20160305:彼とあいつらの本音

 目が合って戸惑う私を余所に、彼は瞬きを繰り返した。

 知らない顔だった。隣に見知った所員がいたから、きっと新人なのだろう。

 軽く頭を下げてみる。驚いたように彼も頭を下げ返した。

 私は通り過ぎようと足を速めた。あ、と小さな声と一緒に、だめだと、所員の声が続いた。

 ほんのわずか振り返って見たならば。

「イッチ」

 ……アイツしか言わないはずの愛称と、手放しの笑顔が待っていた。


 *


 それが彼との出会いだった。


 *


「イチカ、食事だろう?」

 彼は多分、人なつこいと言うのだろう。それともあの何処にでもありそうな出会いにどんな刷り込みがあったというのだろうか。

「そうだけど」

 反応も待たずに歩き出す。午後の講義まで一刻足らず。関わっているような暇はない。

「一緒していいよね」

 疑問ではなかったから。放置すれば、楽しげな足音をさせて付いてくる。

 ……その、足音が。

 記憶と重なる。奥歯を知らずかみしめる。前を見る。前だけを見る。すれ違う人を交わして歩く。ただ、歩く。

「イッチ、歩くの速いなー」

 のんびりとした声を努めて無視する。

「昼食そんなに楽しみなの? 今日、イッチの好きなメニューだっけ」

 ギリと奥歯が鳴った気がする。三日前に出会った彼にそれがわかるはずがない。

「いやまて、今日のメニューなら、イッチには少しばかりカロリーが。けれど、女の子は少しくらい丸くても。ダメだ、ダイエット。ダイエットが必要だ。豚じゃないか。そうじゃない」

 声がわずかに遠くなる。私は足を止めた。

「第一、細いだけで筋肉もない女の子なんて。モデルはどうだ。巨乳巨尻だろ。いや」

 振り返る。廊下の真ん中で頭を抱える彼がいる。少しばかり眺めのふわふわの髪を滴が伝う。振った拍子にキラキラ光って飛び散った。

「あの柔らかさが。触った事なんてあったか? ぷにぷにの、少しばかり堅い脚が」

 ……本音か嘘か、真か虚像か。彼は痩せ好きなのか、巨乳好きなのか。

 多分、それは、両方なのだ。

 それらの言葉が、本音か嘘かの二択で構成されていたなら、どんなに良かっただろう。

 彼の肩を軽く抱く。シャツを通してお互いの体温を淡く感じる。

 ふっと、彼の呼吸が、凪いだ。

「だれか! 研究員を呼んできて!」


 *


 これはすべて。彼の記憶の引き出しに潜むもののせいなのだ。


 *


 彼の枕の横に立つ。

 鎮静剤を与えられた顔は苦しさの欠片もなく、人形のように整った顔はまるで人のものではないようだ。

 ……それはある意味、事実でもある。

「MR153、イチカ・クラモト」

「はい」

 紙の音とともに読み上げた声の主は老齢の研究員だった。何度か見たことがあった。普段接する研究員より、おそらくずっと権限を持っている。名前は知らない。知りたいとも思わない。

 アイツの側に居たことくらいは、覚えている。

「下がって良い」

 まっすぐに眼鏡の奥の、そのたるんだ目を見上げてみる。なんだねと、表情一つ変えることなく見返して来た目に、緩くただ、首を振った。

「失礼します」

 あの研究員は私を知らない。知っていたとしても、記憶にも残っていない。

 私はその程度のものでしかなく、アイツは。

 ――イッチ、春時雨だ。

 声を聴いた気がして、ふと足を止めた。

 廊下の半面、大きく取られた窓は、いつの間にか無数の滴に覆われていた。

 春に降る、突然降り始め、突然止むような雨のことを春時雨と言うのだと、アイツはいつか言っていた。

 ――今日の雨は小糠雨。この分だと明後日は、虎が雨ってヤツになる。

 文学的な知識が豊富だった。授業では古今東西の古文を読み解き、日常では近代が好きだと言っていた。英語、フランス語、中国語、タガログ語、ブークモール、アラビア語もマスターしていただろうか。

 アイツは、ブローカ野の強化体だったのだ。

 そして、巨乳好きだったと、イチカは記憶している。


 *


 イチカの元に届いたのは、単なる噂だけだった。


 *


「イッチ! 昨日はごめんね」

 見上げれば、疑うことを知らないような無垢な笑みが待っていた。

 向き直れば腰をかがめて回り込む。前の机の椅子を引き。良くない姿勢で見上げてきた。

 じっと。じっと。私の様子を見るように。

「何」

「怒ってるけど、困ってないね」

 え、と。声になっただろうか。

 目が合ったまま、瞬きを思わず繰り返した。

 彼の笑顔が、ほんの少し。諦めの色を混ぜた気が、する。

「みんな、困るんだ。困って、前の名前を言うんだ。ミツル、リョウジ、ケンジ、トウヤ、マサキ」

 どきりと、鳴った。鳴った、気がした。

 彼は続ける。『前の』名前を読み上げ続ける。

 彼へと統合される、その前の。

「でも僕は誰でもない。僕は僕でしかない。僕の記憶が誰のものでも、僕の引き出しに何が潜んでいたとしても」


 *


 天才を生み出すためのプロジェクトだと理解している。

 ある方面にのみ特化した『天才』の知識と経験を新しい素体に流し込む。

 複数のヒトの記憶と知識を備えた素体は、あらゆる方面に秀でた天才になるはずだ、と。


 *


 吐き気がした。綺麗な彼の顔に、疑うことなど知らないかのようにまっすぐ見上げてくる瞳に。


 *


 私が何をしたかも、知らないで。


 *


 私は噂でしか知らなかった。分かれてそのまま、アイツは最後の日を迎えたのだ。

 諦めていたのだろうか。嫌だと思っていただろうか。全てを受け入れていたのだろうか。幸運だったと欠片でも思っていたりしただろうか。

 開いたままの出口へ向かう。いつか誰かのものになる知識の詰め込みなんて、今はしたいと、思えない。

「イッチ!」

 腕が引かれた。つんのめりそうになった私を、暖かいものが引き上げた。

 そのまま私は。

 すっぽりと腕に、収まって、いた。

「もし、戻れるのであれば、と、思うことがないわけじゃない。それでも後悔なんてしていない」

 響く。胸板が。腕が。私を覆う、全てが。

「俺はどんな理由でも俺がしたいからそうして、だから」


 *


 ――マサくん、すごくたくさんのお話を知ってるのね。

 ――ケルト民話って読める? コーランって読める?

 ――マサくんはすごいなぁ。


 *


「俺の引き出しに何が潜んでいようと、それは『俺たち』の問題で」

 だから。

 きゅっと腕が締まる。息が出来ないほどに。

「さよなら、イッチ。大好きだった」

 本音か嘘か。

「僕は」

 ……多分、どうでも、よかったのだ。

 唇に触れる確かな君の暖かさに。

 鼓膜に残るアイツの言葉に。

 つんと目頭が熱くなった。

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