20141226:天空球の涙

 その時は刻一刻と近付いていた。雅之は言葉もなくキーボードを叩き続ける。

「少しは休め」

 横に置かれたカップを一瞥する。湯気の上がるコーヒーだ。あぁ、おざなりに返事をすると画面に目を戻す。画面を占めているのは設計図だ。その一角。肝心な箇所が空白のまま。

「……休んでいられるか」

 理論を構築しながら設計図に落としていく。本来ならば幾つも確認しなければならないこと、実験し、決めなければならないパラメータ、全て仮説のままで埋めていく。細分化した機能部の一つを仕上げ、コーヒーから熱が感じられなくなる頃に、人の熱と足音がようやく遠ざかって行った。

 ようやく思い出したかのように深く息をつき、冷えたコーヒーに手を伸ばす。

「簡単に逃してなんかやるもんか」

 独り言が零れた。


 それは雨の日にした約束だった。

 逃がさないでねと彼女は言った。

 夏が近付く毎に薄くなるその影に必ずと雅之は頷いた。

 ただ、それだけの。

 絶対逃してなるものか。君のこの手を──。


 *


 浩介は今日も給湯室に籠もり湯が沸くのを待つ。雅之が籠もり始めてから一月近くも経っていた。

 溜息と共に外を見やれば、豪雨はしとふる雨に変わっていた。季節は春を過ぎ、夏への隙間、梅雨に差し掛かろうとしている。

 涙の音を聞くのならば、こんな音なのだろうか。

 浩介はぼんやり思う。

 『彼女』は今も薄くなり続けている。完全に消えてしまうまであと幾日もないだろう。

「消えるのが早いか、倒れるのが早いか」

 独りごち、コーヒーメーカーへ沸いた湯を落とす。ついでに買い置きのクッキーを皿にざらざらと盛った。

 サンドイッチの一つでも作れれば良いんだがなとは、材料も料理の腕もない自分への自嘲を込めた呟きだ。

 落ちきったコーヒーをポットに注ぎトレイを持つ。何度目か知れない溜息と共に給湯室を後にした。


 *


 これは夢の続きなの。

 少女は天空球のなかで歌うように呟いた。

『きっと母性本能が揺さぶられてしまったのね』

 本当はとうの昔に消えて無くなるハズだったのに。まだこんな場所にいる。

 まるで少年に戻ったかのように泣きそうな顔を放ってなんておけなかった。だからつい口をついた。

 ──逃さないでね。

 掴まえていてもらう事など出来るはずもないのに。時が来れば、宙に溶けると知っているのに。

 それとも、それは。

 ……諦めたと思っていた、願いだったか。

『あなたはどう思う?』

 くすり、僅かに笑んで振りかえる。扉を開けた浩介へと。


 *


 天空球と名付けられた薄青い球形の檻の中に彼女はいた。

 一つ一つ確かめれば何をするかくらいは解る程度の、山とおかれた機械群の中央。一段高くなった場所に。

 檻。檻としか言いようがない。浩介は思う。

 特殊な磁場を発生させていると聞いていた。近寄るときは防磁服が推奨されてもいる。もちろん、推奨だけであるが。

 構わず近づき、天空球を見上げる。球形に曲げられた金属ポールは僅かに弾くような音を立て続けている。それが薄青く発光しているわけだ。

 球の内側、囚われの姫君のように中空に浮かぶ少女は、浩介を振り返りふわりと笑った。

 少女の名前など浩介は知らない。言葉、というより意志は通じるようだったが、彼女から名乗ることはなく、雅之も聞いてはいないようだった。 

「……俺が知るかい」

 そもそもは浩介と雅之の上司が実験のついでにどこからか連れてきた少女だった。

 亜空間と繋がったとか平行宇宙だとか、十四歳を引きずったような上司の言うことなど信じる気は全くないが、彼女が『人』では無いらしいというのは認めざる得なかった。

 飲まず、喰わず。ただじっとそこにいる。背景は透けている。檻に照らされるばかりでなく、薄く淡く光を発しているようにも見える。

 出られないのか出ないのかは浩介の知るところではないが、苦痛に感じている風でもない。

 ……苦痛があるとしたら、むしろ、浩介の方だ。

 少女はさらに深く笑む。それもそうねと頷いているかのように。

 さらりと流れた髪は今にも宙に溶けそうで

「随分、薄くなったな」

 あと、一日か、二日か。一週間か。

 緩く少女は首を振る。彼女自身にも、わからない、と。

「……邪魔したな」

 浩介はトレイを持ち直して部屋を出る。廊下をさらに奥へと向かう。


 *


 掴まえておく方法があるとするならば。

 雅之は画面を流れていく文字を追う。早すぎて全てを理解するのは不可能だが、問題が無いことだけを確認し続ける。

 時を止める事だけ。

 やがて僅かなビープ音を残し、マシンは処理を停止した。コンパイル完了である。

 画面を立ち上げ、キーを叩く。出来たばかりのアプリケーションを実機へとダウンロード。ギガ近い容量に、つい、溜息。

 彼女の『法則』を調べている時間は無かった。『何故』を探る事もままならなかった。

 だから、雅之の解る範囲で彼女を留めようと、した。

「進んでるか」

 声に溜息と共に振り返る。浩介は僅かに驚いた顔で立っていた。

「なんだ、お化けでも見たような顔して」

「無視されなかったからな」

 トレイの上にはカップにポットついでに菓子。注がれるコーヒーは薫り高く。

「……終わったから」

 カップを手に取り一人ごちる。水音に目をやれば、あち、と浩介が慌てていた。

「気をつけろよ」

「終わったのか」

 画面にメッセージ。ダウンロード完了。

 キーを叩く。実機に繋ぎ、コマンドを。

 Enter,Enter,Y。

「……さっそくか」

「時間が無い」

 指が震える。

 Enterに、人差し指を。

 テストなんてしてる暇も無かった。虫取りすらまともにしていない。

 動くはずがない。解っている。

 動くはずが。

 雅之はコーヒーを飲む。画面をもう一度注視する。そして。

 Enterを──。

「……いいのか!?」

 肩口に振り返った。浩介は仁王立ちだ。

 俺は溜息のような……笑みで答える。

「選択肢なんてどこにもない」

 ──押した。


 *


 少女を包む光が増した。解明されたばかりの方法でヒッグス粒子が増大する。

 くすり、少女は笑みを漏らす。

 重力の増加は空間の歪み。歪みは時間を遅らせる。

 彼女の変化は時に伴う……ように見えていたのだろう。

『夢の続きはこれでお終い』

 彼女には彼女の現実がある。

 目覚めるように、帰るのだ。


 *


 天空のような青の中、ただ、涙の音が聞こえる。

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