交声曲 第一幕
ある日、建物の中を探索していると果物の甘い香りがした。
その香りを頼りに進み、扉を開けると…そこは喫茶店でした。
カウンターの奥に居た黒髪の男性は、少し驚いたような表情をしていたけれど、にこりと笑って椅子に座るよう促してくれた。
この店にはメニューが無いらしく、『どうしたものか…』と悩んでいると、温かいお茶を出してくれた。
目の前のお茶からも、先程の甘い果物の香りがしたので男性に尋ねると…
「僕の名前は
と、教えてくれた。
あぁ…だから知っているんだ。
納得して口に含むと、とても美味しかった。
「君、名前は?」
「私は……えっと、
「じゃあ、つーちゃんだね」
一瞬、本当に一瞬だけ自分の名前が思い出せなかった。
…というよりも、私に名前なんてあったのだろうか。
紅茶を飲んでいると、ヘッドフォンを付けたままだったことを思い出した。
流石に失礼だったんじゃないかと、外そうとして気が付く。
この店に入ってから、彼女の声が聴こえない……。
そろそろ帰ろうか…と、思ったけれど私はお金を持っていなかった。
まさか、お店に入るなんて思ってもいなかったんだもの。
「安心してくれてかまわないよ。このお店では、お金は貰はないんだ。使い道がないからね…」
この男せ…虹輝は変な事を言う。
食材とかを仕入れたりするものじゃないのだろうか?
「みんな、お砂糖とか小麦粉とかをお金がわりに置いて行ってるよ」
「……」
そんな…食材なんて持ち合わせていない。
……あれ。
そういえば私、食べたり飲んだりするのいつ以来だっけ…。
「つーちゃんからは、ちゃんともらっているから大丈夫だよ」
「…え?」
「ココ、聴こえないでしょう?」
虹輝は、耳を指でとんとんと叩く。
ヘッドフォンから彼女の声が聴こえないのは、虹輝の仕業だったんだ…。
「もう、帰るの?」
「…はい。ここは、彼女の声が聴こえないから」
「そうか…。じゃあまた、林檎の香りがする頃に紅茶を飲みにおいで」
扉を開けて、店から出る。
扉が閉まる瞬間、振り返ると虹輝は笑顔で『またおいで』と手を振っていた。
扉がしまると、林檎の香りは全くしなかった。
ヘッドフォンからは、再び彼女の声が聴こえる。
———————————
あの日から、林檎の香りがするか確認するのが日課になってしまった。
虹輝は少し苦手だけれど、あの紅茶はとても美味しかったから。
林檎の香りがしない日は、公園に行って風を感じながら声を楽しむ。
思えば、私はあまりやることがなかった…。
しばらく経ったある日。
いつもの様に林檎の香りを確かめていると、前回よりも強い香りがした。
扉を開けると、前とは変わらない店内だったけれど、カウンターの上にはカップと置手紙が一つ置かれていた。
『つーちゃんへ。
少し席を外しているから、先にお茶飲んでいてね。
虹輝』
林檎の香りが漂う店内で、ホットアップルティーを飲む。
今日は、私しか来ていないみたい。
静かな空間は落ち着くけれど…。
“音”がしないのは落ち着かない。
この店は意地悪だから、彼女の声が聴こえない。
こういう時は、私が“音”になればいいのかもしれない。
…そういえば、昔何処かで聴いた歌があったな。
それは、寒い季節の夜に聴こえてきた歌。
たくさんの音が奏でていた。
私1人では“あの音”にはなれないけれど…。
思い出しながら口遊む。
「独特な歌い方をするのね」
私以外の“音”が聴こえた。
カウンターには、髪の長い女性が1人で紅茶を飲んでいた。
女性の存在には、全く気が付かなかった…。
「私は好きだけど、大変でしょう?」
女性は、ピアノの鍵盤に手を添える。
「今度は、私も貴女の“音”になるわ」
私が再び歌い始めると、また“新しい音”が聞こえ始める。
伴奏ではなく、私以外の音をピアノで歌ってくれているのだ。
私は、さっきとは歌い方を変えた。
とても心地よく歌っていると、今度は少し幼い声が混ざった。
少しだけたどたどしく、けれど愛おしいその声を邪魔しない様に、私はまた音を変えた。
ずっと、この幸せな時間が続けばいいのに。
そんな風に思えたのも、久しぶりだった。
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