1話

 朝教室の前にまで辿りつくと人だかりが出来ていた。

 まるで自分の好きな芸能人にでも会ったファンのような態度だ。正直、朝には弱いからあまり騒がないでもらいたい、マジで。頭がガンガンする。

 人垣を掻き分けて1-Aクラスに入室すると、何故周囲が騒がしい空気で満たされているのかそれが今わかった。

今まで空いていたはずの席が一人の生徒によって埋まっていた。荒野に咲く一輪の花の如き少女がいた。白浜有栖。雪の結晶のように透き通った切れ長の銀瞳。人形のような顔立ちにモデル体型。実際に彼女は芸能事務所に所属していて、今大ブレイク中の人気女優なのだ。

―― 人気だからといって入学式にだけ出席して2か月後に登校か。芸能界には疎いからわからんが、そんなに大変なのか。

改めて彼女の顔を見る。

確かにかわいい、が。人間みてくれに騙されちゃいけない。この世に完璧な人間は存在しない。必ずどこかに欠点はある。彼女にもそれはあるのだ。


「あ、あの!白浜さん」


一人の男子生徒が有栖の前まで歩みよる。そして意を決したように一呼吸置くと、少し上擦りながらも話し出す。


「僕、入学式にあなたを見てからずっと好きでした!僕と付き合ってください」


彼は頭を下げながら右手を差し出す。その様子を有栖はどこか微笑ましそうにみながら一言。


「無理です」


いや一言ではなかった。有栖の口撃はまだ続く。


「そもそもあなたのような一般庶民とこの私が釣り合うわけないでしょ。身の程を知りなさい」


と冷厳たる言葉が教室中に響き渡る。

彼女の欠点、それは毒舌すぎることだ。それがいいと今話題のなのだが、最近の話題性の基準が俺にはわからない。

でもよくやったよ名の知れぬ男子生徒君!小心者の俺にとっては出来ない行為だよ。

男子生徒はおもむろに顔をあげる。目尻には輝く雫が。これは泣きわめいて帰るだろうと俺は踏んだのだが……


「僕絶対に諦めません!」


と言って教室を去っていく。

あれだな、この学校の男子生徒はみなおしまいだな。告る奴告る奴みんな同じことを言って去っていく。どんだけマゾヒズムがいるんだよ。

俺は心中で悪態を吐きつつ自分の席に移動する。俺の席は運が良いのか悪いのか毒舌姫のお隣だ。

クラスメイトとはいえほぼ初対面であり、これから隣人になるのだから挨拶をするべきだろうか………した、ほうがいいよな。しないといけないかな~腹痛いな~。

よし……!

俺は腹をくくり有栖の方向に視線を向ける。


「話しかけないでくれるかしら」


「―――」


―――まだ何も言ってないわ!

あぁ。俺こいつ嫌いだわ。なんでこんなやつが人気でるのか、世も末だな。

お望み通り俺は何事もなかったかのように姿勢を正し朝のホームルームの時間まで待つ。



先ほどまでの騒ぎは消沈し1時限目の授業が始まった。

1時限目の授業は現国で進学校もあってかその内容は中学と比べてしまうと難しいものになっている。

クラスメイトたちは授業に遅れまいと手元と黒板に集中している。俺も集中していたのだが授業開始数分でそれは出来なくなってしまった。その理由は隣の住人が先程からこちらをチラチラ見ているせいだ。

さすがに鬱陶しくなってきたので小声で話しかける。


「どうしたんだ……?」


俺が声をかけるとビクッと有栖は体を震わせ動揺するが先ほどようにクールビューティーさを取り戻し言った。


「教書を見せてくれないかしら」


「別に構わないが、お前さっき俺に話しかけるなって言ったろ?いいのか、そんなやつから借りて」


「そ、それは……」


俺の指摘に再び動揺する有栖。俺は少しの愉悦を楽しむ。

その時だった。クラスのあちこちからボキッと何かが壊れる音がするのは。確かめるために前の席の男子生徒を見ると……真っ二つに折れたシャーペンを握りしめこちらを睨んでいた。それどころか周りの男子生徒の視線が俺に集中砲火されていた。これ、俺が悪いの?

俺はしぶしぶと机を近づけ教科書を差し出す。


「あ、ありがと……」


有栖は小声ながらもしっかりと礼を述べる。

それからは授業は着々と進む。

授業も後半に差し掛かった所で先生が俺の名前を呼ぶ。


「柏崎新太くん。次の問題解るかな?」


先生の透き通るような綺麗な声が俺の耳朶をくすぐる。

考えを巡らせるがあと一歩のところで答えが出なかった。


「すみません。解らないです」


「そうか~……じゃあ、有栖さんはどうかな?」


有栖は指名されると席を立つ。立ち姿にも気品が溢れていたように思える。


「係り結びです」


「はい。正解です!」


見事に答えを的中させた有栖は席に座ろうと腰を低くする。彼女は座り様にこちらに顔を向けると、フッと人を小馬鹿にしたように鼻で笑う。

少しイラッとしたがこれは答えられなかった自分も悪いので気持ちを上手く落ち着かせる。

陽の目が左手に重なる。顔を左へ仰ぐと雲ひとつのないスカイブルーが広がっていた。蒼空には茶褐色の2羽の鳥が旋回しながら空を舞っていた。きっと遊んでいるのだろう。その様子を瞼の重さを感じながら眺める……。



4時限目は実験なので化学実験室に移動すると、これまた人だかりが出来ていた。実験は原則、2人1組で行わなければいけない。だから誰が有栖と実験を行うかその争奪戦となっていた。俺は興味がないので横を通り過ぎ適当に着席する。長くかかりそうなので腕を重ね顔を埋めながら机に突っ伏していると、戦争に終止符を打とうと化学の先生の声が聞こえ始める。


 「皆落ち着きなさい!有栖さんが困っているでしょ……本当に困ったわね」


 視界が闇に覆われて今の状況が把握できないから分からないが、どうやら化学の翠先生が困っているようだ。

 それから数分は静寂に包まれていたが不意に翠先生の優しげな声が破る。


「それじゃ、有栖さんはあそこに座って。ほら文句を言わない!授業を始めるわよ」


それを皮切りに続々と生徒たちが席に座り始める。さて俺も起きるか。


「露骨に嫌な顔をしないでくれるかしら。とても不愉快なのだけれど」


自分でも顔が痙攣していることがわかる。人に注意をしておきながら自分だって大きくため息を吐いているじゃないか。

俺は気を取り直して配られた手紙を眺める。内容は中学の時にやったことがある、カルメラ焼きか。上手く焼けると結構旨いんだよな。


「やり方は紙に書いてある通り。一度やったことがある人が多いと思うから大丈夫だと思うけど、ガスバーナーを使うから気を付けてね」


先生はそう言い残すと一度教室から出ていく。

俺は渡された紙をもう一度眺める。実験に使う道具は前の机にあるらしく取りに行かないといけない。俺は向かいの席に視線を送るが当の本人はムスッと頬を膨らませ腕を組んでいる。取りに行く気がないみたいだ。仕方なく席をたち道具を取りに向かう。

(怖いな~怖いな~。男子たちの殺気だった目が怖いな~)

無事に道具の乗ったお盆をとり席に戻る。一息吐くと有栖がそわそわしていることに気づく。


「もしかしてやったことがないのか?」


「ばかにしてるの?そんなわけないじゃない」


「左様で……」


一睨みしたところで毒舌姫は動き出す。ガスバーナーの元栓をいじりながらこちらに指示を出す。


「私、ガスバーナーの準備をするからあなたは薬品の準備をしてくれる?」


「了解」


重曹に手を伸ばし計量カップにも手を伸ばす。ふと視界の片隅に見に覚えのないものが入り込み動きをとめてしまった。


「……?その試験管って初めからあったっけ?」


「なかったわ。あなたが道具を持ってくるまで暇だったからそこにあったものを勝手に混ぜたの」


机の端に置いてあるビーカーと白い粉を指さしながら恐ろしいことを発する。

ビーカーには白い紙が張り付いていてマーカーで希塩酸と書いてある。白い粉の袋には消石灰と書いてあった。

薄い塩酸に校庭のライン引きによく使う石灰。多分混ぜても大丈夫だろう。俺は再び作業を開始する。

1度やったことがあるからスムーズに用意することができた。


「よし終わったぞ。ガスバーナーに火をつけてくれ」


「命令しないでくれるかしら」


相変わらず可愛いげのない有栖がガスバーナーのガス調節ネジを回していく。金網三脚と蒸発皿を持っているときも試験管が眼界に入り無性に気になり出す。

希塩酸の化学式はHCL。水酸化カルシウムはCA(OH)2。確か以前にこの2つを使った実験を行ったはず。その時に発生したのは気体で……水…素…。

俺はすかさず時計を確認する。有栖が薬品を混ぜ合わせてから約10分弱。いくら窓が開いてるとはいえこんな間近かに試験管があったら……!


「待ってくれ!まだ火をつけるな!」


「遅いわ。もうつけて……」


その瞬間。

有栖の言葉を遮るように目の前の景色が真っ赤に染まる。肌を焼くような熱さと少しばかりの焦げ臭さ。

一気に教室中が騒ぎとなる。悲鳴をあげる者。刺激が勝り笑い声をあげる者。

数秒で視界は回復する。俺は無事だったが、有栖は尻餅をついて驚愕のあまり双眸を見開いていた。


「おい無事か!」


「ええ。前髪が少し燃えただけだから」


どうやら無事なようでお尻をさすりながら立ち上がる。

人垣を掻き分けてやっと先生が現れる。先生は少し焦りながら話す。


「あなたたち無事!?……そう、よかったわ。でも今すぐに保健室に行ってきなさい」


先生は俺と有栖の腕を掴むと廊下へと連れ出し「私は後処理をするから、新太くんお願いね」と言い教室へと戻っていく。俺たちは仕方なく保健室へ向かう。


「何であんなにも焦ってたんだろうな?」


両腕を後頭部に回しながら話しだすと有栖は先生とは違い、至って冷静に答える。


「責任問題にしたくないのよ。特に私が絡んでいるとね……あなたも聞いたことがあるんじゃないかしら。私が教育委員会のお偉いさん方と仲がいいって」


 「そういえば女子が話してたの聞いたことがあるな。でも噂だろ?」


 俺が微笑を浮かべると、有栖は真面目な顔でこちらを見上げる。


 「な、なんだよ……」

 

 ばつが悪くなり視線を外へ向ける。

 保健室の場所は化学実験室の近くにある階段を1階下り少し歩いたところにあるのですぐ目的の場所に辿りつく。扉には看板が立てかけておりそこには、保健室の先生が職員室にいることと戸棚の薬品を勝手に使わなければそれ以外のものは使っていいと書いてあった。俺はこの学校のゆるさに一抹の不安を感じてしまった。

 俺は扉に手をかけ開けると後ろの有栖に椅子に座るよう指示する。


 「平気だからいいわ。だから、私は教室にかえ……」


 俺は有栖の右手を掴み言葉を遮る。一瞬だけ驚いた顔を有栖はみせたがすぐに苦虫をつぶしたような顔をする。これ以上掴み続けていると左手で殴られそうなので、すぐさま放し言い訳を述べる。


 「肘から血が出てるぞ。応急処置はしたほうがいいと思うが?」


 指を差し傷の場所を示すと有栖は視線を落とす。きっとアドレナリンが出ていて痛みに気づかなかったのだろう。

 俺は近くにあった椅子を動かし傷病者を座らせる。保健室は案外広く救急箱を探すのに手間がかかると思ってたがすぐに見つかったので箱を持ち有栖のもとへ足を運ぶ。


「右手を出してくれ。消毒して絆創膏を貼るから」


救急箱からガーゼを取り出し消毒液をかけていると有栖がそれを奪い取ろうとする。


「1人でできるからいいわ」


「いやでも……」


「いいわ……!」


有栖に凄まれてしまう。俺はおずおずとガーゼと絆創膏を献上する。蛇に睨まれる蛙とはこのことだろう。女子の冷えきった目って本当に怖い……!

上体を起こし向かいの席に座り、有栖の治療姿をボーッと眺める。確かに彼女は美人だ。世間が騒ぐ訳も大ブレイクする訳も解るが性格が悪いのに人気があるというのは納得がいかない。ただでさえ友達の少ない俺がこの件で余計友達なんてできない気がする。

そんな俺の視線に気づいてかこちらに視線を向ける傷病者。


「何?」


睨みをきかせながら、たった一言なのに冷たさが含む言葉をこちらに発射する。



「ほんと、可愛いくねぇやつ……!」


「別にあなたなんかに思ってもらわなくともいいわ」


悪態を吐いても皮肉で反駁される。


「でも…あなたは他の人違うのね」


有栖は期待と疑念の混ざった瞳で俺を見つめる。

その言葉に俺は首を傾げ口を開こうとしたが授業終了を告げるチャイムがそれを止める。チャイムが鳴り終わると同時に有栖は席をたつ。


「お昼だから私はいくわ」


「さっきのどういう意味だ?」


有栖は何も答えず保健室を去っていく。残ったのは俺の虚しい残響だった。



カツン。コツン。校内用のシューズの靴底音が閑散とした階段の踊り場に木霊する。最上階に到達すると錆び付いたドアノブに手をかけゆっくりと回し開け放つ。体全体が無の世界に包まれる。しかしそれは、一瞬のことで眼前には燦々と輝く太陽と雲ひとつないブルースカイが広がる。最近は気温が上昇し始め屋上を利用する者が激減した。しかしそれは勿体ないことをしている。この場所は学校の立地と高低さにより風がよく吹き付けるのだ。俺は辺りを見渡し自分以外に生徒がいるか確認すると今日は珍しく1人先客がいた。屋上に併設されているベンチの奥の方に座っている。ここで帰るつもりはないので手前のベンチに座り昼食を済ませよう。そう思い席に移動するが、今日は一体なんだというのだ。先にいた生徒は白浜有栖だ。今日はArice day か何かか……。


「有名人がまさかのぼっち飯かい?」


少し冗談めかして言ってみると、有栖は俺の存在を視認した途端に露骨に嫌な顔をする。


「もしかしてあなた、私のストーカー?気持ち悪いのだけれど。それとその台詞は盛大なブーメランよ。あなたも1人じゃない」


うっと思わず呻き声が漏れてしまう。確かにその通りだ。弁当を片手にベンチに座ると下の階での様子を話す。


「皆お前のことを探してたぞ?何で一緒に食べてやらないんだ?」


「あまりにもしつこかったから逃げてきたの」


「お前人の親切心を無下にするなよ……」


少し引きぎみな言動をすると有栖は口に運んでいた箸を止め「あなたは……?」と言い首をちょこんと可愛らしく傾げる。

俺は口を開くが……。


「ごめんなさい。あなたの今の姿が答えだったわね」


と悲しげな声音で言ってくる。


「確かに俺は友達がいないに等しいが、できないのは作らないだけだからだ。友達すら作れない悲しいやつだと思っては困る」


俺は堂々と胸を張って誇らしげに言ってやる。ここで、挙動不審に言ってしまったら負け。何事を誇ることが一番だ。


「そこまでくると清々しいわね。でも結局はなんでしょ」


冷えた視線を向けあえて言明しなかった核心を突いてくる。

俺が友達を作らないのはちゃんとした理由がある。それを有栖に話してもきっと信じてくれないだろう。

 から揚げを咀嚼しながら空を見上げる。陽射しが燦爛と俺を射抜き体温を上げる。しかしそれを上回る爽涼な風が吹き体温を元にもどしてくれる。

 余韻に浸りながらある事を有栖に訊く。


 「そういえば保健室で俺に何を言いたかったんだ?」


有栖は一度視線を向けたがすぐさま手元に戻す。


「たとえあなたに言っても信じてくれないわよ」


―――信じてくれない?

ますます意味が解らない。

話してみなければ相手が信じてくれるかどうかはわからないだろうに。

そこまで考えて俺は自嘲気味に笑う。それは自分も同じことか。


「でもあなたには迷惑をかけたわね。これ以外のことだったら何でも1つだけ教えてあげるわ」


有栖が薄く笑う。

何でもということはどんなことでもいいってことですよね。

でもここで変なことを訊いたら、肉体的にも精神的にも社会的にも抹殺されてしまうだろうな。

それでも1つだけ気になることがある。


「男子が噂してたんだが。お前って実はパットなの……?」


俺が苦笑混じりに話した瞬間。パキッと乾いた音が屋上一帯に響き渡る。音源の方へ顔を向けると先ほどまでいたはずの有栖がいなくなっている。

次の瞬間には両肩を強く引っ張られ。


「誰がそんなことを話していたのか教えなさい……!」


少し掠れながらも意思のこもった声の有栖が血走った眼で見返してくる。


「どうしたんだ、そんなに焦って……もしかして本当まじなのか?」


「そ、そんなことあるはずがないでしょ!」


「へぇ~」


俺は動揺している有栖にわざとにやけ面をお見舞いする。


「むかつく顔ね。不愉快だわ」


 有栖は嘲罵を吐きながらベンチへと戻っていく。

 決まりが悪いのか先程より少し昼食を食べるスピードが上がっていた。

 沈黙が流れるが全然嫌な感じがしない。今までだったら少しの嫌気がさしていた。有栖がいるからだろうか?彼女がこの学校にいなかった約2ヶ月間俺はほぼ1人で過ごしていた。1人でいることには慣れていたつもりだったが静けさにはまだ慣れていなかったみたいだ。

 弁当の残りを平らげ有栖の横顔を少し見つめる。

 ―――あの頃のことは忘れるんだ。1人で今までやってきたじゃないか。今さら友達を作っても結局はあの時みたいにみんな去っていく。

 幾重にもひびが入ったコンクリートがいつの間にか真っ黒に染まっていた。そして、幻聴が聞こえ始める。



 「「バケモノ」」


 やめろ。


 「「悪魔め」」


 うるさい。


 「「お前がやったんだろ!」」


 黙れ!


 俺は何も悪くない。お前らが求めたんじゃないか。

 だから……だから俺は……


 「ねぇ……!ちょっと!」


 有栖の声が俺の耳朶に響き深い闇の淵から呼び覚ます。


 「ごめん、聞いてなかった」


 元の煤けたコンクリートから顔を上げると目の前には有栖が立っていた。

 どうやら昼食を済ませたようで片手に可愛らしい猫の刺繍の入った風呂敷を持って、こちらを見下ろしていた。若干だが頬が膨れている気がする。あざとさがあるな。


 「私は戻るけど、あの事は言わないでもらえるかしら。言ったら……わかるわよね?」


 「言わないよ……だからそんな眼しないでくれ」


 有栖が冷ややかな視線&感情のない声で話す。パットの事を他人に言ってしまったら、その後のことなんて容易で考え付く。

 

 「ならいいわ」

 

 一言置いて扉の向こうへ去っていく。

 俺は今の感情を落ち着かせるためにひんやりとした風が吹きぬける空を見上げる。


☆ ☆ ☆

1つの影が寂しく長く伸びる逢魔が時。俺は学校から自宅への帰路に立っていた。部活に所属していないので他の生徒より早く帰宅できるが結構暇である。徒歩で帰宅するのでスマホをいじりながらというのは危ないから自分だけの世界に浸っている。

例えば今日起きた出来事を振り替える。久しぶりに登校してきた毒舌姫。ラブコメ展開だとあの性格は真逆なのが定石だよな。初対面の相手に「話しかけないでもらえるかしら」ではなく「私、白浜有栖って言うの。気軽に有栖って呼んで!これからよろしくね」みたいな。後実験に失敗したら、可愛らしく叫びながら抱きついてくるよな。

いやーないない!想像するととても笑けてくる。きっと俺のラブコメは何も起きずに終わるんだろう。

そんな妄想に浸っていると悲鳴染みた甲高い声が俺を現実に引き戻す。


「触らないで!」


鋭い声の方向で奇怪な光景が広がっていた。

2人の男が女の子の腕を掴んでいる。その後に黒塗りのバンが到着する。まずい、これは完全に誘拐される現場だ。

辺りを見渡すが俺以外誰もいない。

今日は一体何だというのだ。この2ヶ月間同じ道を通っていたが何もイベントらしいイベントは起きなかったじゃないか。イベントの神様は俺にどうしろと。

今日は何も変わらない日だった。いつも通りに目が覚め、いつも通りの時間に学校へ向かった。そんな平凡な日常だったじゃないか。いやそれは違うか。今日は少しだけ違っていた、有栖がいていつもは1人だった風景がいつもとは違っていた。それがきっとフラグだったのか。


「放してって言ってるでしょ……!」


また少女の声が俺の脳内を撫でる。彼女の声が先程よりも弱々しく感じるのはバンに押し込まれるのを防ぐ力がなくなってきているからか。もう長くはもたないだろう。


「くそ……!」


走る。すべての音を後ろに置いてきぼりにして全力で走る。

打開策なんて最初から決まっていた。運命の神様はまた俺にを使えって言うんだろう?ならお望み通り使ってやるよ。

残り200メートル弱といったところだろうか。あともう少しで手が届く。


「おい……お前ら……!」


俺が叫ぶと声が届いたようで少女をバンに押し込んだ男二人がこちらを振り向く。不細工な顔しやがって。

俺は指を鳴らす。今から10年前に突然発症した異能。試行錯誤を繰り返して知った『時を10秒間だけ止める』能力。

―――時よ止まれ……。





 





 

 


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