20150206:川辺の舟
三艘の舟が舫い綱だけを頼りに河面に揺れていた。
深い山々が周囲を囲い、川下は霧の彼方でどうなっているか知る事は出来そうにない。舟に乗り舫いを解いた者だけが、その先を知る事になる。
「私も切符を持っているの」
ショートカットの女は良子の差し出す切符を取り上げしげしげと眺める。もう一人のポニーテールの女は、呆れたように見返してきた。
「切符があっても舟は三艘。ココには四人」
「定員オーバーだ」
断言したのは男だった。譲る気はないとでも言うようにすでに足を舟にかけている。
「そういうこと」
ポニーテールの女は肩をすくめて舟へ向かう。付き合う気などないと軽やかにテールが揺れた。
「それ、本物?」
ショートカットの女は怪訝な顔で良子を見上げる。良子は慌てて勢い込んで頷いた。
ぎいと舟が傾ぐ。男の重みが舟に掛かり、ちゃぷりと河面が音を立てた。
「じゃぁ、誰が偽物なの」
「俺のは本物だぜ。長い間、ずっとチャンスを待ってたんだ」
男はズボンのポケットから切符を出してみる。遠目ではあるが、良子のものとさほど変わらないように見えた。
「私のも本物よ。舟守から直々に貰ったんだから」
ポニーテールは嫌がらせのように胸の谷間から紙片をつまみ上げた。これも同じようなものに見える。
「あたしのはこれ。本物でしょ?」
ショートカットは良子の前で手にした切符を振り、男へ、ポニーテールへピラピラと振って見せた。
視線が互いを往復する。
男は自分が正しいと疑わないようすでポニーテールを、ショートカットを、良子をいい加減にしろとばかりに眺めやる。
ポニーテールは不機嫌さを顕わに溜息で応じる。
ショートカットはひょこひょこ飛び回り各人の切符を見て回る。
「本物、みたいだ」
ショートカットの視線が止まる。男が。ポニーテールが。良子を。
良子は、息を呑む。
「……これだって……」
差し出した切符をショートカットは無造作につまみ上げる。
あと、声を上げる間もなく。
二つに破いて空に放った。
霧の向こうは曇り空のように何かが重く垂れ込めているようだった。
いや、垂れ込めているもなにもそもそもそこにあるのは空ではない。……それくらいは良子にだって分かっていたのだ。
「どうしても、乗りたいの」
「どうしてもって言われてもね」
ポニーテールが溜息をつく。
「お前、新顔だろ」
生意気だと、男は言う。
「あたしたちはずっと待ってた。この意味が分かる?」
ショートカットは舟に腰掛け良子を見上げる。
怒るわけでもない、けれど、強い何かをその瞳に乗せながら。
良子は頷くしか、なかった。
それでも。
「今日なの。今日しか、ないの」
目頭が熱くなり、慌てて瞬く。涙に訴えたいわけではないのだ。
「おねがい……」
「お願いされてもねぇ」
溜息はポニーテールだ。
「奪う気なんてないの。私も、私も乗せてもらえれば」
……乾いた笑いは、男から。
「冷たい方程式って奴だな」
お前を乗せたら沈没する。無事に流れていくためには、一つの舟に一人だけ。
「そんな厳しいものじゃないよ。まだ、引き返せる」
ショートカットは今度は良子を見上げた。真っ直ぐな目が良子をのぞき込んでくる。
「たった五十年かそこら。長くたって百年はかからないよ。それだけ待てば良い」
男は七十年と言ったか。ポニーテールは一二〇年とふて腐れた様子で言った。
ショートカットは苦笑いしつつ、あたしは二十二年と。
「あなたは、二年だね」
当てられたから。頷くしか、なかった。
どこからか現れた舟守が時間だと告げ、まず、男の乗った舟が舫いを解かれた。
僅かな波を女達は見守り、見送る。
「知っていたの」
良子が新人であると。
「見た時にね。こう、何か引っかかったの」
爪を短く切りすぎて、そこがずっと気になるような。
ショートカットはスッキリしたと良子へ静かに笑いかける。
「ひっかかったって、あんた覚えてるの?」
ポニーテールは呆れたようにタバコの煙を吐き出した。当分お別れなんだからと舟守にねだってせしめた物だった。
「どうだろう?」
ショートカットは肩をすくめる。ただ、と言葉を濁しながらも良子へちらりと視線を走らせる。
「……なんとなく、一番最初の記憶の、欠片のようなものを感じただけ」
ふっと笑んだそれが。
良子にはなぜか、懐かしくて。
促されてポニーテールが立ち上がる。タバコを踏み消し、それじゃと舟に納まった。
ゆっくりと、ゆっくりと、舟は煌めく水面を滑っていく。
新たな時の始まりに向けて。
「多分、この場所が……一番その時に近いから、なんだろうね」
ポニーテールを見送ったショートカットは、よいしょと言いつつ舟を下りた。良子より僅かに小さなその背が、すくりと立つ。
「で、あんたはなんで乗りたかったの」
──怒らないから、言ってごらん。
良子はショートカットをまじまじと見返した。小柄で、俊敏そうで、見るからに快活そうな女は、良子と同じくらいの歳に見える。……いや、それを言うなら、男もポニーテールもだ。
知っている声のような気がした、のに。
「……恋人だったの」
「ん?」
もとはといえば、
……持ち込めないはずのものだったのに。記憶の戻りは愛故か、それとも執念、だったのか。
「生まれ変わって、あんたを殺した相手の、子供になろうって?」
呆れたような。
……仕方が無い。そう、自分でも、思う。
ふっと笑んだ、気配がした。
「馬鹿な子だね。あんたは」
ぎぃと舟がきしむ。促され、ショートカットが舟に乗り込む。
「切符は渡せない。あんたはすこし……頭をひやしていなさい」
──呆れるしかないじゃないか。
また。
良子は女を見る。河面を滑り出した、舟を。
いかないで、と、声にならない言葉を口の端に載せながら。
「紫色の瞳でも希望してみるよ。そして、ラベンダーでも庭に植えて貰おうかね」
それで。
女が悪戯でもするかのような、極上の笑みを見せた。
「親殺しでもしてみるよ」
舟は川を下っていく。晴れることのない霧の向こうへ。混沌渦巻く『生』の世界へ。
良子は舟を追い、くるぶしを水に浸した。
かあさん。
音にならない言葉がまた一つ。
霧に溶けて川に落ちた。
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