第12話 五月八日 死の誘惑

二階への階段を上りながら、私は泣き続けていた。

どうしようもない恐怖と、どうにもならない悔しさで。

どんなに美味しいものを食べて幸せを感じていても、心の何処かに陰る、パニック発作の恐怖。

言葉にしてしまえば、それは心から溢れて止められなかった。

死ぬと思う程の恐怖を、どうして断ち切れるだろうか。

いつ来るとも分からない、その恐怖に竦まずにいられるだろうか。

そんなことは、私には出来ない。

私は、弱い。

だから、誰かに救って欲しいと願ってしまう。

縋りたいと思ってしまう。

私が、もっと心が強ければ・・・・・・。

「アイリ・・・・・・着いたわよ」

四ノ宮さんの声に、私はハッとする。

以前使わせてもらった二階のゲストルームの入り口に私はいつの間にか立っていた。

軽く背中を押されて、そっとその部屋に入る。

するとふわりと優しい香りが漂っていた。

よく見れば、薔薇の花がベッドサイドの小さな花器に活けられている。

私は鼻をすすりながら、その薔薇の花へと近づく。

白い花弁が、中央の薄いピンクの花弁を覆う愛らしい薔薇。

ミニ薔薇なのだろう、小さな花器にしっくりとくるサイズの花だった。

「ああ、それね。この屋敷の花は全部三上が管理してるのよ」

「そう言えば以前シュガーバインのブレスレットをくれたのも三上君でした・・・・・・」

「あいつ、私よりも花言葉とか詳しいし、草木についての知識も経験も豊富だから」

「そう、なんだ」

誰かに誇れる特技があるということが、とても羨ましいと思った。

私には、何も無い。

またジワリと目元に涙が浮かんできて、慌てて私は一之瀬さんのハンカチで目元を拭いた。

「アイリ、一人になりたい?それとも誰かと一緒にいたい?」

そう、気遣わし気に尋ねてくれる四ノ宮さんの優しさが、心に沁みる。

「一緒にいて、下さい」

「・・・・・・分かったわ」

彼女はそう言うと、ベッドの淵に腰かけた。

私もそれに倣って彼女の隣に座る。

「メイクぐしゃぐしゃね」

「ごめんな、さい」

「いいわよ、泣きたい時くらい乙女にはあるものだわ」

そう言って彼女は私の髪を優しく撫でてくれる。

私は黙ってそれを受け入れる。

静かな時の流れの中で、ザアァと雨が降る音だけがする。

ふと、口から言葉がこぼれ出た。

「死にたい、と思う時があるんです」

「アイリ?」

「いつあの発作が起きるか分からなくて、あの苦しみを思い出すと、死んだ方が楽なんじゃないかって思うんです。それくらい、怖いんです」

「死んだら何もかも失うのよ?」

「じゃあ毎日死に怯えて、生きられますか?」

「それは」

「私には無理です。私は弱いから、あの発作の怖さ以上の恐怖を知りません。今度こそ死ぬのかもしれないと怯えながら一人で生きるのは、苦し過ぎる」

その時だった。

パシン、と音がしたのと一拍遅れて、私の左頬がジンとした熱を持つ。

「生きることを投げ出そうとするなっ」

突然の怒声に、私はビクリと身体を強張らせる。

左手を振り上げた四ノ宮さんが、いつもからは想像もできないほど、恐ろしい顔で私を見ていた。

「オレの前で、死にたい、なんて二度と言うな」

「四ノ宮、さん」

「オレはセラピストだ。生きたいと願う奴を癒すのが仕事だ。だけどお前はオレの前で死にたいと言った。それがどれほどの侮辱か分かるか?」

「――――――――っ」

目の前にいるのは、いつもの四ノ宮さんじゃなかった。

それは、私の知らない、男の人の顔だった。

彼の目はぎらついて、その視線だけで刺されたように心が竦んだ。

怖いと思うのに、何故か視線が逸らせない。

逸らしたいのに、彼の目力がそれを許さない。

「アイリ、お前は何の為にここに来ている。生きたいから、治りたいからじゃないのか」

「私は・・・・・・」

「それともあれか。傍にいてくれるなら誰でもいいのか?」

「そんなんじゃないっ」

私は再び溢れ出す涙を堪えることなく、キッと四ノ宮さんに向かい合う。

「私は・・・・・・っ、私を見捨てずに見てくれる、ここの人達がいるから、・・・・・・っ、ひっ、く、まだ諦めないで生きていられるのっ。誰もが面倒なことから目を背ける中で、手を差し伸べてくれたのはあなた達だけだったっ!私にはもう、あなた達しか繋がりが無いのっ」

嗚咽交じりの声はさぞかし聞き取りずらいことだろう。

私は顔をくしゃくしゃにして、泣いた。

そんな私を彼は冷たい目線でただ見つめるだけだ。

「ここに甘えに来てたって訳か」

その言葉に、私はスゥッと血の気が引くのが分かった。

そうだ。

その通りじゃないか。

私は、自分を憐れんでくれる誰かが、欲しかったんだ。

可哀想だと、辛いだろうと、同意し慰めてくれる誰かが欲しかったに過ぎない。

そう、それは、優しければ誰でも良かったというのと一緒。

彼らでなければいけない理由が、無い。

「わ、たし・・・・・・」

呆然とする私の、隣に腰掛けていた彼がスッと立ち上がる。

そして冷たい声音でぼそりと告げた。

「泣き止んだら、帰れ。そしてもう来るな。そんな気持ちの奴を癒すほどオレはお人好しじゃない」

「――――――ッ」

そう言うやいなや、彼は部屋から出ていってしまう。

一人取り残された私の頬を、涙が流れ落ちる。

胸がキリキリと痛い。

頭はガンガンする。

けれど、そんなことを凌駕するほどの絶望が私を襲っていた。

「もう、ここには、来られない・・・・・・」

たった一つの私の居場所だと思っていた、カフェ・セラピスト。

けれど、それは私の甘えでしかなかったのだ。

彼らを私は都合良く利用していたに過ぎない。

何て傲慢な事だろう。

他人を利用して、そうまでして生きたいのか、私は。

「はは、・・・・・・ははは」

涙は止まった。

もう零れ落ちるのは、乾いた笑いだけ。

「帰ろう」

感情の籠らない声で、私は呟く。

掌に握られたままのハンカチを、強く握りしめて私は立ち上がる。

そしてふらふらと部屋を出て、階下へと降りていく。

玄関に置かせてもらっていた傘を取り上げた時だった。

「黒崎さんっ」

一之瀬さんが彼らしくもなく、バタバタと足音を立てて慌ててやってくる。

「四ノ宮が何かしたんですか。さっきあいつの怒声が聞こえました」

「いいえ、何も・・・・・・」

「何もって・・・・・・そんな顔で言われても説得力がありませんよ」

彼の手が私の腫れた左頬を撫でようと伸びた。

それを私は一歩後ろに下がることでスッと躱す。

「黒崎さん・・・・・・」

もうこれ以上甘えることなんて出来ない。

だから私は精一杯の笑顔を作って告げた。

「さようなら、一之瀬さん」




アイリが帰って行った後、俺は得も言われぬ焦燥感に襲われていた。

彼女が最後に見せたあの笑顔。

まるで壊れたガラスのようだった。

ひび割れて、今にも形を失いそうな不安定なその表情が、俺に嫌な予感をもたらす。

何か、嫌なことが起こる。

そう直感が訴えてくる。

だが、俺は彼女の家は知っていても、携帯の番号もLINEも知らない。

四ノ宮はあれから自分の部屋にこもって出てこようとはしない。

二人の間に何があったのか、聞き出すことは困難だった。

二条も、三上も、五十嵐も、今は留守にしていて、俺がここを離れるわけにはいかない。

どんなに客が少なかろうと、ここはカフェ・セラピスト。

いつ何時客が訪れるとも分からないからだ。

「アイリ・・・・・・」

彼女のことを想うだけで、心が走り出せと訴えかけてくる。

急がなければ、何か取り返しのつかないことになりそうな、そんな予感。

『さようなら、一之瀬さん』

「――――――くっ」

あの言葉が頭から離れない。

まるで今生の別れのような、そんな響きを含んだ悲しい言葉。

何が彼女をそこまで追い詰めたのだろう。

四ノ宮の言葉はいつだってストレートだ。

怒りに任せて何か言ったなら、それは今の彼女には鋭過ぎたのかもしれない。

今のアイリは、パニック発作の恐怖と、これから先への光の見えない不安さから、とてもナイーブな状態だ。

取り扱い方を間違えれば、きっと壊れる。

そういう人間を、俺達悪魔はこれまでに数えきれないほど見てきたのだから。

「誰か・・・・・・早く帰ってきてくれ」

今すぐにでも彼女のもとに駆け付けたい。

そして何があったのか問い詰め、抱き締めてやりたい。

そう思っていた時だった。

「ただいま・・・・・・何、一之瀬、酷い顔してるけど」

「二条!助かった。俺は今から出掛ける。店番を頼む」

「それはいいけど・・・・・・何があったの」

「説明している暇はないっ、アイリが・・・・・・っ」

腰のエプロンを外しながら、俺はリビングへ車のキーを取りに行く。

アイリの名前を出した途端、二条の顔が険しくなった。

「彼女に何かあったんだね」

「分からない、だから不安なんだ」

「分かった、店番は任せていいよ。いってらっしゃい」

「すまない、恩に着るっ」

急ぎ家を出て、車庫から黒のRX-7を出す。

エンジンをかけている間さえ、もどかしい。

彼女が帰ってから一時間ちょっと。

既に家には着いているはずだ。

「アイリ・・・っ」

何事もなければいい。

部屋でゆっくりとお茶でも飲んで、過ごしていてくれるなら。

けれど、直感はその真逆をいくイメージしか齎さない。

車を飛ばし、時計に目をやれば午後二時。

彼女の暮らすマンションに到着した。

ゲスト用の駐車スペースに車を止め、二階にある彼女の部屋へと急いだ。

「黒崎さんっ、いらっしゃいますか?!」

ドンドンドンとドアをノックするが、中から反応は無い。

こんな雨の日だ。

好き好んで外出する人間は少ないだろう。

「一之瀬です、ここを開けて下さいっ」

だが、部屋からは何の反応もない。

「チッ、仕方ないか」

俺は指先に魔力を集めると、鍵穴にそっと触れる。

カチリ、と音がして鍵が開くと同時に、カタンとドアチェーンが外れる音がした。

「黒崎さん、入りますよ?」

そう言ってドアを勢い良く開けた。

「――――――ッ」

微かに漂う異臭。

それは紛れもなく、鉄の錆びたような血の匂い。

俺は靴も脱ぐのを忘れて、そのままリビングへと踏み込んだ。

そして見つけた。

床の上に呆然と座り込む彼女の姿を。

「――――――アイリッ」

「い、ちのせ、さ・・・・・・?」

振り返った彼女の左の首筋には幾筋もの紅い傷跡が走っている。

「馬鹿なことをっ」

近寄って背後から身体を抱き締めれば、氷のように冷たかった。

彼女の右手には包丁が握られ、その刃は血にまみれている。

そして彼女の左手首には無数の傷跡と、大量の血が流れだしていた。

躊躇い傷の多さと、流れ出る血に、俺は顔を歪める。

「死のうと、思ったんですか・・・・・・ッ」

手首だけではなく、首筋・・・・・・つまり頸動脈にまで躊躇い傷があるのだ。

本気で死のうとしていた。

そう考えるのが妥当だった。

「わた、し・・・・・・死ねませんでした・・・・・・。やっぱり、死ぬのは、こわい・・・っ」

「それでいいんです、あなたは死ななくていいんだ」

腕の中でぶるぶると震え出した彼女は、慟哭のように吠えた。

「私、まだ生きていたいっ。生きて、この病から立ち直りたいっ」

「黒崎さん・・・・・・」

ボトリと彼女の右手から包丁が床に滑り落ちる。

「いち、のせ、さん」

彼女は身体の向きを変え、血まみれの手で俺の胸元に抱き着いてきた。

俺は、そんな彼女を強く抱き締め返すことしか出来ない。

俺の胸元で声を噛み殺して泣く彼女は、誰よりも今、生きたいと願っているはずだ。

「間に合って・・・・・・本当に良かった」

出来ることなら彼女から流れ出る涙を全部掬い取ってやりたい。

そして彼女から涙を奪い去ってやりたい。

彼女には笑っていてほしい。

心からそう思う。

「黒崎さん、私の家で一緒に暮らしましょう。今の貴女に孤独は毒だ」

「・・・・・・一緒に・・・?」

「貴女を一人になんてさせません。私の家で、ゆっくりと病と心を癒しましょう」

「だめ、です」

「何故?」

「私を、甘やかしちゃダメなんです」

「黒崎さん、どうしてそんな風に思うんですか。甘えたければ甘えればいい。私のことも利用すればいい。病を克服したい。その気持ちは本物なのでしょう?」

「は、い・・・・・・」

ぐずる彼女の背中を撫でてやりながら、俺は根気強く説得する。

「四ノ宮が何を言ったかは知りません。あいつが怒ったということは何か地雷をあなたが踏んだというだけのこと。それが切っ掛けでこんな事態になったのだとしたら、私はあなたではなく、四ノ宮を責めます。セラピストが人の心を傷付けていいはずが無いのですから」

「けど・・・・・私は、誰でも良かったんです。私に手を差し伸べてくれるなら誰でも・・・・・・」

「それの何がいけないんですか?」

「え・・・・・・?」

彼女の信じられない、といった視線が俺の視線と絡まる。

俺は思わず苦笑した。

「貴女は何でも一人で背負いこもうとする。一人で頑張らなければ、と。それは立派なことかもしれない。けれど、人は本来一人では生きられないんです。たくさんの命を奪って食事する。たくさんの人の手を借りて生活する。それを禁忌だとしたら、人間は生きていけない。誰でもいい。一人が辛いなら私を利用したって構わないんですよ、黒崎さん」

「でも・・・・・・」

まだ逡巡する彼女に、俺はあと一押しする。

「ならば言い換えましょう。私と一緒に暮らして下さい。もう貴女がこんなことになるのはごめんです」

「――――――っ」

「悪いことをしたと、そう思うなら私と暮らして下さい。それが唯一の償いです」

「償い」

「そうです、償いです。ああ、まだ腕の傷の血が止まりませんね。手当てをしなくては」

彼女の左手首からはまだ血が流れ続けていた。

彼女の血が、俺の白いワイシャツに紅い染みを広げていく。

抱き締めていた身体を離し、俺は彼女に問う。

「救急セットはありますか?」

「ない、です」

「なら、清潔なフェイスタオルでもいい。どこにありますか?」

「あそこのチェストの一番上の段に」

「開けさせてもらいますね」

手早くチェストから白い無地のフェイスタオルを一枚取り出す。

それを彼女の左手首にきつく巻き付けた。

「本格的な手当ては私の家でしましょう。さあ、行きますよ」

彼女の身体を横抱きにし、リビングのテーブルの上に転がっていたこの部屋の鍵と思しきものを取り上げる。

その間、彼女は大人しく俺の首に腕を回して抱かれていた。

そのまま部屋を出て、彼女の鍵を使って玄関のドアを閉め駐車場まで降りると、俺はそのまま彼女を助手席へと滑り込ませた。

「車・・・・・・この前と違うんですね」

「ああ、ウチには三台車がありますから」

「そっか・・・・・・」

「さあ、シートベルトを締めて。行きますよ」

「はい」

黒のRX-7が、疾走する。

―――彼女の新しい生活の場へと向けて。


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