第6話 老人ホーム ヒカリヤ

 園長の教えてくれたとおりに来ると、「老人ホームヒカリヤ」は案外近くにあった。

 30分も遅刻してしまったが、たいして怒られることもなく、メガネの職員に窓拭き用の雑巾を渡された。今はその冷たさがありがたい。


「君が遅刻してきた中学生クン?」


 隣の窓を拭いていた、高校ジャージをゆるっと着こなした女の人に、からかうように声をかけられた。


「えっ!」


 焦っている俺にクスクスと笑い、問いかけてくる。


「寝坊しちゃったの?」

「違いますよ!本当は早めに着いて、ちょっと別の場所にいたんです。」

「ふーん、迷子になっちゃったんだ」

「いや、……まあ、そうですけど……。」

「あはははは!」


 大きく笑い、かーわいい!なんて言った後、興味津々、といった様子の彼女が前のめり気味で問いかけてくる。


「あたし、如月きさらぎユイ。ジャージで分かるかもしれないけど、光七楽ひかりならく高校の2年で、部活は茶道部。キミは?」

「俺は佐藤優斗です。えっと、緑翔中の2年で、一応、写真部入ってます。」

「ああ、写真もいいよね。入るときそっちも迷ったなあ。ね、優斗は今回なんで参加したの?」


 気に入られたんだろうか。窓拭きそっちのけで次々と話しかけてくる。


「担任に誘われて、その場の勢いというか、あまり考えずに来てしまいました。その、如月さんはどうして?」

「ユイでいいよ。私はね、将来働きたい福祉施設があるの。それで今日は現場の勉強のためにって感じかな。」

「へえ。意外としっかり考えてるんですね」

「こら~。意外とは余計ー。」

「ははっ!」


 おしゃべりに適当に付き合おうと思っていたが、気づいたら窓を拭く手を止めてしまっていた。

 遅刻にサボりまでするのは、さすがに気が引ける。ユイさんにもやるように促して、二人で窓拭きを再開した。


「福祉施設っていえば、俺が迷いこんだとこも、それっぽい感じでした。こっちと違って、いたのは小学生くらいの女の子でしたけど。」


 世間話のようにいうと、驚いたように、短く息を吸い込む音がした。


「その施設、どこにあったの!?」

「や、普通にこの近くでしたよ。歩いてここに来るのに10分かからなかったですし。」

「嘘言わないで!この辺だったら私だって、何回も。でも、それらしいところなんてどこにもなかった!」

「や、でも確かに――」


「如月さん。どうかしたのかしら?」


 後ろから聞こえた艶のあるソプラノに二人でバッと振り向くと、ふわりと毛先を巻いた、介護士の制服の上からでもわかるほど、むっちりと胸に身の詰まった職員さんが立っていた。


「如月さん。そんなに大きな声を出したら、利用者さんがびっくりしてしまうでしょう?それに、窓ふきが終わってないのはもう二人だけよ。」

「す、すみません!今やります!!」


 タレ目気味だから穏やかに微笑んでいるように見えるが、そんな訳ないのは雰囲気だけで明らかだ。

黙りこんでしまったユイさんのかわりに返事をすると、ゆったりとした微笑みがこちらに向いた。


「あら、さすが男の子ね。やればできるじゃない。」

「ははははは。す、すぐ終わらせます!」

「ええ。このスピードなら一番に終わってても良いはずなのに。二人とも、何の話で盛り上がっていたのかしら?」

「や、俺が迷子になっ――」

「私が落とし物をしちゃった話をしていました。」


 問い詰めるような職員さんに返事をしようとすると、凛としたすこし大きな声で、ユイさんが俺の言葉に被せてきた。


「ちょっと失くしちゃったものがあって、佐藤君がこの辺で見たって言うから、つい話し込んじゃいました。すみませんでした!」


 しっかりと頭を下げてユイさんが謝っているので、話がよく分からないまま俺も一緒に頭を下げた。ふうっとため息をつく音が聞こえたあと、顔を上げて良いと言う声が頭上に降った。


「そう。その落とし物、見つかるといいわね。さぁ、二人とも、残りの時間はまじめに活動して下さいね。……特に如月さん、光七楽ひかりならくの特待生として、校外でも恥ずかしくない振舞いを心がけて下さいね。」

「……はい。」


 苦虫を噛み潰したような返事をするユイさんに、職員さんは微笑みを残して去っていった。保育士のように穏やかな微笑みに見えるのに、どこか挑発されているような感覚があった。



 そのあとのユイさんは、打ってかわったようにほとんど喋らなくなり、窓拭きを終えると簡単な挨拶だけして別のところの手伝いに行ってしまった。

 それにしても、光七楽ひかりならくといえば、誰もが知る都内有数の進学校だ。そこの特待生ということは、ユイさんは頭が特別良かったり、何か特技があったりするんだろうか。

 でも頭が凄く良さそうという感じではないし、部活も運動部じゃなく、茶道部と言っていた。茶道部で特待生なんて、聞いたことがない。

 仲良く話していたかと思えばよく分からないところで突然凄い剣幕になってみたり、落とし物の話をしていたなんていう意味のない嘘をついてみたり。話しかけられたときは、人当たりが良さそうだと思ったけど、なんかよく分からない人だ。

 普段話さないから分からないだけで、案外女の人って皆こんな感じなんだろうか。

 そんなとりとめのないことばかりを考えていたら、あっという間に時間が過ぎていたようで、12時を告げるチャイムがなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る