夢幻堂
鈴草 結花
第1話 狐面の少年
どこからか、陽気な笛の音色が聞こえてくる。
笛に合わせて響くのは小気味よい太鼓の音で、石畳の両脇に立ち並ぶ屋台は色鮮やかな光を放っている。紺色の空にぽっかりと浮かぶ丸い提灯は、まるで誰かが一つ一つ丁寧に並べたかのよう。周囲からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
あれ、私どうしてここにいるんだろう。
屋台の間に一人立った私は、ぽつりと考えた。
今まで何をしていたのかすら思い出せない。ここはどこなんだろう。どこかのお祭り? でも、いつ来たんだろう。それにどこから……?
袖に目を下ろすと、周りのほとんどの人がそうしているように浴衣を身につけている。白地に、淡いピンクと紫の花。それすら、自分のものなのかわからない。
後方を見ると、屋台の先には大きな赤い鳥居が立っていた。鳥居の向こうは薄暗く、得体が知れない。一方、前方には明るい屋台の列が続いている。
向こうよりは、こっちの方が良さそうだ。
私はひとまず向かう方向を決めると、鳥居に背を向け、華やかな屋台の通りを歩き出した。
ヨーヨーつり、フランクフルト、わたがし、くじびき……
目に映る屋台の垂れ幕の文字を、順番に読み上げてみる。賑やかな雰囲気の割に妙に殺風景だと思えば、どの店にも店員が一人もいなかった。
いや、いないのが普通なんだっけ? 子どもたちは店に並んでいるりんご飴を勝手に取ったり、かき氷を自分で作ったりしている。ほら、自分たちでできるんだから、やっぱり店員はいなくていいんだ。
私は途中の店で立ち止まった。
水面に浮かんでいるのは、色とりどりのスーパーボールだ。ラメ入り、一色、渦巻き模様、半分ずつ色違いのものなど、様々な種類のボールが明かりの下で宝石のように輝いている。水面の中央の台に置かれたケースの中には、紙を張ったポイがいくつも重ねられ、いつでも遊べるようになっていた。
きれい……
すくって遊ぶでもなく、そばに座った私はただぼーっと水面に浮かぶ宝石を眺めた。
あのボール、好きだな。薄い緑と白が練ったように入り混じってるの。抹茶味の飴玉みたい。それなら、あっちの淡いピンクはいちご味だ。大きな緑色のラメはサイダー味で……
頬杖をつき、想像のゆくままに気持ちをゆだねていると、突如、後ろから怒ったような声が聞こえてきた。
「おい!」
このふわふわした気持ち良さを邪魔しようとしているのは誰だろう。まあいいや。放って置けば、そのうちどこかへ行ってしまうだろう。
私は無視して、ぷかぷかと漂うボールを眺め続けた。
「おいってば!」
同じ位置から、さらに怒ったように二度目の声が聞こえてきた。
もう、うるさいなぁ。私はイラつきながら振り返った。
「なによ?」
そこにいたのは、黒い狐の面を被った少年だった。
同じ年頃だろうか。藍色の浴衣を身にまとい、仁王立ちした少年は、私の顔を見下ろすと何かまずいものでも目にしたように沈黙した。
「お前、いつからここにいる」
少年は、やや焦ったような口調で言った。
「ここって? ボールを見始めたのなら、ついさっきのことよ」
「そうじゃない。この場所のことだ。祭りには、いつからいた」
私は少し考えた。
「……さあ。分かんない。気がついたらいたんだもの」
「お前、名前は」
私はまた考えた。
「……さくら。赤石、さくら」
ようやく口に出してから、私は驚いた。
あれ? 自分の名前を言うだけなのに、なんでこんなに時間がかかったんだろう。名前なんて、考えるまでもないはずなのに。
私は急に空恐ろしくなった。
そうだ、私は自分の名前を忘れかけていた。しかし、そんなことがあるだろうか。それに、知らない場所にいるのに、なんでこんなに平然としていられるんだろう。
――おかしい。何か、ありえないことが起こっている。
動揺する私に対し、少年は落ち着いたものだった。
「名前が言えるなら上等だ。それ、絶対に忘れんなよ。帰れなくなるから」
「え、帰れなくなる……? どういうこと?」
私は混乱した。
「説明はあとだ。ついて来い。ここじゃ誘惑が多すぎる」
そう言うと、どことなく偉そうな態度の少年は、こちらに背を向けて歩き出した。私は慌てて立ち上がった。
少年は早足で石畳の通りをどんどん進んでいく。おかげで、通り過ぎる屋台や周囲の人々の様子を見る暇もない。それでも、道行く人の共通点に気づかないわけにはいかなかった。
私は少年の背に問いかけた。
「ねえ、なんでみんなお面をしているの? それに大人はどこ? さっきから子どもしか見かけないんだけど」
突然、少年が足を止めた。私はすんでのところで急ブレーキをかけた。
危ない。あと一秒遅かったら、ぶつかるところだった。
狐面の少年は振り返って言った。
「面? それならお前だってつけてるじゃないか。気づかなかった?」
少年は、つん、と指先で私の顔に触れた。いや、正確には顔ではない。
面だ。
私は、よく店に売っているような、プラスチック製の面をつけていた。つるつるしたその表面に両手を触れて外してみると、それは白いウサギの形をしていた。片耳にはかわいい黄色のリボンがついている。
いつからつけていたのだろう。
私は驚いて面を手に固まった。
「ここにいる者は皆、自分の顔を持っていない。だから、代わりに面をつけているんだ」
少年は淡々と言った。私はわけがわからず少年を見返した。
「顔をもっていない? どういうこと?」
「ここにしばらくいると、顔をとられてしまうんだ。ほら、そこの水面で見てみろよ」
少年は道の外れにある水瓶をあごで指し示した。古びた瓶の周囲にはうっすらと苔が生えており、隣の竹筒からちょろちょろと水が流れ込んでいる。
私は石畳を下りて水面に近寄った。そっと水面をのぞき込んだ私は、そこに映る自分の姿を見て首を傾げた。
なんだかよく見えないな。目が悪くなったのだろうか。
さらに顔を近づけた私は、その意味に気づくと、ぎょっとのけぞった。
「え、うわぁ!」
びっくりした拍子に、片手に持ったウサギの面が地面に落ちる。
ぼんやりと見える顔は、確かに自分のものだった。だが、ひどく輪郭がぼやけている。よく見れば目がある、鼻がある、そんな感じだ。カメラのピントが合っていない時に似ている。
「な、見えないだろ? でも、お前はまだマシな方さ。時間が経てばさらに記憶を失い、しまいには、ただののっぺらぼうにしか見えなくなる」
少年は少しかがんでウサギの面を拾い上げると、私に渡した。
私は面をつけ直す。存在感の薄れた顔の上に面を被せると、心なしか気持ちが落ち着いた。みんなが面を外さないのはこういうわけか。
少年は再び歩き出した。私も石畳の道に戻って後を追う。
面をつけている理由はなんとなく分かった。しかし、もう一つの質問に答えてもらっていない。
「じゃあ、大人がいないのはどうして?」
「さあな。子どもの方が引き込まれやすいんだろ。詳しいことは俺にも分からん。だが、長い間いれば何もかも忘れ、帰る気すらなくなってしまうことは確かだ」
屋台は階段の前で途切れていた。長い石段を上りながら、私は徐々に焦りを覚え始めた。
「それなら、早く帰らなくちゃ。出口はどこ?」
上り終えた先にあったのは、大量の面の壁だった。
門のように両脇に並ぶ面の壁は奥のお堂に向かって続いており、一つ一つが提灯のようにぼんやりと光っている。
神社の境内、といったところだろうか。大量の面を除いてはあたりは閑散としており、笛の音も随分遠くに聞こえる。
少年は階段とお堂の真ん中で足を止めた。私もそれにならって立ち止まる。
「出口はない」
「え?」
私は耳を疑った。
「少なくとも、俺は知らない。だが、見つける方法はある」
少年が振り返った。面の光に照らされて、黒い狐の面がつややかに浮かび上がる。
「自分だけの面を探すこと。それが、お前がここから出る唯一の方法だ」
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