第3話 勤務1日目(1)

2.その日(2)

ノートの一ページ目の一番上には、『勤務一日目』との見出しがある。

文字自体はわずかに右斜め調の書体だが、ボールペンできれいに書いてある。

ざっと目を通してみただけでも、時間と何をしたかが克明に記されており、記録者の几帳面な性格を窺わせる。

おそらく、このノートは記録者本人の私的な記録として書いたものだろう。

私は書かれてある文字を読むだけのつもりだったが、その文字というか記録というものに、いつの間にかここに書かれている世界に誘われるのを感じた。


・勤務一日目

●六時:起床

私は六時に起床した。

休憩室と呼ばれるこの部屋には、窓はまったくない。

だが目覚まし時計は六時きっかりに鳴ったから、朝六時だろう。

部屋から出て洗顔、制服に着替えて守衛室の窓の側の机に座る。

やはり朝だった。

窓から見渡す山々の緑が素晴らしい。

絶景というほどじゃないが、田舎特有の清々しさとは、こういうことを言うのだろう。

少し外に出て深呼吸をし、体を軽く動かした。

●六時半:一回目の巡回開始

三十分になったので鍵束のリングを腰に下げ、巡回初勤務の開始。

最初に非常出入口から中へ入るのだが、鍵は多くの種類があるため、片っ端から鍵穴に鍵を差し込んでいく。。

(ええ、と、これじゃない、これも違う)

井上氏が「最初は迷うが、すぐに覚える」と言っていたが、これほど鍵が多いといちいち探すのは大変だ。

それでもやがて鍵穴に合うのを見つけ出し、差し込み捻る。

カチッ。

これでよし。

ようやく中へと入る。

正規のビルの出入口ドアはまだ自動になっていない。

まず入り口にもっとも近い、通路を挟んで左右にある男性と女性のトイレを見回る。問題なし。

そして、そこから奥へ進んで給湯室、通路を挟んで左右にある会社の入っていないオフィスの中も見て回る。

オフィスの鍵も入り口の時と同様に、片っ端から鍵穴に鍵を入れる初心者的な方法でドアを開け、中を見回る。問題なし。

そして一階の一番奥のエレベーターもチェックする。

なぜか五階に停止している。

(ん?)

私がちょっぴり疑問に思った理由は、五階にある会社、アイラボの社員が昨夜八時頃に鍵を返しに来て以降、いままで誰もビルには入っていないはずだ。

二階、三階にあるオフィスの社員なら階段で下りてきたということもあるだろうが、さすがに五階にあるアイラボの社員ならエレベーターを使っただろう。

エレベーターというものは、ふつうはボタンを押した階または最後に停止した階で止まったままのはずなのだ。

だから五階のアイラボの社員がエレベーターを使ったなら、一階で停止しているはずだ。

(ま、いいか)

そう思ったのにも理由がある。

アイラボの社員は階段で下りて来たかもしれないからだ。

階段を一階から五階まで上って歩くのは、多少しんどいが下りるなら大したこともあるまい。

私はそれ以上、エレベーターのことは考えないことにした。

それよりも一階を巡回した記録を付けなければならない。

私は左肩からぶら下げている、多くのチェック項目があるシートの”問題なし”の欄にチェック印を記入した。

どんな仕事もそうだが、初勤務だけは絶対にミスしないようにという思い、これは働く人間の一種の本能なのだろうか。

次に私は、朝なのだが窓が小さいため薄暗い東側の階段を二階に向かって上る。

段数はそれほど多くはないから二階に上がっても、息も切れないし大して疲れない。

一階と同じくチェックを済ませ、チェックシートに記入する。

そして最上階である五階も同じようにチェックを済ませると、私は今度は西側の階段で一階へと下りた。

(やはり階段で下りても、大したことはないな)

階段で一階に下りて来たが、下りるだけならエレベーターは不要と感じる。

出入口ドアの脇に隠しボックスがあり、その蓋を開いてトグルスイッチをONに倒す。

自動ドア機能が作動した。

このビルの一日のはじまりだ。

●七時十五分:一回目の巡回終了

腕時計を見ると七時十五分。

涼しい田舎でも、多少の暑さを感じはじめている。

朝の七時頃は、そういう時間帯だ。

これが東京だったら、暑さはこんなものじゃないが。

私は大きく伸びをすると、ビルを出て守衛室へと戻った。

●八時:朝食の配達依頼

井上氏から教えてもらったように、ここから徒歩十五分くらいのところにあるコンビニに、電話で朝食配達をお願いする。

メニューは鮭、昆布のおにぎり二つ、ミニサラダ、冷えた麦茶だ。

(ほお、安い!これ全部でも二百円くらいだ)

メニューに載ってる価格は、信じられないくらい安くなっている。

それもそのはず、会社から補助が出るからだ。

格安だ、と井上氏は言っていたが本当だ。

待つこと十分でコンビニ配達夫がミニバンでやって来た。

「料金は全部で二百円です」

朝食を済ませ、この個人日誌を書いている。

別に業務とは何の関係もないが、他に大してやることもない。

●十時:アイラボの社員出勤

アイラボの男性社員が自転車を押しながら守衛室に来た。

「おはようございます」

互いに会釈して挨拶をする。

「休み期間なのに出勤とは、大変ですねえ」と私。

「いいえ、大したことありませんよ」

男は笑いながらそう言うと、入出者ノートに記入し鍵を持ってビルへと入った。

個人日誌に文をさらに付け足していく。

●十二時:コンビニに、電話で昼食配達をお願いする

メニューはミックスサンドとハムサンド、そして冷たい紅茶にした。

今度は待つこと二十分。コンビニ配達夫が自転車でやって来た。

「遅くなってすいません、ちょっと混んでたもので」

配達夫は、軽く息を弾ませて言った。

●午後三時:休憩室で休憩。

窓がないため蛍光灯を点ける。

今朝、起きる時ベッドをソファに直したので、ソファに転がる。

体が楽になるが、気は抜けない。

下手に気を抜くと眠気に襲われそうだ。

●午後五時:守衛室へ

まずい!少しだけ居眠りをしてしまった。

他に誰も来るはずはないが、ビル警備を任されてる以上、任務に就いていなければならない。

が、誰にも見られていないため内心ホッとする。

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