20150626:Welcome back.
何百項目にわたる質問を一つ一つ確認する。
正解を導くプログラムを組むことなど造作もない。問題は『彼』に学習させること。その結果。
質問を重ねる毎に深さを増していく問いに、『彼』の返答間隔も長くなり。
思わせぶりな態度を感じ始める頃、私の決断は。
──NO
呆れと溜息と全くどうでも良さそうな、倦怠感がラボを包む。
目的は達していますよね、は、まだ若い学生の言葉だ。
私は曖昧に首を振る。
「君はこれで論文を書くと良い」
論文としてのレベルが達しているならば、私は不可を付けたりしない。
わかりました。声は不満と言っているが。ばたりばたりと開いて閉じる扉の音を背後に聞き、私はぎしりと背もたれに沈む。
溜息と共に窓を見遣れば、皺を刻んだ、枯れた女が見返して来た。
目前のビルの明かりが落ちて、二十時を過ぎたことを知る。夏至に近いこの時期でも、窓の外はもう夜だ。
耳を澄ませば防音の良くないビルの中ではどこかしらから何かが聞こえては来たものの。
再び深く溜息をつき。液晶ディスプレイを眺めるように目に収める。
数万項目に及ぶ『彼』の反応。外部IFだけを決めたモノ。
内面など知るはずがない。光の当たる表面だけ完成すれば、ブラックボックスは自ずと埋まると考えられたアプローチ。
ソーシャルスタイルはどこまで『彼』に迫れるか。
ギガの単位に及ぶログを、画面に一定速度で流していく。
簡単なチューリングテストに始まり、『彼』の知識を量る試験に。そこから『彼』の個性を追って、最後には『彼』の世に出すことのなかった思いに突き当たる。
──どこが違うと言うのです?
随分付き合ってくれている、助手の言葉がふと蘇る。
『彼』を知る仲間でもあり、弟子でもあり、理解者でもあり、ライバルでもある。
あの子は『彼』だと言い切った。目元を赤くし、うわずった声で。伸ばした手がついに神をも捉えたと。
そして私は否とする。私の『彼』はこの応答を選ばない──。
人とは変わるものである。
応えには意識無意識関わらず、何らかの根拠があるものだ。
根拠は経験であり、知識であり、年齢であり、視野である。
人とは変わらないものである。
一部の有識者はそれを幼少体験の結果と言い、信念と目指すところと、性格という。
『彼』は好奇心の塊だった。
若者向けのドラマを嬉々として眺め。女子学生の内緒話に飛び込んで行き。新宿三丁目で身の危険を感じつつ、呆れた視線に笑って返した。
ログが止まる。最終行を目で追った。
呆れが思わず顔に出る。僅かに笑むのは片端の口元。
──奥様に対する気持ちは、LIKEかLOVEかどちらですか?
覚えている。彼は愛しているなどと一度も言ったことはない。
『偶然が三回続いたからね』
もう必然にしようじゃないか。
呆気にとられたのはもう、三十年も前の事。
──LOVE
模した『彼』は長考の果てにそんな言葉を出力した。
Porca miseria!
口をついて慌てて見回す。ラボの中には私一人しかいないけれど。
こんなスラング、彼ならきっと。眉をひそめておどけて言うわ。
『言葉は品性を表すんだ。さぁ、素敵なポエムを詠もうじゃないか!』
私はpoetessaではないのよと、言っても全く聞かなかった。
──「月が綺麗ですね」と訳したのは夏目漱石。「死んでも良い」と二葉亭四迷。僕は。
あの時、彼はなんと言ったか。
じじじと遠くファンが空に染みいる音を立てる。
私はそっと目を閉じる。私には少しばかり明るく整えられた光を遮り、思い出だらけの闇の中へ。
彼は。
ピ。
急かすようなビープ音に目を開けた。プログラムはまだ動いていた。設問が終わり、プロンプトを吐き出したまま、入力を待っていた。
そこに、文字があった。
> I'll make it necessary.
*
無声映画だった。
ブロードウェイなどといった華やかなものではなく、単館の、時代遅れと言われていた。
白黒の少しばかり早い動きの動画が。どこか古めかしい音が好きだった。
留学先の知り合いも乏しい街の中で。食費を削り、時間を作り、幾度も通った。幾度も。
彼に気付いたのは何時だったか。
見覚えがあった。それだけだった。会釈をされて、会釈を返した。
同じ学科だと、後に気付いた。
『偶然だね』
東洋人に良くある曖昧な表情で。彼は確かにそう……笑った。
*
> Welcome back.
そう、入力した。
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