20150214:バレンタインのあとの本番

 星空に魚は泳いでいませんのよ。

 そう言ってアイツは電話を切った。おやすみの一つも無いって事は、機嫌が悪いか呆れているか。あの様子なら客に難題でも振られたか。……呆れは基本で置いておく。

 タバコを深く吸って吐く。白い息が漂う向こうにオリオン座が張り付いている。

「……二月ってのは魚座じゃないのか?」

 たしか前半が水瓶座で後半が魚座だ。おはスタの占いでそんなことを言っていたから俺は事実と信じている。だから魚はどこかと聞いてみたってだけなのに。

 ぴゅるりと風が吹き付けて、流石にタバコの火を消した。肩をすくめて身震い一つ、結露に曇るサッシを引く。流れ出た暖気にほっと一息。ライター持つ手を頭上に掲げ、気合いがてらに大きく伸びる。

「さーて、やりますかぁ」

 土曜日には帰ってくる、アイツを驚かせてやるために。


 俺は別に不器用ってわけじゃない。包丁もつかえる。火加減も分かる。専門用語は知らないが、レシピがあれば簡単な物なら不自由しない。

 菓子類もまた同様。ケーキにクッキー、そんなものなら困りはしない。幸い家にはオーブンもある。そういや、男子校では重宝された。嬉しいとは欠片も思えなかったが。

 それでも不安を覚えるのは、余りにも久々すぎたから。

 ついでに俺が、飽き性だから。

 一年一度のお楽しみ。バレンタインの予行演習。

 スポンジケーキは泡立てが面倒。クッキーは洗うのが。消去法で残ったのは、ごくごく普通のパウンドケーキ。

 ワンパウンドを基本に小麦粉、バター、砂糖をそろえ、ふくらし粉に香り付け、卵は2つ、あとは、チョコ。ココア用の純粉は倉庫の奥から引っ張り出す。

 倉庫冷蔵庫あさって並べ、しばし睨んで考える。

 小麦粉がおそらく足りず、全粒粉がほんの少し。アーモンドプードルがあり、割りチョコは十分。うちの砂糖は三温糖で、バターが無くてマーガリン。こっちも少々不足気味。バニラエッセンスはあるが、秘蔵の『山崎』も発掘した。卵がなくて、牛乳たっぷり。せめて生クリームが欲しかったか。

 おふとん恋しいこんな時間。買い物なんて選択肢はなく。

 コンロの向こう、ステンの壁に、笑みを浮かべる俺がいた。


 ──俺に対する、挑戦だ。


 半量にしたマーガリンはひたすら泡立て、やわらかく白く角が寝るまで。

 残りの半量、砕いたチョコを湯煎のボールに放り込む。マーガリンが終わるまで、そのまま放置で溶けるだろ。

 マーガリンに砂糖投入。さらさらとは行かない湿り具合も、混ぜりゃどうにかなるもんで。

 バニラの香りをほんの少々。隠してない山崎どばば。この香りがたまらねぇ。

 混ぜたら牛乳。大さじで三つかそこらか。面倒だからもちろんいつも目分量。

 マーガリンと牛乳の、分離はいつものご愛敬。

 粉は小麦粉アーモンドプードル半量ずつ……できっとどうにかなるだろう。ココアも匙で目分量。グルテン少ない小麦粉だから、多少練っても無問題。

 最後に砕いたチョコを混ぜ込み、名前の知らない生地が完成。

 去年の残りのカップに注ぎ、一八〇度で二〇分。

 竹串刺して確認して。時間の延長数回やって。

 ──予行演習のつもりだったが。


「レシピって知ってるかな」

 結論。

 時間がやたらとかかった上に、膨らまなかった。生地は重くどこか硬いが、最近流行のチョコレートを全面に押し出したようなシロモノでもない。

 味はと聞かれれば。……食える事は食える。そもそも、食えない材料は使ってない。

 やったことを認めるのみ。

「うちにはないな」

「ネットには沢山あるよね?」

 そんなこと言い溜息をつく。少し崩れた化粧が溜息に輪をかける。

「どうせ俺とお前で食べんだし。面白いもんできたじゃねーか」

 最後に山崎をしっかり芯まで染み込ませ。

 ……ふっくらもさっくりもない、洋酒風味だけサバラン風。

 もう一度溜息を大きく付いて、アイツは鞄と共に奥へ行く。鞄を置いて、着替えて洗面、さっぱりしてから……今夜……うん?

 このパターンの記憶に、良い記憶が、ない。

「作ってくれたことはありがたいと思う。食べれることも知ってる」

 扉の向こうから声がする。トレーナーに着替えて出て、そのまま洗面所へと向かう。

 俺は一かけ味見に手を出す。

 ──味は良いんだ味は。

 抱いた結果は自己満足。

「そうそうまずかないってこともわかってる」

 水を拭き拭き戻ってくる。疲れで少し荒れているけど、染みも少なく、くすみもない。綺麗な素顔が俺を見る。……化粧なんかよりこっちの方がずっと良いのに。

「ただね、アタシが言いたいのは」

 椅子に座ったから紅茶を注ぐ。切り分けたブツを目の前に。

「……頂きます」

 素直なところも嫌いじゃ無いぜ。もさもさフォークで掬っては食べ掬っては……。

「何で美味しいのか謎なんだけど」

 俺は腕を持ち上げて、二の腕を軽く叩いてみる。

「それは、ない」

「断言かよ」

 ブツを食べきり紅茶に手をつけ。飲みきり俺を睨めつける。

 ──なんだよ?

「同じ物、作れる?」

「あ?」

 見上げて来る目に瞬きで返す。視線を逸らして考えても、まぁ、答えはそうそう変わるまい。

「ムリ」

「終わりよければって?」

「わかってんじゃん」

 帰ってきたのは盛大な溜息。長く真っ直ぐな髪がゆれ、顎肘付いて半眼で。

 ……俺、なんかした?

「だっからあんたは会社やめたんでしょーが」

 そこ、です、か。

「規約無視てコード書いて。後の人間がどれだけ苦労するとおもってんの」

「あんときは納期が」

「納期が、じゃないでしょ。納期も大事だけど、そうじゃないでしょ。小器用な人間がスタンドプレイで、納めてお終い? 違うでしょ?」

 言葉が出ない。

 ……全て事実、だったわけで。

 俺がコイツの家にいる……ヒモをしている理由なわけで。

「その辺わかんない限り、就職なんて夢のまた夢なんだからね!?」

 叩かれて鳴ったのはテーブルだったが。

 俺は頬を張られたように、うなだれた。


 こんな日は経験上別々に寝る方が良く。

 アイツの部屋の扉の前、毛布を被って考える。

 機嫌はもとから悪かった。あんまり良い評判の客でも無い。トラブったか、失注したか。

 ……それくらいしか浮かばねぇ。

 とんと壁が鳴った気がして一人耳をそばだてる。街道を走るバイクの音。どこかで走る救急車のサイレン。アナログ時計の立てる音。

「あのね」

 ささやかな声。俺は曖昧に返事をする。

「……どうしようかと思って」

 主語が無い。目的語が無い。黙って身じろぎ。『先を話せ』きっと伝わる筈と思って。

「子供、出来たっぽいんだよね」

 耳を疑い。続きを待ち。

 車のスピン。一番電車の線路の音。遠く響く港の汽笛。アナログ時計はかちこち、と。

 堪らずドアを引き開けた。

「主夫だってなんだって、やってやる」


 予行も何も吹っ飛ばした、本番がやってきた。



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