20160226:思い出を君にあげる

「じゃあ、どうするの?」

 6月のカレンダーが風に揺れる。消えた歴史の面影は今はもう、色あせた紙の上に微かに残るばかりだ。

「街へ行く」

「負けるのというの!?」

 そっとなでればざらりとした触感が伝わってくる。付着した埃は年月そのものだ。

「そうじゃない」

 ゆっくりと振り返れば、手入れもされず伸び放題のカナの髪が吹き込む風にざらりと舞った。くたびれたジャケットのほつれた袖をそのままに、カナは面倒くさげに押さえつける。

「僕ら二人で何が出来る」

「でもっ」

 割れたガラス。傾いだタンス。雨風の吹き込み放題になった家屋。地下水くみ上げの記憶があった水道も、手入れのされない施設はとうの昔に稼働をやめた。木々は豊富にあったから、電気がなくともどうにかやってきたけれど。

 大量に保存されていた食料ももはや尽きようとしていた。

「狩猟の経験もない」

「そんなの……!」

 カナの頬をそっとなでる。触られてカナは言葉を失ったように口を閉じた。

 ふっくらとしていた面影は何処にもなく。すり切れたズボンも紐で縛る有様だった

「山菜ばかりでいつまで持つ? 冬になったらどうなる。エネルギーもない生活で、生きてそれで、一体どうする」

 カナは悔しげに口をゆがめると、髪を振って部屋を出た。コンクリートの床をこれ見よがしに打つ足音が、僕の元にまで届いてきた。

 溜息が零れてくる。――悔しいのは僕だって、同じだ。


 雪化粧の思い出が僕の中には確かにある。大木に下げたブランコで風に揺られて遊んだ記憶も、小川で転んで手に大きな怪我した覚えもある。記憶の中ではいつもカナが笑っていて、カナと同じ顔をしたサキが気弱な笑顔で着いてきた。

 僕ら三人はいつも一緒だったはず、だ。

 割れた窓に目をやれば、何処までも木々が続いている。窓の縁にかけた僕の手の甲には傷跡の一つもなく。あるはずと思っていた小川は消え、あの大木も何処にもなかった。

 ――気付いたのは何時だったか。


 *


「そんなものないってみんな言ってるもの」

 きょとんとサキは僕らを見上げた。一人街の学校へ通うサキは、高校生になっても相変わらず山の中を飛び回り力一杯日焼けしたカナより、幾分大人びて見えた。

 ロングスカートから伸びる華奢な足をそっとそろえて椅子に座り、課題を解いていたのだと、ノート代わりのパッドを置いた。流行っているからといつもサキが聞いていた、風音のような、ノイズのような、不思議な音が聞こえていた。

「みんなって」

「みんなはみんなよ」

 学校の友達。いつもいく喫茶店のマスター。毎朝毎夕顔を合わせるおまわりさん。本屋のバイトに駅員に、すっかり顔見知りになった駅で一緒の大学生。

 指折り数える。音に合わせて、謡うように。

「雪なんか降ったこともないし、この辺に小川なんてどこにもない。怪我したなんてあるわけないわ」

 いつもの通りに気弱げに、けれど確かに自信を持って。

 カナの手をそっと取り上げてなでて、言う。


 サキが断言した日、世界は変わった。


 *


 僕らに残ったのは、「平久」と年号の書かれたカレンダーだけだった。


 *


「薬とか、電磁波とか、洗脳とか言うの? サキは変えられてしまったのよ」

 憤慨するカナは怒りのままに鉈を振るう。薪を割る。

「街の人たちもみんなそう。私はだまされないんだから」

 息を吹き付け火を煽る。即席で作ったはずのかまどは、立派なそれに変わっていた。

「レイだってそう思うでしょ!?」

 僕は曖昧に頷いた。

 僕には小川の記憶がある。雪で遊んだ記憶もある。吹き抜ける風に、木々の隙間に覗く空は、かつてと変わらずそこにある。

「だから、私は街へは行かない」

 鍋をかける。たっぷり入った水が揺れる。湯に入れるための山菜は、寒風が吹き始めた今、随分数を減らしている。

「レイとずっとここに居る」

 ……それで、僕とカナの二人分、だ。

「いい加減にして」

 がさがさと枯れ葉を踏む音がする。

 壊れた戸に手をかけて立つのは、カナと同じ顔の女性。

 汚れ一つないコートをひっかけ、フリルの多いスカートの下は頑丈さの欠片もない華奢なブーツ。

 カナをまっすぐ睨み見つめている。……いや。今にも、泣きそうに?

「どこに居るかと思ってみれば……どれだけ野生児なのよ」

「……サキ」

「帰ろう? ここに居ても、カナの時間は止まったままだわ」

 そっと取り上げられた手を、カナ逆に掴み返す。驚いたようにサキ一歩足を引いた。

「サキこそ、帰ってくれば良い。街になんていないで」

 ぐつぐつと鍋が煮え始める。カナは一歩、サキに寄った。

「私と、サキと、レイと。三人で暮らそう?」

 同じ顔の違う表情が見つめ合う。カナはちらりと僕を見て。

 サキは、僕など見ることもなく。

 僕は。

「街の記憶になんか負けないで!」

「負けているのはどっち!?」

 甲高い、悲鳴のような声だった。


 *


 僕には記憶がある。消しゴムじゃ消えない記憶。確かな記憶。確かだと信じている。

 カナにも記憶がある。僕らの記憶は同じ記憶だ。

 同じ日の。同じ風景の。同じにおいの。同じ冷たさの。同じ風の。同じ鼻の。同じ。


 そして、サキには。


 *


 例えばそんなものを多重人格というのだろう。

 あるいはキツネ憑きとか、悪霊付きとかいわれたりもするかもしれない。

 サキは僕を見ることはない。もし僕らが正しかったとしたとしても。

 僕はサキの中にはいないのだ。


 *


 だから、多分。


 *


 かまどの火を消してやる。瞬きを忘れたようなカナの目が、サキを、僕を、交互に見る。

 僕はカナの両頬を後ろから掴んでみる。掴んでそのまま、サキへ向かせる。

「笑っている方がいいよ」

 風に揺られてカナの伸び放題の髪が揺れる。

 頬を押さえた僕の手を、一粒の滴が伝い落ちる。感覚が、ある。確かにある。

 少し荒れたこの感触も、ほんのり伝わりくる熱も。

「ほら笑って」

 カナはどこか引きつったような笑みを浮かべる。見えないはずなのに、僕には、判る。

 無理をしていると僕だって、思う。けど。

「やっぱり、この方が」

 消しゴムじゃ消せない想いを君にあげる。人に会い、喜び、怒り、悲しみ、笑い、君がいつか、君の中だけの僕を忘れてしまっても。

 多分、そういうことなのだろう。

「君らしいね」

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