか。……あぁそうだ。十月の体育大会のところまで。
「帰らないのか」
声とともに足音が近づいてくる。風が吹き込み、流したままの髪が舞う。押さえつけながら横目で男子生徒をちらりとみて。
生徒でないことに、ようやく気付いた。
白いシャツは見分けが付かない。スラックスは指定の濃紺ではなくグレイで、上履きの代わりにスリッパだった。見覚えのある気がするその顔は、同い年くらいのはずなのに。
顔を上げる。振り返る。
男は、目の前までやってきていた。
「帰っても帰らなくても同じだもの」
待つ人がいるわけでもない。息苦しい部屋に一人でいるよりは、開放的な教室にいる方が良い。
なにかあれば職員も先生もいる。運動部の声がする。合唱部の歌が響く。演劇部の発声が。吹奏楽部の少しばかり調子のそろわない練習が。陽射しがあり。風があり。花が咲き。生物学部が兎を逃がして慌てて過ぎて、家庭科部が焼けすぎたケーキに悲鳴を上げて。
「なら、ここにいる方がいい」
人がいる。生活がある。動いていると実感できる。実感し続けることが出来る。
「そこじゃない」
肩を、掴まれた。
「……帰らないのか」
「だから」
髪が舞う。真正面に男の顔が。
まっすぐにまっすぐに。
「忘れたのか」
何を、と、言おうとした言葉は、音にはならずに宙に溶けた。
*
なくしたんだと思った。
なくしたときにそう感じた。そう感じて、けれど、何をなくしたのか判らなかった。
溶けてしまったんだと思った。なくしたと感じたときに空に溶けて消えていく、その感覚だけが残っていた。
パステルカラーの涙の跡が掌に残るのを。何かがあった感覚だけが手の中にあったことを。
忘れたという記憶だけが、確かにここに残っている。
*
「帰ろう」
切れ長だと言われた目。まっすぐで触りが良くて少しばかり強情な短髪。その辺の女子よりずっときめ細かくて白い肌。まだ細いうなじ。けれど、男らしく筋張った首。
知っている目。知っている顔。肩を掴む手の、覚えのあるその、熱さ。
なのに。
知らず、視界が滲んでいく。パステル色に滲んでいく。
滲むそばから、軽くなる。
――また一つ、何かが消えたと、ただそう、思う。
細い目が、すがめられた。
「帰ろう」
頬を熱い指が伝った。パステル色した水滴を、掬って自身の口元へと。
目を閉じた。
そして私は。
男の人の広い胸を。知らない腕のその熱を。耳元の吐息を。
「忘れたなら、会い直せばいい。今度も会えたんだから」
知らない声が、耳元で、そう囁く。
私、は。
*
記憶に容量が存在するのであれば、ある一定量より多く記憶するためには、古い物、使用しないもの、不要な物を圧縮・削除などする必要がある。
通常その『忘れる』行程は担当者の元で厳密な課程で行われ、『忘れた』記憶はバックアップメモリへと移される。
しかしながら、その過程を経ずに時間が、すなわち記憶が増加し、容量が圧迫された場合、緊急的にナノマシンが物理的移動を試みる。データをコピーし、体外へ排出されるのである。
移動対象となる記憶は、古い物、重要性の低い物、社会との結びつきの弱い物とランク付けがされている。すなわち、きわめて個人的な古い記憶から消えていくことになる。個人の想いなどは斟酌されない。
実験体としての彼らの宿命である。
*
パステルカラーの涙が零れる。
……知らない顔が泣きそうに。
私を胸にかき抱く。
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