第13話 五月九日 向き合う一歩

「アイリ・・・・・・・・・」

彼女はあれからまだ目を覚まさない。

屋敷に戻ると同時に彼女の傷の手当てをし、ひとまずバスローブに着替えさせ、いつものゲストルームに連れて行ったところで彼女は気を失った。

それからもう一晩経ち、時間は翌日の昼過ぎになっていた。

左手首と首に巻かれた包帯が、細い彼女の身体を更に壊れそうな儚さに演出する。

コンコンと軽くノックの音がして二条が顔を出す。

「一之瀬、ユーカリシトロネラのアロマオイル持ってきた。これ、殺菌効果が高いから、彼女の傷が化膿しないように部屋に香らせようと思って」

「ああ、そうだな・・・・・・やってくれるか」

「うん」

二条は部屋の隅に設置されているコンセントにアロマポットの電源を差し込むと、受け皿に数滴アロマオイルを落とす。

すがすがしいほどに爽やかな香りが、部屋に漂った。

「アイリは・・・・・・大丈夫だよね?」

あまり普段表情を変えない二条が、珍しく悲し気な表情でアイリを見つめていた。

「傷自体は問題無い」

「そうじゃなくて・・・・・・・・・」

「彼女の心は俺達が思っているより強い・・・・・・人間のしぶとさってやつを彼女は持っている」

「そう・・・・・・・なら、いいんだ」

そう言って二条はアイリの傷付いた左手を優しく撫でてから、部屋を出ていった。

アイリと二人きりになった部屋に、再びの静寂が戻ってくる。

「あいつが誰かを心配するなんてな・・・・・・」

二条はこのカフェの店員の中で誰よりも冷酷なところがある。

それを知っているだけに、二条の見せた表情が意外だった。

「あなたは本当に不思議な人だ」

アイリの前髪を優しく梳いてやりながら、俺は彼女に語り掛ける。

「二条にあんな顔をさせたのも、四ノ宮を怒らせたのも、・・・・・・俺にこんな想いを抱かせたのも」

血の気の失せた真っ白な顔はまるで人形のようで、指先でその体温を感じ取れなければ死んでいるかのようだ。

「あなたは特別だ。俺達にとって」

初めはただの都合のいい客だったはずなのに。

結晶糖を稀に見るほど生み出す最高のカモ。

それなのに今や彼女が俺達の生活の一部になってしまっているかのようで。

目覚めない彼女を見ているだけで、この胸が痛む。

「だから、早く、目を開けて。俺をもう一度その瞳で見つめて」




彼女が意識を失ってから丸一日が立つ頃、部屋に四ノ宮がやってきた。

「今更お前が来たところで、彼女は癒せないぞ」

俺は苛立ちを隠さずにそう告げた。

「・・・・・・・分かってるわよ」

四ノ宮はそっと彼女の元まで進むと、そこに膝立ちになって彼女の右手を握った。

「早く起きなさいよ、アイリ・・・・・・。じゃないと私、どうすればいいか分からないままだわ」

そう言う四ノ宮の表情は、苦悩に満ちていた。

「四ノ宮、お前・・・・・・・・・」

四ノ宮は知識を司る悪魔、ダンタリオンだ。

そんな四ノ宮に、分からない、と言わしめるアイリ。

「私はあんたを死なせたくてあんな言葉を言ったんじゃない。あんたには生きていて欲しいから、生きる希望を捨てないで欲しかったから、怒ったのよ」

「四ノ宮」

「だってそうじゃない。私達があんたの生きる希望になれなきゃ、あんたはいったい誰に癒されるっていうのよ。なのに私の前で死にたいなんて言うから・・・・・・。私の存在を否定するような言葉を呟くから・・・・・・・」

「だからって、お前のした事を俺は許すつもりは無いぞ」

「分かってる。分かってるわ・・・・・・。自分でも矛盾してるって事ぐらい気付いてるもの」

四ノ宮はアイリの右手を祈るように両手で包み込む。

「だから、早く謝らせてよ・・・・・・アイリ」

「四ノ宮」

プライドの高い四ノ宮が、そんなことを言いだすなんて。

俺はあまりのことに瞠目する。

そんな時だった。

「ん・・・・・・・・・」

「アイリっ」

「黒崎さんっ」

彼女がふっと瞼を開ける。

「あれ?私どうしたんだっけ・・・・・・」

まだぼんやりとした意識のまま、彼女が俺と四ノ宮を交互に見やる。

「ばかっ、馬鹿アイリっ。こんなに心配させて」

「あ・・・・・・」

徐々に意識がはっきりとしきたのか、彼女の目が俺に留まる。

「一之瀬さん・・・・・・」

「黒崎さん、本当に目が覚めて良かった」

俺が微笑みかけると、彼女は微かに微笑み返してくれた。

そして、

「四ノ宮さん、ごめんなさい」

そう、彼女から謝った。

「私、本当に甘えてただけだった。この病と、自分と、向き合えないままここに通っていたんです。誰でも良かったの。こんな私が生きててもいいって思わせてくれる人なら誰でも」

「アイリ・・・・・・」

「でもね、四ノ宮さんの言葉で傷付いて、死のうとして、初めて分かったの。私、生きたいんだって。苦しくても、怖くても、それでも私は生きることを諦められなかった」

そう言いながら、彼女の瞳からはぽろぽろと涙の雫が落ちていた。

彼女の透明な涙が、シーツにパタパタと染みを作っていく。

彼女は微笑む。

「ありがとう、四ノ宮さん。私を叱ってくれて」

「―――――――っ、ちょっと待ってなさい」

そう言うや否や四ノ宮はバタバタと部屋を走り出していく。

そして少しして戻ってきた四ノ宮の手には、一枚のストールがあった。

麻で織られたストールは、淡いエメラルドグリーンの絞り染めで。

それを四ノ宮はアイリの手に握らせる。

「え、と。これは?」

「これから日差しが強くなるから、使うといいわ」

「え、でも、いいの?」

「いいのよっ、黙って受け取りなさいっ」

そう言って四ノ宮は、フンッとそっぽを向く。

その瞳が俺と交わり、四ノ宮はバツの悪そうな顔をした。

「ありがとう、四ノ宮さん。大事に使わせてもらいます」

「そうしなさい。じゃあ私は部屋に戻るわ」

四ノ宮は普段の女らしい歩き方も忘れたのか、ノシノシと歩いて部屋を出ていった。

それが四ノ宮なりの謝り方だったのだろう。

俺は彼女の手に握られたストールを見て表情を緩める。

「あなたの肌によく似合う色ですね」

「これを巻けば首の傷、隠せますよね」

「そうですね」

ふふっと彼女は笑ってそれを首に巻く。

「四ノ宮さん、とても優しい人です。どうですか?似合いますか?」

「ええ、とても良く」

彼女は心から嬉しそうだった。

そんな彼女の表情にジワリと俺の心の中が黒く染まっていく。

けれど、それを押し殺して俺は彼女に微笑みかけた。

「おかえりなさい、黒崎さん」




彼女の着る服は四ノ宮に買いに行かせた。

あいつに任せるのは癪だったが、女性目線の服選びが出来るのはあいつしかいなかったから仕方がなかった。

三上は目が覚めたアイリに抱き付いて泣いた。

そして庭のピンクの薔薇を採ってくると、新しい花器にそれをあしらっていった。

五十嵐は二条と作ったハーブ水を持ってきてアイリに飲むよう言った。

よっぽど喉が渇いていたのか、彼女はそれを喉を鳴らして飲んでいた。

二条は替えの包帯と薬を持ってきて、彼女に微笑んでから帰って行った。

そして俺は、未だ彼女の傍から離れられずにいる。

「一之瀬さん、寝てないんじゃないですか?目が赤いです」

「あなたの気のせいですよ」

「そうなら、いいんですけど・・・・・・」

彼女は心配げに俺を見つめてくる。

それを俺はどこか嬉しく感じていた。

彼女の瞳に映る自分を見て、安堵する。

そして、もっと見つめて欲しいと願っていた。

なのに、心の奥から湧き上がる衝動が黒く滲み出てくるのだ。

それを俺は見ないふりをして、押し込める。

「今日からここがあなたの家ですよ、黒崎さん」

「・・・・・・はい」

「その上でお話ししなければならないことがあります」

「何でしょう」

俺は彼女に今のマンションの家賃や生活費について聞いた。

「家賃や通信費、インフラ代で十万くらいです。食費が四万くらい」

「では、ここで暮らす上での必要経費として、四万円をあなたに請求しますが、宜しいですか?」

「はい。寧ろ、それだけでいいんですか?」

「あくまで私の一存であなたをこの屋敷に住まわせるんですから、本来はお金を頂くのも心苦しいんですがね」

正直、金には困っていない。

株の投資で俺達の生活費は十分稼げているからだ。

けれども真面目な彼女のことだ。

こうして少しでも生活費を請求する方が、彼女はホッとするのではないかと考えた。

「払いますっ。払わせて下さい」

思っていた通り、彼女は前のめりになってそう言ってきた。

「では、そのように。あと、ここでのセラピー費用もその四万円の中に含まれますから」

「え、でもそれじゃ」

「あなたが払うべきは贖罪であって、お金ではないんですよ。どれだけ私達を心配させたか、お分かりですよね?」

「う・・・・・・」

彼女は案の定苦い顔をする。

俺は畳みかけた。

「あなたは病に打ち勝つことで、私達に応えてくれればいいんです。それがあなたのなすべき贖罪です」

「わかり、ました」

若干納得していない風にも取れる表情で彼女は頷いた。

そこでようやく俺は椅子から立ち上がる。

「夕飯の時間になったらまた来ます。ゆっくりと休んでいて下さいね」

そう言ってゲストルームから出た時だった。

ドクンっと胸の奥から湧き上がる衝動に、俺は咄嗟に身体を押さえる。

「ぐっ・・・・・・・・・」

かつて経験したことがあるそれよりも強い衝動に、意識が引っ張られそうになるのを感じる。

それは紛れもなく、アイリを喰らいたいという衝動。

つまり、それは俺がアイリを愛しているという証拠。

「や、めろ・・・・・・・・・ッ」

脂汗が額を伝う。

手の爪が腕に食い込むほど強く握り、俺はその衝動をやり過ごそうとする。

そこへ二条がやってきた。

その手にはアロマオイルの小瓶が携えられている。

俺を一瞥し、状況を理解したのか、二条は俺の身体を支えるようにして、肩に腕を回す。

「こうなるんじゃないかと、思ってたよ。馬鹿親父」

「親に向かって馬鹿は無いだろう」

「実際馬鹿なんだからしょうがないだろ。・・・・・・アイリのこと好きになっちまったんだから」

ぞんざいな口調で俺を自室まで連れていこうとする二条は、千年前に人間の女との間に生まれた息子だった。

普段は大人しいふりをしているが、誰よりも口が悪く、そして冷酷な悪魔、カミオ。

「愛してなんか・・・・・・・・ッ」

「いないとでも言うつもりか?本当に気付いてないなら大馬鹿だぞ、あんた」

「くッ・・・・・・・」

この衝動が起きるということはそう言うことだ。

けれど、それを認めたくない自分がいる。

もう二度と、愛するものを失うのは嫌だった。

カミオの母親はカミオを産んで、自殺した。

その時の絶望を、俺は忘れることなど出来やしなかった。

だから、誰も愛したくなんてなかった。

千年経っても忘れられない絶望を、また繰り返すことにだけはなりたくなかったのだ。

「・・・・・・あんたを見てるとイライラするよ。俺の母親を死なせただけじゃなくて、今度はアイリを死なせるつもりか」

「―――――そんなことには、絶対させないっ」

「なら、魔界の花嫁にするのか?アイリを悪魔にできるのか、あんたは」

自室のドアが開けられ、俺は倒れ込むようにベッドの上に転がった。

全身に襲い掛かる激情に、俺は呻き声しか出せなかった。

喰らいたい欲望は、精神力でねじ伏せるしかないのだ。

それ以外に押し止める術はない。

「アイリには適当な理由付けて、あんたがいない夕食にしてやるよ。今夜はひたすら一人で耐えるんだな」

「カミオ・・・・・・」

「アイリまで死なせたら、俺はあんたを許さない。よく覚えておけよ、クソ親父」

そう言って二条は部屋から出ていった。

「アイ、リ」

認めたくない。認めたくない。認めたくない。

こんな感情はもう要らないんだ。

置いて逝かれる悲しみは、もうたくさんだ。

俺だけに与えられた魔界の花嫁の権利。

それは彼女を人間ではなく、悪魔にすることに他ならなかった。

カミオの母親はそれを拒んで自殺した。

俺の目の前で。

あれ以来、もう二度と誰も愛さないと決めていたのに。

何故、心はこうも自由にならないのだろう。

千年の時を経て、再び人間を愛してしまうだなんて。




そうして俺は自分の内なる激情と一晩戦うことになったのだった。

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