20150619:カレイドスコープ・ムーバー
正輝は音を立てて手をついた。
目の前で震えているのは……細い体躯、筋肉も欠片もなさそうな、世間の片隅で生きる……カモ。
「ちょっーっと金欠の俺等に恵んでくれれば何もしねーよ?」
全部取る気などさらさらなかった。ほんの一枚、諭吉があれば嬉しいと、カモの耳元でそっと囁く。
「それとも、何かして、欲しいのかな……?」
『カモ』は震えながら手を伸ばす。自分のズボンの尻ポケットへ。
それで良いと、正輝は薄く笑みを乗せる。
『カモ』が財布を──。
「努力なんて報われないもんだと思っているんだろう」
ビルトビルの隙間、都会の暗がりに響いたのは女の声だった。高くもなく、低くもなく、軽くもないが重すぎもしない。
ビクリと肩をふるわせた『カモ』はそれで動きをぴたりと止めた。正輝の肩越し、遥か背後を目にしたままで。
もう少しだったのに。
舌打ちは知らずに出ていた。『壁ドン』していた左手を離し、溜息と共に背後を睨んだ。
光を背負った影がいた。長い髪がふわりと揺れる。丸いラインが肩から腕へ。締まったウエスト、安定の尻。無駄なく筋肉を付けた、真っ直ぐな脚。
女の影。
「焦がれても追いつけないから諦めるのか?」
それが一歩、近付いた。
「……何のことだ」
目を覆うほどに強くなった光は、エンジンの音と共に曲がっていった。薄く漏れ入る電灯が、影の中に輪郭を見せた。
細い顎。ふわりと浮いた唇の端。くるりと見開かれたその瞳。
顎が振られて。
小さな悲鳴が、正輝の脇を抜けて行った。
「あ、待て、おい!」
腕を伸ばしたのは反射だった。掴もうとして、裾にもひらりと逃げられた。
いや、踏み出せば。正輝の瞬発力なら、まだ。
「待つのはお前だ」
「いっ……!」
ピシリと音を聞くのが先か。痛みを覚えるのが先か。
女の手には幅広の帯のようなものがあり。引っ込めた正輝の腕は次第に熱を帯び始めた。
「挙げ句がカツアゲとは、落ちたものだな!」
女の声が響き渡る。狭い路地を幾重にもこだまする。こだましながら。
「……るせぇよ」
正輝を──責めているようで。
「正義の味方ぶってんじゃねーよ!」
力一杯右手で薙いだ。女の腕を押しやるように。
腕に当たる女の。
……ムチ。
「……はぁ?」
抵抗に踏鞴を踏んだ。
腕に払われ、転がった。
「何を寝ぼけたことを言っている?」
正輝を見下ろす相貌は、過ぎゆくフロントライトに照らされて。
呆れたような目と、合った。
「アタシはアンタからカツアゲしようと思っただけ」
胸に痛みと重さを感じ正輝は背中をアスファルトに打ち付けた。
女の足が正輝を踏む。ヒールがぐりりと食い込んだ。
息が止まる。くりりとした目が正輝を正面から覗き込む。
笑みを形作った口もとが、うすらと言葉を紡いでいく。
黒いシャツに包まれた手が、するりと正輝へ伸ばされる──。
「笑顔と幸福、それから未来をなくしたアンタの、『今』を頂こうかとね」
やばい。
渾身の力で身を捩る。しかし、胸元の足は食い込むばかり。
首を振ろうにも限界が。やがて細く小さくしなる手は正輝の額を押さえ込む。
手に覆われた視界は闇より暗く。手の平、指先。感じる形は熱を持ち。
「さようなら」
声を聞き終わる前に。正輝は意識を失った。
妙な柄の日めくりカレンダーの数字は、記憶のものより一週間も後のものだった。
正輝は目を開け身を起こす。知らない天井に知らない部屋。知らない布団のすぐそこに、知った顔が落ちていた。
知った顔。……久しく忘れていたオブジェクト。
「……澄輝」
声に出て、慌てて正輝は口を噤む。
少し震えていた気がした。口の筋肉が震えた気がした。
久しく音にしなかったのに。耳には馴染む音だった。
「まさき……?」
顔が向く。見慣れた、けれど、知らない顔。正輝と同じ、違う顔。
紗がかかったようなまなざしで、探すように腕が這う。
ビクリと肩を振るわせながら。
正輝は慌てて、腕を取った。
「澄輝」
腕が握りかえされる。光を宿さない澄輝の目が、正輝へふわりと微笑んだ。
「お帰り」
*
「たとえ光をうしなっても、回せば新たな画が出てくる」
女は澄輝へ笑んで見せる。
澄輝は手摺りを頼りながら、声を頼りに笑い返した。
「万華鏡だね」
「人生ってのは、そういうもんだろ?」
うん。澄輝は頷く。迷いなく。迷う必要も感じずに。
「手間をかけたね」
かつりかつりとコンクリートをヒールが打つ。澄輝は音へと顔を向ける。
「カツアゲの成果は上々。報酬までもらえるなら言うことなしさ」
顎に掛かった熱にほんの僅か上向かされる。
「正輝はこんどこそ回してくれる。僕がいなくても、新しい光をきっと探せる」
思い出すのは最後の『視界』だ。途方にくれた、泣きそうな正輝を色あせることなく思い出せる。
笑顔を幸福、それから今までの全てを奪った。
正輝に焦がれた。うらやんだ。報われることなどないと放棄した。
光を先にうしなったのは、自分の方。……人生(万華鏡)を壊したのも。
「だから」
──もういいんだ。
最期の言葉は、すべやかな感触にふさがれた。
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