20150703:橋掛け人
酒に酔った勢いのまま飛び出した戸塚は、行く宛てもなく橋の欄干に寄りかかった。見下ろす先にはどこにでもある薄汚れた川が広がり、時折過ぎる車のライトと街灯の光をゆらゆらと力なく跳ね返している。
梅雨の合間の空気は雨こそなかったものの、じめりと肌に纏わりついた。生ぬるいような薄ら寒いような風は川を渡り、潮の臭いを含んでいるかのようだった。
タバコを吸い込み、煙を吐く。風に浚われる煙を見つめる。
タバコを吸い込み、赤く瞬く先を見つめる。
まだ酒が入っているとはいえ、時間が経てば見えてくるものもある。ムキになったのはやっぱり自分に非があるのだと心のどこかで知っているからで、それを真正面から突きつけられたからだ。
──オレはヤツの所有物なんかじゃない。
思い出せばまだ……顔が険しくなっていく。
ややふくれっ面のまま、灰が浚われ欄干を滑って落ちる。行方を目で追う。
ふと、河原に目を留めた。
夏草の合間に黒く凝った何かがいた。瞬きしても消えること無く、座っては立ち、移動してはしゃがみを繰り返す。
女だと思った。よくよく見れば、闇に沈む長い髪の合間に、白い肌が見える。来ているのは白っぽいワンピースに見えた。川風に裾がひらりひらりと揺れる度、細い足が見え隠れする。
不気味より、好奇心が先に立った。酒の勢いがまだ有ったのかも知れないし……ようやく顔を出した月光に垣間見えた横顔が思いの外整っていたからかも知れなかった。
『みいくん、危ないんだよ?』
聞こえた気がする言葉を首を振って追い出した。タバコをもみ消し、軽い足取りで歩き出す。
──オレはオレの好きなように行動する。ヤツの言うなりになんてなってたまるか。
橋の横、河原へ続く階段を降りる。ガサリガサリと草を踏めば、河原の影が立ち止まった。
影はやはり女だった。少女と言っても良いくらいの歳に見えた。
「補導されちゃうんじゃないの?」
だから、おにーさんが一緒にいてあげよう。
親切めかした戸塚の声に、少女はにこりと笑みを浮かべる。聞いているのかいないのか、すっと川面を指さした。
「笹舟が行き着く先を探しているの」
つられて見れば、現れては隠れる月が投げる光りの中を、一つ二つと小さな影が流れて行く。猫のように戸塚の元を離れた少女は水際に音も無く座り込み、すっと何かを浮かべた。
──笹舟。
また一つ。二つ。
見れば少女は片腕に数え切れないほどの笹舟を抱えていた。
三つ。四つ。
先ほどからの動作は、取っては浮かべを繰り返していたからのようだった。
片腕では持ちきれないほどの笹舟を。
「こんなにいっぱい」
「まだ足りないの」
少女はまた一つ、二つと浮かべていく。手元の舟がなくなると、とって返して、取ってきて。
戸塚はふと手を伸ばした。流されたばかりの舟を取る。
月明かりが溜まる船底に……なにか?
「だめ」
少女の手が舟を浚った。水面へ戻し、くるりと戸塚へ振り返る。
まだ幼い白い顔、丸みを帯びたその頬がほんの僅かに膨らんで。
「これは橋を架けてくれる人にあげるものよ」
え、と。僅かに口をついた疑問の音は、衣擦れの音に紛れて消えた。
何となく気圧されたまま、戸塚は少女を見つめていた。
川面の笹舟は月明かりに照らされながらゆらりゆらりと海へと向かう。
最後の一つを送り出すと、少女は暫く笹舟を見送っていた……ようだった。
「向こうへ行きたかったの。それだけだったの」
独り言に、聞こえた。
「言葉と態度と両方ないとだめだって言われたから、橋を掛けてもらう事にしたの」
くるりと少女が振り返る。さらりと癖のない髪が広がった。
闇をうつすような目が、戸塚を、見上げる。
「知ってる? 海の神様はとても強いの。嵐を起こしてしまえるくらいに」
ききぃんと、知っている音が聞こえた気がした。戸塚は遥か空を見上げる。
点滅する小さな光が、彼方の空を過ぎって行く。
光はやがて闇の向こうへ消えていった。──雲の。
「でも、橋をかけるのは大変みたいで。沢山沢山舟が要るの」
あぁ、山の向こうは雨なんだ。……戸塚は思う。
じめりと纏わり付くこの暑さだ。梅雨の終わりを示す豪雨だろうか。
「沢山沢山舟を作ったの。でももうちょっと、欲しいな」
ぽつり、と降り出したのは、大粒の。
ふと見下ろせば……笹舟はどこにもなく。量と勢いを増した、水が。
「お兄さんだったら、海神様は橋を架けてくれるかな」
背を押されて、ほんの僅か、浮遊感を。
みいくん!
戸塚は呼ぶ声と、悲鳴と、水音を同時に聞いた。
*
目を開ける前に聞こえて来たのは、無機的な声だった。
豪雨被害。崖崩れに村が飲まれ、観光バスが飲み込まれた。生存者ゼロ、死者と行方不明者が五〇を超える大災害。
続いて、飛行機のエンジントラブル。こちらは無事に飛行場へととって返して、怪我人なく済んだらしい。
──飛行機が川に落ちたら……。
戸塚は思いながらぼんやりと目を開けた。白い天上が目に入り、エアコンの涼しい風が頬を撫でた。
──橋になる、かな……。
すっと風が動いた。
「みいくん、起きた!」
あの日、戸塚が酒に酔って女の子に絡んでいたのを目撃し、無理矢理引きずり連れ帰って説教をかました戸塚の姉は。
心配そうな顔をするでもなく。
「だから言ったでしょう!? 何人女の子のお化けに引っかかれば済むわけ!?」
ばしりと遠慮もなく叩いたついでに、彼女特性の札を貼り付けた。
──逃げられただろうか。
凶悪な姉の攻撃から。
そして。
戸塚はまどろむ意識の底で願う。
──笹舟の行き着く先で、あの子が愛する人と会えますように。
「だからあんたは危ないって言ってるの!」
──それもしょうがないだろ? オレは、きっと橋を架ける誰かなんだから。
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