隠居が通る4 翌日は飫肥城に行き祐兵に面談を求めると、案内するので馬を下りると、祐兵が平伏するので忠長がそのような事はしなくて良い、立ちなされまし言って、急に来てすま
隠居が通る4
翌日は飫肥城に行き祐兵に面談を求めると、案内するので馬を下りると、祐兵が平伏するので忠長がそのような事はしなくて良い、立ちなされまし言って、急に来てすまんのお昨日は、
正直の所で昔話しに花を咲かせておったのじあ、領国にいると聞いて立ち寄ったのじあと言うと、御座所に案内して上座を勧めるので、此処でよいと言ったのです、膳が運ばれてまず、
はと言うと、
腰元が酌をするので乾杯したのです、中々閑静ないい城下町ではないかと言うと、森林だけにございますと言うので、飫肥スギも江戸では評判なようじあなあと忠長が言うと、正真殿、
の知恵にございます、お陰で藩の財政の助けになっておりますと言うので、どうじあ、今日はそこもとのお家再興の話しでも、聞かせてくれぬかのうと言うので、それではもうすぐ、
夕方なれば、
ここにお二方ともお泊りくだされ、田舎ゆえ馳走もありませぬが昔話しなどいたしましょうと言うので、あい、分かったと言うので、正直も承知つかまつると言うと、それは良かった、
それではまず湯殿にお入りなされと言い腰元が案内するので、2人で湯殿に入り、お湯をかけて正直と忠長の背中を腰元が擦り、お湯をかけたので、湯船に入り汗を流して浴衣に着替、
て部屋に戻り、
いい湯であったと忠長が言うと、膳が運ばれ腰元が酌をして乾杯したのです、祐兵が正直殿は隠居されて戻られたよし、お袋様とお絹の方がさぞかし喜ばれた事でしょう、それがしも、
後数年で隠居しょうと思うておりますと話し、今回は忠長様には日向宮崎が知行地になられたよし、近隣なれば宜しくお願いいたしますると言うと、こちらこそ宜しくなと忠長が言っ、
たのです、
祐兵がここ飫肥は薩摩藩との最前線で御座りまして我が家は砂土原に本城があり、私めが此処飫肥を守り、中浦を正直殿の父上正光殿が守っていたので御座る、ご存知の木崎原に置い、
て我が伊東軍が大敗をきしましてそれがしも討ち死に寸前の所を正光殿の采配で辛うじてここに逃げかえったので御座る、正直殿はまだ初陣まえでその戦には出ていませんでした、
それ以降伊東藩内部に亀裂が入り島津方に寝返る者が出始めたので御座る、島津義弘公2万が都城の日向口から攻め込み佐土原に向かったと知らせを聞いて、急ぎ佐土原に向かったので、
御座る、その間に酒谷から島津軍2千がこの飫肥に進撃して、守備兵500のこの城は会えなく落城して薩摩軍は清武に向かったのです、一方大隅口からは島津隆久軍5000が中浦城に進撃、
したので御座る、
正光殿は援軍はいらぬ、早く佐土原へ行き本体と合流して、押し返しなされ、それまでは城兵300成れど必ず、隆久軍は防ぎ申すと言われたので、それがしは急ぎ佐土原に戻りました、
が次々と島津への内応者が出て、佐土原を捨てて高鍋、長井と敗退を重ね、最後に延岡城に入ったのです、その間正光殿は隆久軍5000を中浦城に足止めしていたので御座る、しかし、
延岡でも内応者が出たとして父上が、豊後の大友殿のところへ行き再起を計ると言うので、正光殿がかんばっておられる限り、島津義弘は高鍋から動けないはずなので、大友の援軍、
が来たら押し返すべきだと言ったのですが、聞き入れてもらえず城を捨てて豊後へ敗走したのです、国境の峠を越える時にはわずか数十騎に減っており、やっとの思いで豊後につい、
たので御座る、
その後主家が豊後に逃亡した事を知っても正光殿は開城せず、島津義弘公が日向を制圧する3ケ月も粘ったのです、義弘公が2万5千の兵を引き連れて中浦城を囲んでいる隆久軍と合流、
し開城を呼びかけたのですが、開城しょうとしなかったのです、そこで義弘公が一騎打ちにて正光殿が勝てば城の者は全て助けると言う条件をだしたそうですが、勝っても負けても、
自分を除いて、
城の者を全て助ける条件でなければ開城しないと言ったそうで御座る、義弘公は条件を飲んだので、正光殿は大手門を開け槍を持ち義弘殿と一騎打ちをしたそうです、義弘公の槍を、
叩き落とし、自分も槍を捨てて刀での切りあいになり、見事義弘公の刀を叩き割り首を取るところそれで刀を納め、馬をおり具足を脱ぎ切腹しょうとしたところを義弘公が、正光殿、
の勝ちじあ、
切腹はしなくてもいいではないか、この領地は正光殿にそのまま安堵するので、自分の家臣に成るように頼むと、伊東家がお家再興するならその時点で帰参する、それまでは義弘公、
の臣下になると言う事であれば承知すると言って島津に下られたそうに御座います、しかし、大友の軍勢が耳川の合戦に島津軍に大敗して風前の灯となり、私と父伊東入道は豊後、
を離れて放浪の旅に出たのです、
大阪にたどり着きその頃丁度信長公を本能寺に襲って亡き者にした明智光秀を山崎で討ち取った、羽柴秀吉公の家臣に加えてもらうように、つてを頼りに願い出たのですが家臣を見捨、
てて逃亡した伊東の倅はダメだと何処にも仕官の口は見つからず、途方にくれていたので御座る、そこに正直殿が現れて羽柴家への仕官のつてがあると向かえに来てくれたので御座る、
正光殿を見捨てて逃げたそれがしをなぜ助けるのか聞きましたら、正光殿の命であり、死んでしまえばお家再興はならないので、一時は退避するのは君主の道であり何も卑下する事は、
ないと言うてくれたのです、そして秀吉公に面談すると、案の定正直殿に秀吉公は家臣を捨てて逃亡した主家の為になぜ働くのかと聞かれると、織田信長公の朝倉攻めの時浅井長政の、
裏切りにあり、
織田軍全滅の危機の場合の信長公は真っ先に逃げ、その時の殿を務めたのが秀吉公です、その為に信長公は命が助かり今の秀吉公があるのです、君主たるもの大成の為命を長える事は、
大事な事ですと言い、秀吉公がその考えアッパレであると即座に5000石にて召抱えて頂いたのですと話すと、忠長が成るほど苦渋な思いをしたのじあなと言うと、正直殿には返しきれ、
ない恩義があるのですと言うので、
正直が我が先祖は代々伊東家の保護の下に、生き延びて来たのでござれば、その位は当然の事なのですよと祐兵殿というと、いや、正直殿なければこの飫肥もないのじあ正直殿に会っ、
た、それがしは運が良かったので御座ると言ったのです、それから直ぐに小牧、長久手の戦が起こり我が軍も参戦したので御座る、家臣50人の手勢なれば大した戦力にはならないので、
すが、
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