20150307:炎の涙

 炎が舞い踊るように揺らめく光の向こう側に、あなたは行こうとしている。伸ばした私の手はついと伸びた白い手により阻まれた。

「まだ解らないの」

 手の主は嘲笑を乗せて私を見る。

 ……どう返せば良いというのか。


 人類は地上という枷から、重力から卒業するのだと。

 単に宇宙に出るのではない。ヒッグス粒子にも捉えられない次元に基を置く、概念を越えた存在になるのだと。

 一段と高い次元へ移行し、地上の問題の全てを超えることで解決するのだと。


 説明は何度もされた。手の主から、人々から、あなた自身から。

 神を信じるのでは無く、神を超える。私には一つの宗教に見え、あなたはそれを否定した。これは科学だと。


 私に解るはずもない。解りたいとも思わない。解ったフリをしたこともあった。けれど、今は……後悔している。

 ──選ばれたの。

 弾んだ声で私に告げたあなたは、今まで見てきた中で一番嬉しそうに見えた。

 何に、なんて聞くまでも無かった。

 どうして、なんて聞けることじゃなかった。

 ──結香も……行こう?

 そして私は頷くことが出来なかった。


 超存在はまだ実験すらも出来ないもの。理論的には人格のコピー段階で欠落が起こる可能性すら指摘されている。

 私は平凡な両親の元で生まれ、ごくごく普通の環境で育ち、大学であなたに出会った。

 私は欠落を受け入れられない。この二十年を捨てられない。

 私達が写真の映像の二次元に現れることが出来るように、超存在となってもこの世界には居るのだと理論の話をされたところで、私には受け入れることは出来なかった。

 冥い目をしたあなたは、けれどそれを、受け入れた。

 ──残念だわ。結香のことを思うから言ったのに。

 石油の枯渇、資源にしがみつく大国。覇権争いには限界があって。外敵を求め続ける事でまとめる内政には限界がある。いずれどこかに火が付くでしょう。いえ、いっそ。

 しゃりしゃりと踏まれた新雪の音をまだ覚えている。無慈悲に付いていく陽向と影のコントラスト。靴後にしおれるほそぼそとした草の濃緑。

 そんな風に踏まれても、と。


 それでも首を縦に振れなかった私を、あなたは憐れむように見つめた。憐れむように見つめ、そして、仕方が無いと背中を見せた。


 ──一度だけ。

 卒業してしまう前のあなたと。

 頼み込んで実現した、たわいも無い遊園地デート。

 あなたの目の中に少しだけ楽しそうな色を見たから、もう良いとようやく思えた。

 あなたの中の忘れ去られた記憶の中で、私はそっと生きていけると、そう、思えた。


 揺らめく『炎』が強くなる。

 あなたの姿が遠くなる。

 ──思ったのに。


「馬鹿っ」

 手の主の。実験を見守る『先生』と呼ばれる人々の。手が手が次々と伸びてくる。

 がむしゃらにほどいた。ほどいて進んだ。炎の中に熱の中に。

 手が触れる。熱のような痛みが走る。やがてそれは涙が乾いた後の引き攣れたような感触に変わる。

 腕まで入る。しびれるように腕先を包む。熱ではないと私は気付く。

 肩まで漬かり、じんわりとした何かに似た熱を再び感じ。

 頭を差し入れ。


 ──涙が零れた。


「……なんで」

 引かれて尻餅をついた。

『炎』は私から遠ざかり、熱はもう何処にも無く。

 けれど、鼻の奥、つんと感じるその痛みが。

 頬を伝うその、熱が。

「卒業ってなんなんですか」

 見上げた先、『先生』の一人がひるんだように目をそらした。

「何度も言うように、だな」

 言葉は涙のように……止まらなかった。

「変換って何ですか。あれは」

「あれは次元の境目。人のままでは超えられない壁よ」

 横の『先生』を睨み付ける。睨み付けて、言葉を探す。

 あれは。

「……悲鳴です」

「え?」

「悲鳴です。私には、そうとしか」

 言って気付いた。私は再び、『炎』の向こうのあなたを見る。

 揺らめいて、消え入りそうなあなたは。


 横の『先生』へ体当たりする。よろけた隙をぬけだした。

 操作盤と思しき機械を手当たり次第に叩いて回る。止めようとした手を幾度も払い。

「それは……!」

 ケースの奥の小さなボタン。叩くと周囲が闇に落ちた。


 *


 あなたを思うから、私はやった。

 あなたがあなたを卒業するその前に。

 まだやることがあると思うから。


 そう言いたくて私は毎日病室へ通う。

 冥く閉じられたあなたの瞳が、いつか輝くことを願って。



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