20150313:真白な春のただ中で

 君の声は大好きだけど、大好きだって言い続けているだけじゃ駄目なんだ。

 僕は君がいなくても一人でちゃんとやっていける。そう証明してきたつもりだし、これからも証明し続けていくつもりでいる。

 まだすらすらとは読めないけれど、点字も習った。住み慣れたこの町でなら、目的地へ辿り着くことくらいなら出来るようになった。自分の家ならどうにかなるし、小遣い程度しか稼げてないけど、一応仕事も始めたんだよ。

 十年も経つんだから、自分の足で立たないとね。視力をなくしたままであっても。


 だから、その話は僕には降って湧いたようなものだった。

「治験というものを知っているかい?」

 実験だから、治るとは限らず。実験だから、治ったとしてもどんな副作用があるか知れず。幸運ならば、以前の通りとは行かなくとも、視力が戻る可能性があるのだと。

 動物実験はまずまずの成果を上げたと医者は言った。悪くしてもこれ以上『見えなく』なることはなく、僕にリスクはなかった。


 *


「緊張している?」

 くすすと看護師の声が届き、僕は冷たい指を握り込む。

 緊張するなと言う方がムリ。僕はぎこちなく声の方へと肩をすくめてみせてみた。

「さぁ、目を開けようか」

 冬の最中の手術を終え、ようやく許可が下りた。

 車椅子に座ったまま外へと連れ出された僕は、皮膚のように馴染んだ包帯が一枚一枚はがされるたび、冷たい風を感じていた。

 全てがとられ、残滓が耳をくすぐり消える。さぁと再び促される。

 僕は心持ち顔を上げる。空と思しき、方を向く。

 それだけですら、光が。

 そっと瞼に力を込める。震えるままに目を開ける。

 間違いなく、光があった。

 闇も光も無い世界が、白く染まって見えた。

 木があった。古く、けれどもあせない記憶は、それが桜だと告げていた。

 黒々と無骨な木肌の太い幹、徐々に細く枝別れる先、白く風に揺られる花。

 木の向こうに広がるのは、花より少し濃さを持つ、空。

 幹の伸びる地面には細く風にもてあそばれる、一面の灰の芝。

 よくよく見れば芝の隙間を白く舞い飛ぶ蝶の影。

 目の前に広がるのは、春だった。白い、眩しい、色のない。

「どうかね」

「先生……」

 懐かしさと、うれしさと、どこかで感じた落胆が。

 一粒目からこぼれ落ちた。


 *


 中途失明者の僕は、視界に慣れれば行動に支障はなかった。

 観察と検査のために退院は許可されなくとも、院内を動き回ること制約はなかった。

 両親は泣き崩れて喜んだ。お世話になった仕事の関係者も見舞っては良かったと言ってくれた。

 君だけが、まだ僕には欠けていた。


 両親に聞くなんてことはできなくて。職場の誰にも言ってない。

 看護師さんに聞いて見るも、見ていないと言われるばかり。

 会いたいと連絡しようにも、僕は君のことを知らなくて。ただ、待つことしか出来なくて。

 トウコと名乗っていたことと。少し高く柔らかなその声と。多分きっと、さほど大きくはないその背と、背中にまでかかる少し癖のついた髪と。


 きっと会えると思っていた。会えたらちゃんと君を見て、もう大丈夫だと言いたかった。

 僕は君を恨んでないし、君が僕に拘る理由などもう何処にもないのだと。

 それでも君が僕を気にしてくれるなら。それはきっと未来に繋がるものだと心のどこかで信じたくて。

 十年前。君がくれた最初で最後の手紙を握る。初めて『見た』その手紙には、小さく丸く消え入りそうな細い字が、ただ謝罪を綴っていて。

 白と黒だけのコントラストに大丈夫だと声をかける。もう。大丈夫だから。


 お役御免を言いつかったのはそれから暫くしてからで。結局彼女に会えないままに、僕は病院を後にする。

 心配げな両親にわがままを言い、僕は一人で町を歩く。白と黒、影と光の僕の町を。

 何度も行き来した交差点。彼女に手を引かれ歩いた歩道。暫く厄介になった職場。僕の好物をいつも握らせてくれたパン屋。

 学生時代から暮らした町で、十数年ぶりの新しい町。

 延々と続く工事の後の新しい駅舎もようやくこの目で見ることができ、ふと僕は足を止めた。

 ──あなたも、ドナー登録を。


 *


 僕の目は水晶体から、網膜から、いわゆる『目』の部分の全てがつぶれていたのだと聞いた。

 事故だった。バイクの事故に巻き込まれ、顔を、目をはじけ飛んだ部品が突いた。

 脳までは至らず、神経は無事だった。

 生きているだけでも奇蹟だと医者にも両親にも何度も言われた。

 トウコはそのとき、バイクに乗った事故を起こした主だった。


「私もあれで腕をやってね」

 バイクのハンドルは握れなくなったと苦笑交じりで言っていた。それでも僕に比べれば、目も見える、足も無事、仕事をするのに支障はないと。

 看護師の噂では、腕だけなんてことはなかったらしい。

 視力を失い病院に居座り続けたほんの最初の数ヶ月、彼女がいたのは偶然でも何でもなかったと。


 目という臓器は、光彩と水晶体と網膜と神経とレンズを調節するための筋肉と。そんな部品から成り立っている。

 僕の受けた実験は、神経と網膜の代わりのチップを繋ぐものだと聞いた。チップは光を検出し、電気刺激を神経に流す。神経が無事であれば、それを脳が再生するはず。

 実験は成功した。しかし、実験には光彩も水晶体も、足りていない。


 数日ぶりの病院は、傾き欠けた陽射しの中、闇に半分を浸しているかのように見えた。

 闇の中、ぽかりと白く浮かぶ入り口へ足を向ける。見慣れた看護師が、あらと明るい声をたてた。

 アポイントメントは簡単だった。少しばかり待たされただけで、すっかり見慣れた担当医師の薄くなった頭が見えた。

 僕の硬い表情から察したか、医者はただただ奥を示した。


 そして小さな画面の向こう側。静かに眠る女性がいた。


「もし見つけられてしまったらと言われていたんだ」

 医者が差し出してきた封筒の中身は、サイズの違う小さな石の欠けた指輪。

「彼女はあの事故で心臓を傷つけていてね。十年保ったのは奇蹟だった」

 いつものように検査のために来院し、発作に襲われたのだという。

 倒れた拍子に欠けたのだろうと医者は淡々と僕に告げる。


 試しに指に通してれば、僕の指に、納まって。


「君は君の人生を歩むんだよ」


 *


 部屋に帰る気にもなれず、町をさまよい河原に出た。

 白と黒の世界は夜になると明度を落とし、慣れた闇が僕を包んだ。


 手の中の指輪はちくりちくりと手のひらを刺しながら、けれど確かにそこに有り。

 ふと……僕は、顔を上げた。


 白が。


 熱を持って、町を。

 僕を。


 君の、この目を。


 *


 指輪をポケットに突っ込んで、僕は草を蹴り立ち上がった。

 白い春が、真白く世界を染め抜く春が、たしかに僕を覆っていた。


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