20150116:欠銀球の猫
心を無にしろ。姿勢を正せ。
構え、構え! 構え!!
バナーに火を入れそれに向き合う。
繊細な細工の輝きを前に、息を呑み右手を構える。
勝負は一瞬、白熱した瞬間。赤く耀く金属が表面張力の名の下に。
また。
『お疲れ様ー』
くにゃりと曲がった銀球を前に、バナーを止めて手を伸ばした。ばきりばきりと肩が鳴る。腕も腰も、何もかも、だ。
耐熱煉瓦の上の球体は、ふにゃりと上部をゆがめていた。線の切れたはしっこがくるんと球を描いている。
コレを直すとしたならば。
球の部分を全て切除。切除部分に合うように、はめ込むパーツを整えて。気合いと一瞬のこの作業を最初から。
では最初から? ……それも嫌だ。何ヶ月かかったと思っている。何個目だと思っている。一つ一つを組み上げて、磨いて組み立て接合して。
また同じ事をするだけだけど。するだけ、だけれど。
──いつに、なったら。
『今日は仕舞いなー』
膝へと飛んだ黒い影は。適度な重さと僅かな痛みをもたらしてくる。そして精一杯伸びた背は。
「冷たいよ」
鼻を付けるな。冷たい鼻を。
まん丸瞳孔のでかい目をして、俺を下から覗き込む。小ずるい髭がふにゃりと泳いだ。
『飯』
「……あいよ」
合図代わりに溜息付けば、大人しく膝から降りやがる。人よりよっぽど小ずるいコレは、多分、猫。アイツの隙間に嵌まる猫。アイツの代わりに居着いた、猫。
俺の足に纏わり付きながら、蹴られない位置を知っている。蹴られない位置を保ちながら、飯だ水だ寒いぞ暑いぞ、トイレが汚いボチボチ寝ようとにゃーにゃーいつも啼いている。
啼き声の意味を何となく解すのは、確かきっと最初から。
大好物のカリカリを皿に。オマケで今日はカツブシを。贅沢だろうと思いつつ、水受けは洗ってミネラルウォーター。
硬度の高い銘柄は、アイツが置いていったもの。
歓声のように一声啼いて、猫はカリカリに取りかかる。カリコリぽりん。無音の部屋に小気味いい音が響き渡る。
暫く無心に喰った猫は最後の一つを丁寧に飲み込む。俺がぼんやり見ている前で、ふとその顔を向けてきた。
少しシャープな顎を上げて。毛艶の良い耳を立てて。長い髭を前へ張って。
『これが夢にまで見た生活って奴なんだよな』
笑うかのようにニャーと啼く。
愛らしいのか憎らしいのか。俺は乱暴に小さな頭を撫でてやった。
銀色の球細工を作ろうと思ったのは、そういえばいつのことだったか。
望月よりも三日月を。真円よりも歪んだものを。面白いからと好んでいた。少しひしゃげて濁った音の小さな鈴は、余り鳴らずに猫の首を飾っている。
完璧なんて有り得ないから。少しばかり欠けた愛でも良いんじゃないのと、仮にも恋人に言う台詞か。
真意を問うことは出来ないけれど。
冷えた細工をもてあそぶ。一部が欠けた球細工は、鈍く蛍光灯を反射する。磨く前の白い肌が、まるで異なる金属のように。
ついと炬燵から伸びた影が、ついと球をかっさらう。球はころんと床に落ち、僅かに転がり静止した。
『何処までも転がっても追っかけるのが大変だしな』
……猫の台詞か。
にゃーと上がった声が俺の中で意味を成す。
『面倒くさがりの猫もいるってな』
まるでアイツが言うかのように。
頭を撫でる。強く撫でれば、沢山とばかりにすいと抜ける。球にちょいと爪をかけては、ぴょんと跳んで一人遊び。暫くそうして遊んだかと思えば。
にゃぁ。
『なぁ』
俺を見る。ねだるでもなく、待つでもなく。黒い瞳で俺を見上げる。
『閉じてないからだって、思わない?』
しっぽが当たる。ころんと転がる。俺の手に当たって止まり、歪みで落ち着く。歪みを下にしてみれば、それはまるで小さな小さな鳥かごのよう。
にゃあ。
『五分前に戻せれば、何でも出来る』
俺の腕にしなやかな背をすりつけて。
『五分間を知っていれば、その先は思いのまま』
ぐるぐると喉を鳴らして。
『世界五分前仮説と……勝手に呼んでる』
にゃぁと抱き上げを要求する。
「……その心は」
あぐらの上へ抱き上げて、炬燵布団を半身にかけて。
でかい目を細めてしなだれかかり。
『今、実証中』
*
多分きっと気まぐれで、何をしたいと問われたから。
五分だけと、ひしゃげた囲いを抜け出した。
借り物の身体で永遠の五分を。
細工はずっと完成しない。
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