第10話 勤務4日目(2)

「いえ、上田が何かおかしなことでも言ったのか、と思いまして」

「おかしなことって程でもないですが」

私は上田から、噂だが三階の踊り場で首吊りがあったこと、上田が知り合いに陰陽師がいて御札をもらったことなどを正直に話した。

「そうでしたか。上田は精神的におかしいところがあって、時々、妙なことを言い出すんです。本気にしないでください」

「ってことは、三階の件や陰陽師の御札も嘘だと?」と私。

「というより妄想です。本気にしてはいけません」

「はあ、それじゃ入院したというのも精神的な問題?」と私。

「そうです。すいません、お時間とらせて。失礼します」そういうと高石はビルへと入って行った。

肉体的な病が理由で急遽入院という話は珍しくないが、精神的な理由で突然に入院するなんて、そうそうあることじゃないだろう。

高石の話が本当なら、上田という男は相当に精神的にきていることになる。

だが、上田と話した感じからはそんな印象はなかったが。

まあ、それほど深く話したわけでもないから何ともいえない。

(待てよ、ということは、三階の手摺りの塗装が剥がれていた件、やはりあれは偶然なのか?)

考えられることは、妄想の強い上田は、ある時三階の塗装の剥がれを見て、勝手に話をでっち上げたのかもしれない。

もし本当に上田がそういう男なら、あり得ない話でもない。

そんなことを考えていると、いつの間にか十二時十分前になった。

●十二時:コンビニに、電話で昼食配達をお願い

メニューは鮭と昆布のおにぎり、コーンサラダそして冷たい麦茶だ。

待つこと十分。配達夫が自転車でやって来た。

「毎度、ありがとうございます」と配達夫は、ペコリと頭を下げて言った。

「自転車ってことは、きょうは忙しくないんだね」

「はい、もうわかっちゃいますか?」

「どうでもいいけど、忙しい時と忙しくない時、何か極端過ぎないかい」と私は半ば同情して言った。

「はい、ぼくもそう思います。でもきょうは、このビルでもう一軒配達があるんです」

「このビルで?」

「はい、アイラボの高石さんからで」

「あ、ああ、そういうこと」

「配達する立場からいえば、こういう同じビルで多く配達する方が効率がいいんですけど」

配達夫は私から料金を受け取ると急いでビルに走って行った。

そして三分と経たないうちにビルから出て来た。

「速いね、仕事が」と私は声を掛けた。

「はい、配達は速くないと」

配達夫はそう言うと、自転車で走り去った。

(考えてみれば、あの上田という男は、一度も配達を頼んだことがなかったな)

もちろん弁当持参で来ていたのだろう。

(じゃ、あの高石って人は弁当持参じゃなかったのか。まあ緊急だから仕方なかったのか)

●午後一時:守衛室で待機

漫画雑誌を読んでるうちに、いつしか睡魔に襲われる。

うとうとする感覚が何とも心地よい。

目が覚めるたび、漫画を読もうとするが、またうとうとする。

そんなことを繰り返していると、時計は三時を指していた。

●午後三時:守衛室

(高石さん、きょうは何時頃に帰るのかな)

そんなことを考えていると守衛室の内線専用電話が鳴った。

「あ、はい、守衛室ですが」

「アイラボの高石ですが」

「どうかしましたか」

私は勤務四日目の初めての内線電話に、なぜか緊張した。

「あの、蛍光灯の点滅がひどいんですけど」

(それをバイトの私に直せと?私はそんなことまでやるとは聞いていないよ)

明らかに高石の言い方の奥には、そんな響きが読み取れる。

女性が困った時に、男に助けを求める典型的な構図だ。

「そ、そうですか。それは困りましたね」

「夕方までなら何とかなるんです。外はまだ明るいですから。でもそれ以降だと」

「申し訳ありませんが、その件は私の職務外なので、ビルの設備会社に問い合わせてみてください」

私は正直に言った。

確かに高石は美人だし、出来れば力になりたい気もする。

どうせ暇で時間はいくらでもあるし。

だか私はアルバイトでここにいて、極端にいえばビルの巡回だけが仕事なのだ。

それ以外は聞いていないし、やれと言われても出来ないではないか。

しかもまだ四日目だ。

私はそう思うことにして自分を納得させた。

「そ、そうですか。わかりました。ごめんなさい」

高石は心細さと落胆さを混ぜこぜにした声で言うと、電話を切った。

こういう一件があると、男というものは損な生き物だとしみじみ思う。

美人の助けには応じたいという、一種の本能があるのだろうか。

それが出来ないことの、大げさにいえば罪悪感さえ感じてしまう。

●午後四時半:守衛室

さすがに漫画雑誌を丹念に読みはじめる。

また守衛室の内線専用電話が鳴った。

「あ、はい、守衛室ですが」

「アイラボの高石ですが」

「今度は、どうしたんですか」

この日二回目の内線電話に、またまた緊張する。

「あの、トイレの水が止まらないんですけど」

(今度はトイレか。よく故障するビルだ。設備が古くなってるんだろう)

「申し訳ありませんが、そういう件も私の職務外なので」

「ビルの設備会社に問い合わせて、って言いたいの?」と高石が切り込んできた。

(当たり前だろう。蛍光灯さえ直せないのにトイレだと?無理に決まってるだろ)

「はい、申し訳ないですが、そういうビル設備に関しては私は何も出来ません」

「じゃ、もしもエレベーターが途中で止まって私が閉じ込められたら?」と高石。

「エレベーターの中に非常ボタンがあります」

「それを押せと?守衛さんは助けに来てくれないの?」

「行くかもしれません。しかし業者が来ないと」

「バイトの私じゃ何も出来ない、でしょ?」と高石。

(わかってるなら、訊くなよ。からかってるのか!)

「話は変わりますけど、いま大丈夫ですか?」

高石は突然、話の流れを変えようとした。

「ええ、大丈夫です」

「どうせ暇ですものね。あらごめんなさい。別に守衛さんが悪いわけじゃないです」

(はっきり言う女だ)

そして先ほどの下手に出る話し方とは、思いっきり変わっている。

「守衛さん、このバイトの前はどんな仕事してたんですか?」

(今度は世間話か。この高石も暇なんじゃないのか)

「電子機器関連の技術屋でした」

「あら、インテリだったんですね」

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