20150328:樹木の生き方

 ひょういぃぃ。

 くぅるぅう。


 空高く鳶が輪を描く。高い空は頂上は黒かと見まごうほどで、足下にはくっきりとした人型の陰影が刻まれていた。

 吹き渡る風は冷たく、強い。狭霧は身を震わせるとシャツの襟元を慌てて併せた。

「行くぞ」

 先行隊からの声に顔を上げて応える。岩の上にいつの間にやら刻まれた『道』を一歩、一歩と辿っていく。細い道だ。いや、岩と岩の境目に生まれた、獣道のようなものなのだから、細いという表現はおかしいか。

 狭霧は左手を崖に起きつつ、足下を見やる。絨毯のように視界を埋め尽くすのは樹木であると知っている。地面を覆い、旺盛な生命力のままに高く高く樹幹を伸ばし、太陽光をむさぼるように枝葉を広げて天蓋を作った。

 その樹木の隙間に、コンクリートの塔が建つのもここからまた、見えるわけで。

 ──終末の世界だとは一体誰の言葉だったか。

 狭霧は顔を上げた。感傷などに浸っていては、足を滑られて真っ逆さまだ。幾人もを飲み込んだ断崖は常に狭霧を誘ってくる。

 ──まだだ。

 前を見る。誘いを振り切るように歩を進める。先行隊が大きく手を振るのが見える。その先には山小屋の屋根が見えた。……薄く、煙が上がっていた。細く昇り空まで届くかと思う頃、空気に溶けて見えなくなる。そんな、煙が。

「火があるってことは、まだ無事だな」

 歩を早めて先行隊に追いつけば、僅かの距離でも息が上がる。吹きぬける風はあっという間に汗を乾かし、あえぐ喉をきりりと刺した。

「森林限界を、越えてるだけのことだろう」

 そりゃそうだ。無神経な男は大声立ててがははと笑う。

 ……だからこのルートを選んだのだろうと筋肉ばかりの二の腕を軽くつねって睨んでやった。


 細い明かりの下で、山岳地図を大きく広げる。頬を寄せ合って検討する癖は、新婚ごっこをしたいためでも人恋しいわけでもなかった。

 早く寝ろよと言い置いて、小屋の主はとうの昔に下がっていった。昔は登山客で賑わったという食堂のぶら下がった裸電球に灯りはない。地図を照らすのは細いカンテラ。燃料も豊富というワケにはいかず、小さな灯りを二人で覗き込むわけだ。

「このルートならどうにか」

「まだいけるかな」

 今はこの辺りと指が大きく円を描く。二度突いて滑られる。

 稜線を辿り、一定以上の高度を保つルートを選ぶ。

「裏の裏の裏を通ることになるが、まぁ、幸い季節も良いしな」

 夏場だったことは幸いだったと言える。山の上でも凍えて動けなくなることは無いし、足下にも雪はない。稜線ばかりでは水の心配があるが、山を知り尽くしているというこの男は、水場の見当をつけていたようだった。

「……大丈夫なんだよな?」

「湧き水だからな。通る地層は何千年のも昔のものさ」

 一年二年のものなんか欠片も影響しやしない、と。

 確かに、富士の麓の湧き水は、大渇水の時でも水量を変えなかったと風の噂には聞いていた。ミネラル水と呼ばれる所以も、濾過される過程で溶け込むものだと聞いている。

 狭霧はうん、と頷いた。

 ……理屈を捏ねてみたところで、頷く以外に出来ることなどなかったが。

「明日も早い。植物が起きるくらいの時間には出かけないとな」

 山の天気は変わりやすい。こんな世界になったとしても、そんな『当たり前』は変わらない。

 日の出と共に起き出して、日の入りと共にねぐらに潜る。それが山の生活だと。

「……大体、現代人ってヤツはそのあたりのことを、思い出したってだけじゃないのか」

 狭霧が睨むと、男は大仰におどけて肩を竦めて見せた。


 狭霧だって全く考えなかったわけじゃなかった。

 少しばかり『自然』から離れているとか、日の出も日の入りも大潮も干潮も季節も知らず、高度医療とサプリメントと機械と、あれやこれやに囲まれて。

 そういえば、アレもそんなサプリメントの一つだったか。

『何時までもみずみずしい若葉を保つ植物のように、老化防止を助けます』

 そんなキャッチコピーで売り出された、医薬部外品は。


 小屋を二つ経由して、ついに日本海を望む場所までやってきた。

 東京から奥多摩を経由し、山梨を山沿いに進み、アルプスを辿ってきた。東京から最も『遠い』地、北陸まで。

 山の上から見た限りでは、まだ街はその形を保っている。

 ──間に合った。

 狭霧は安堵に座り込む。男が差し出すコップを感謝と共に受け取った。


 サプリメントのCMが誰の記憶にもすり込まれるようになった頃、樹化は始まったと考えられている。まず、日光を好むようになる。やがて食物を受け付けなくなり、水を異常に飲むようになる。排泄などの行為が減る。その辺りから肌が樹木のそれになる。

 狭霧は幾人もの『患者』を見てきた。最終段階まで症状が進むと、地面を求め根を張るのだ。そうするともう、人型を残した樹木にしか見えなくなる。

 症状を見せ始めた人々は、こぞって『土』を求めた。何千何万と集まる都市で人々は樹木へ変じて行った。

 沢山の樹木が街を埋めた。樹木は我先にと太陽光を追い求め、樹幹を伸ばし枝葉を伸ばした。

 もちろん、原因追及も行われた。……サプリメントが原因だとは終ぞ突き止められなかった。

『DNAの変異が確かにあった』

 細心の注意を払っていたはずのその研究者も狭霧の前で木に変じた。


 ──美味しい。

 この辺りの地質はミネラル分でも多いのか。コップの中身を一息に空ける。

「ありがとう」

 コップを返せば、男はいやいやと首を振った。

「オレに出来るのはこれくらいだからな」

 男はいつものように先に立って歩き出す。日陰を抜けて、稜線へ。高度が下がってだいぶ息が楽になった。

 そして、陽射しが。

 見上げる空には今日も雲の一つも無く。高度が下がった分、風の中に息吹を感じた。

 青臭い草原の、群れ咲く花の。岩の上の砂埃。夏の間だけ生まれる水の。時折過ぎるウサギの、狐の。気流にのって迷い込んだ地上の蝶の。

 人の匂いはその中の、どこにもなく。

 すがすがしさ、すら。

 ただ。

「ねぇ、水をもう少し貰って良い?」

 少しばかり無理をしただろうか。やたらと喉が。

 もちろんと渡されたコップを、狭霧は。

 ……コップは草原を転がり岩の向こうに消えていった。


 何故こんなに芳醇な匂いがするのか。

 何故こんなに日を浴びてほっとするのか。

 人の匂いなどわかるのか。……人の匂いがしないと思うのか。

「やっぱり敏いね」

 男は山刀を取り出した。……逃げる間もなく、振るわれる。

 腹部の痛みは、鈍く、重く。

「峰打ち……ってのかね。こういうのは」

 頽れる狭霧を男は軽々と担ぎ上げた。

「まだ治る。暫くすると折れたままになっちまうけど。切りはしないさ。打撲の方が直りが早いし」

 朦朧とする視界の中、現れた森林を進んでいく。森林を抜けた先、風の通りの気持ちいい、丘へ。

「お前はさんにはこの丘をやろう。ここで花を咲かせて花粉を沢山撒いてくれ」

 男は狭霧をどさりと下ろした。……ひやりと感じた土は、やがてこの上もない暖かさへと変わって行く。

 男の影が狭霧へかかる。……邪魔だ、お願いだから、どいて、欲しい……。

「気持ちいいもんだろう? 東京だけでなく、日本中、世界中がこの進化を味わうことになる」

 にやりと笑んだ男の目は、深緑の葉の色に変わっていて。

「終末の世界? 馬鹿を言うな。これから始まるんだろう」

 ──俺達の世界が。

 すり込まれるように浮かんだ言葉が、狭霧の最後の知覚となった。


 ──日が昇り、風が吹き、雨が降り、葉を落とし、ただ、次世代を夢見て、私は生きる。

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