第14話 五月十六日 彼の不在

「だいぶ傷も塞がってきたね」

「うん、あれから一週間経っているからね」

二条君がアロマオイルの小瓶を用意しながら、私に話しかける。

彼はアロマテラピーのセラピストなのだそうだ。

「今日は手足のマッサージするから。取り合えずこの中から好きな香り、選んで」

用意されたのは五つの小瓶。

中身が何の香りなのかはあえて尋ねず、私はその一つ一つを嗅ぎ分けていく。

「んー、これ好き」

「グレープフルーツだね。他にも好きな香りはあった?」

「あとは、これ。不思議な香りで好き」

「イランイランか・・・・・・もしかして黒崎さん、欲求不満?」

唐突な質問に私は思わず赤面してしまう。

「え、は?いや、そんなことないけど!!」

「そう、イランイランには催淫作用もあるから」

「え、そうなの?」

「まあ、女性ホルモンを整える効果もあるから。今の病気は自律神経が乱れることで起きてるって一之瀬も言ってたし。それなら身体がホルモンのバランスを整えられなくなってる可能性は大いにあり得るしね」

「そっか」

彼は私の選んだ二つの小瓶を傾けて、小さな乳鉢のような入れ物にアロマオイルを垂らしていく。

「ちなみにグレープフルーツは脂肪燃焼効果が高いから。代謝が落ちてるのかもね」

「ぐっ・・・・・・太らないように気を付けます」

彼は少し大ぶりな瓶を取り出して乳鉢の中に注いでいく。

「ベースオイルはこれ。アロマオイルは原液のまま肌につけると刺激が強すぎるから、ベースオイルで薄めて使うんだ」

そう言って彼が見せてくれた瓶には【スイートアーモンドオイル】と書かれていた。

「肌に優しいオイルで、柔らかでキメの細かい肌になるんだよ」

確かに彼の肌はとてもキメ細やかで、まるでセルロイドのような美しさだ。

自分の手を見てみれば、爪の生え際がささくれ立っていて、とても綺麗とは言い難い。

女子力のへったくれもない自分の姿に、若干焦りを覚えた。

「黒崎さんは手の形が綺麗だから、お手入れすればもっと綺麗になるよ」

「あ、ありがとう」

手の形が綺麗だなんて言われたことが無かった私は嬉しくて、思わず自分の手を握ったり開いたりしてしまった。

「傷口にはまだ触れない方がいいね。じゃあ左手からマッサージ始めようか」

「はい、お願いします」

彼の細くて長い指が私の掌にオイルを塗り広げていく。

その感触がくすぐったかった。

が、すぐにそれはかき消されることになる。

「痛い痛い痛いッッ」

「ここは頭の位置。まあ脳が疲れてる証拠だよ。当然だね」

「もうちょっと優しくッッ」

「これでも十分優しくマッサージしてるんだけど?」

「いたいいいいい」

全然力を緩めてくれない二条君を恨めしく思いながら、私は痛みに耐える。

けれど、痛みに耐えているうちにそこが段々と柔らかくなっていくのを感じていた。

「凝りは解さないとずっと痛いままだからね。これで脳の血流が上がるはずだよ」

「マッサージってもっと気持ちいいものかと思ってた・・・・・・・」

「凝ってなければ気持ちいいと思うけど、黒崎さんは凝りすぎ。どれだけ自分の身体に無頓着で走り続けてきたかが分かって良かったんじゃない?」

そう言われるとぐうの音も出ない。

両親が亡くなってから今まで、私は何も考えたくなくて仕事に没頭してきた。

がむしゃらに仕事して、スキルと知識を蓄えて、帰れば夕飯も食べずにシャワーだけ浴びて眠る日々がほとんどだった。

こんな風に誰かに癒してもらおうなどと考えたこともなかったのだ。

「私、身体のことなんて考えないで生きてきたんだね」

「若さで補ってただけってことだね。それがこの歳になって補え切れなくなったんだよ」

「二条君って、結構シビアなこと言うよね・・・・・・」

「だって、事実でしょ」

そう、事実。

二十八になって訪れた、身体の転機。

つまり、老化・・・・・・・・・。

「うあぁぁ、歳って取りたくないぃぃぃぃ」

「逃げても歳は取るよ」

「そう言う二条君はいくつなの」

「僕も二十八だけど」

憎い。

このキメ細かいお肌で同い年なんて。

爪の形だって綺麗に整っていて、マッサージを受けている間見惚れていたくらいだ。

綺麗なプラチナの髪を一つに縛っていて、前髪の間から見える薄黄緑の瞳がとても綺麗で。

どこか一之瀬さんと似た雰囲気を感じさせるけれど、彼より二条君の方が冷めた印象を覚える。

「もしかして二条君と一之瀬さんって親戚だったりする?」

「・・・・・・どうしてそう思うの」

「え、あのね、何となく顔の雰囲気が似てるかなって」

「・・・・・・・・・チッ」

「え」

今舌打ちしたよね?

めちゃめちゃ嫌そうな顔で舌打ちしたよね?!

混乱する私に二条君はニコリと笑って告げる。

「それ、禁句だから」

「は、はい」

「二度目は無いよ?」

その笑顔、とてつもなく怖いです。

二条君の闇の部分を垣間見た気がして、彼は怒らせないようにしようと私は心に決めた。

絶対二条君は、ドSだ。本能がそう訴えてくる。

きっと、さっきも痛がる私を楽しんでいたに違いない。

「じゃあ、次右手だから」

「え、いや、痛いのは」

「右手出して」

「・・・・・・はい」

そうして再び私は痛みにのたうち回ることになったのだった。




二条君にドSなマッサージを受けた私は、手足がポカポカしているのを感じながらリビングへと移動する。

丁度お昼ご飯の時間だったからだ。

五十嵐さんが用意したご飯は、いつも美味しい。

ここに来て一週間、毎日彼の手料理を食べることになって気が付いたのは、スーパーで買う食べ物がいかにしょっぱくて美味しくなかったかと言うこと。

五十嵐さんの作る料理はレパートリーに富んでいて、飽きるということがまずない。

マンションではあまり食べていなかった私だけれど、五十嵐さんの料理は一人前食べられるようになっていた。

「おう、黒崎。飯食べるだろ?」

「はい、今日のお昼は何ですか?」

「今日は手抜きだ。まあ、出汁は取ったけどな。とろろそば」

「わあ、私ネバネバしたの大好き」

丼に蕎麦をよそる彼の元に向かい、私は濡らした布巾でリビングのテーブルを拭く。

「黒崎、これ、並べてくれ」

「はい」

丼を見れば、すりおろしたとろろの上に大葉が乗せられ、更にオクラとネギが細かく刻まれてトッピングされていた。

彼のよそった丼とお箸を五人分並べると、いつの間にかリビングには他の三人がやってきていた。

「あー、暑くなってきたよね~庭仕事これからはきついな~」

「紫外線が強くなるから、夏は嫌いよ」

「まあ、暑いのは僕も嫌い」

三者三葉の言葉を交わしながら各自自分の席に座る。

そしていただきます、と手を合わせて昼ご飯が始まった。

けれど、私には気になって仕方ないことがあった。

それは一之瀬さんがあれから一週間、姿を見せていないことだった。

ずっと気になっていたけれど、聞けなかった質問を私はぶつけてみることにする。

「あの、一之瀬さんはどうしたんですか?ここ一週間、姿を見かけないんですが」

「あー・・・・・・、やっぱ気になるよねぇ」

「そりゃそうでしょうよ」

「まあ、当然の反応だな」

無言のまま蕎麦をすする二条君以外は、神妙な面持ちで食べる手を止めていた。

五十嵐さんがボリボリと頭を掻きながら答える。

「一之瀬はちょっと体調崩して寝てるだけだ。飯は俺が差し入れてるの食べてるし、もうそろそろ出てくるんじゃないか」

すると三上君も同意する。

「そうそう~、ちょっと体調崩しただけだからさ。心配ないよ」

「でも、私心配で・・・・・・」

「今の一之瀬にはアイリちゃんが近寄るのはちょっと、ね」

「え・・・・・・どういうことですか」

三上君は一瞬マズイといった顔をして、笑ってごまかそうとする。

私が不審に思って更に尋ねようとした時だった。

四ノ宮さんが割って入った。

「アイリ、男ってね、めんどくさい生き物なのよ。特に女の子の前では変にプライド持ったりしちゃって」

「はあ・・・・・・」

「今の一之瀬は、アイリに弱ってる所見せたくないと思ってるはずなのよね。だから、会うの禁止」

「弱っている所を見せたくない・・・・・・ですか」

確かに私の知る一之瀬さんは、いつも優雅で落ち着いていて、余裕のある大人の男性のイメージだ。

それが体調を崩していてイメージを保てないから、見られたくない、ということなのだろうか。

寧ろ私は弱った所ばかりを彼に見られているから、見られたくないもへったくれもないのだけれど。

男性でありながら女性でもある四ノ宮さんがそう言うのだから、きっとそうなのだろう。

一之瀬さんの体調は気になるものの、私は彼の嫌がることをしたいわけではなかったので大人しく引き下がることにした。

「分かりました。けど・・・・・・一之瀬さんに差し入れするのも、ダメですか?」

「アイリから手渡すんじゃなければ大丈夫よ」

「じゃあっ、五十嵐さん、私に何か作れるお菓子、教えて下さいっ」

「・・・・・・黒崎、お前この前のこと忘れたわけじゃないよな?」

この前のこととは、この一週間の内に体験した、五十嵐さんのお料理セラピー教室のことだ。

殆ど自炊してこなかった私は、料理のいろはも分からず、お菓子作りすらしたことが無かった。

そんな私が五十嵐さんの教えの通りに作ろうとしても上手くいくはずがなく、最初に作った玉子焼きはスクランブルエッグになってしまった。

あの時の三上君の言った『このスクランブルエッグ、和風の味付けで変わってるね~』の一言は、未だに心に刺さっている。

「あれは、その。・・・・・・ほ、他の、何かなら、もしかしたら、上手く作れるかも」

五十嵐さんはそんな私をジトッと見つめて、しかたねぇな、と言った。

「三時のティータイム用にクッキーを焼こうと思ってたんだ。生地ならもう出来てる。後は型で形にして焼くだけだ。流石にお前でも型抜きくらいは出来るだろ?」

「た、多分」

自分の料理の腕のダメさ加減を一番知っているのも私だ。

型抜きと言えども、油断はならない。

「じゃあこれ食ったら片付けて、クッキー作りな」

「洗い物なら任せて下さい!」

そうして私はようやく、五十嵐さんの美味しいとろろそばに口を付けたのだった。




「一之瀬、入るよ~」

俺は一之瀬の部屋のドアをノックしてから返事を待たずに中に入る。

時間は午後三時。

丁度、お茶の時間だ。

庭にガーデンテーブルを置いて、他の皆は薔薇を眺めながらアフタヌーンティを楽しんでいる。

「三上か・・・・・・何の用だ」

「うっわぁ、目の隈すっご。一之瀬全然寝てないの?」

「・・・・・・この衝動に負けるわけにはいかないからな」

「意識手放したらアイリちゃんを襲いかねないってことかぁ。愛って怖っ」

俺は誰かを愛したりしたことが無いから、一之瀬の苦しみは分からない。

そもそも愛ってやつが分からない。

だから、こんなになってまでアイリを喰わずに我慢する一之瀬の気持ちは理解出来ない。

「もういっそ、喰っちゃえばいいのに」

その言葉を口に乗せた途端、一之瀬は鋭い殺気を俺に向けてきた。

底冷えするような、冷徹な瞳。

ああ、やっぱり魔界の王はこうでないと。

一之瀬の変貌に、ゾクゾクとしながら俺は笑った。

「その顔、アイリちゃんが見たらなんて言うんだろうね?」

「・・・・・・三上、何の用だ、と聞いたはずだが」

「ああ、それね。はい、これ。アイリちゃんからの差し入れのクッキー。一之瀬のことが心配だからってさ。ぶきっちょな彼女にしては上出来なんじゃないかな。まあ、焦げたのは俺達が食べるんだけど」

それを受け取った一之瀬は、無言でそれを窓辺の机の上に置くと、締め切っていたカーテンをサッと開ける。

きっとそこからは庭でお茶を楽しむアイリの姿が見えているはずだった。

眩しそうに外を眺める一之瀬の唇が、音には出さずにアイリの名前を呼ぶ。

その表情は、さっきまでの魔界の王としてのそれではなく、ただひたすらに優しかった。

「新月の夜からもう一週間経つ。そろそろ魔力も弱まる頃合だな・・・・・・」

「ああ、アイリちゃんが目覚めたの、新月の日だったんだっけ。確かに俺達悪魔の魔力が一番高まる時に、その衝動が沸いたなら、一番キツイ時期だったんだろうな~。けどさ、その目の隈何とかしないと、アイリちゃんが絶対に心配するよ?」

「・・・・・・後で四ノ宮を呼んでくれ」

「はいはーい。了解であります~我らが王、ルシファー様」

俺はおどけるようにそう言って部屋を後にする。

パタン、とドアを閉めたところでフゥと溜息をついた。

あのアイリを見る一之瀬の瞳が、何故か脳裏に焼き付いて離れない。

あんな表情をする一之瀬を見て、俺は何と思った?

「―――羨ましい、なんてなぁ」

俺はそれ以上深く考えることはやめて、階下へと向かう。

楽しいお茶会が、そこでは待っているから。

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