第11話 五月八日 魅惑

「こんにちは、一之瀬さん」

そう挨拶をしてきた彼女を見て、一瞬ハッとする。

四ノ宮に施されたのであろうメイクで、彼女は普段よりも美しく見えたからだ。

艶めいた瞳は大きく、唇は可憐な薔薇のように彩られている。

どうしても、視線がその唇から離せなかった。

「ええ、こんにちは・・・・・・黒崎さん」

なんとか平常心を保ち言葉を紡ぎ出す俺を、四ノ宮がニヤニヤと笑ってみている。

「アイリちゃん、一之瀬が見惚れてるわよ~」

「え?」

きょとんとした表情で、彼女は首を傾げる。

その挙動にすら、何故か目が釘付けになる。

(なんなんだ、たかがメイクだろう)

四ノ宮の腕は知っているし、メイクで女性は化けることも知っている。

たかがメイク。

だが、されどメイク、と言うことなのだろうか。

「とてもよくお似合いですよ、そのルージュ」

「あ、有難うございます。やった、四ノ宮さん、褒められちゃいました」

「ほらね~、流石婚活リップと呼ばれるだけはあるでしょう?」

「はい」

嬉しそうに微笑む彼女に席を勧める。

「どうぞこちらへ、今日はチョコレートも用意しましたよ。お好きですか?」

「えっ、チョコ?大好きですっ」

カウンターの椅子に腰かけ、身を乗り出してくる彼女は相当チョコレートが好きなのだろう。

目がキラキラと輝いていて、それは苦しみに悶えている時の彼女とは打って変わってとても生き生きとしていた。

「では、コーヒーと是非合わせて楽しんで下さい」

「わぁ、嬉しい」

ニコニコと微笑む彼女に微笑み返し、手早くコーヒーを淹れる。

コーヒーは彼女が気に入っているトラジャだ。

甘い香りが特徴的なこのコーヒーには、チョコレートのほろ苦さと甘みがマッチする。

透明なガラスの葉の形をした器にチョコレートを盛り付け、フォークを添えてコーヒーと一緒に彼女の前にサーブする。

「どうぞ、あなたのお好きなトラジャですよ」

「有難うございます」

「ほら、四ノ宮。お前の分も」

「ありがと」

ふわりと立ち上る香りをアイリは楽しんでからこくりと一口コーヒーを含む。

その顔がほっこりと緩んだ瞬間、コロンと小瓶に音がする。

「凄く、美味しい」

「それは良かった。是非チョコレートとも合わせてみて下さい」

「ええ、勿論」

帽子のような形をしたチョコレートは、その名もシャポーショコラ。

程よい甘さと蕩けるような口どけが特徴の、サティーの定番とも言われるフランス製ショコラだ。

一口、チョコレートを口に入れた彼女の顔がまた綻ぶ。

コロンコロン。

(なんて幸せそうな顔をするのだろう)

きっとパニック障害の恐怖心や心労からだろう。

彼女は少し痩せたように見える。

初めはふっくらとしていた頬が、今はシュッとしているのだから。

苦しまないはずがない。

彼女の苦しみを目の当たりにしたのだから、それは断言出来る。

なのになんて、幸せそうに微笑むのだろう。

「んん~っ、このチョコ凄く舌触りが滑らかで、ほろほろと解けていくのがとても美味しいです。それにトラジャの甘い香りととてもマッチします」

「良かった。吉祥寺まで買い付けに行った甲斐があるというものです」

「わぁ~、これ本当に美味しい~。チョコ単体でも凄く美味しいのに、こんなに薫り高いコーヒーと一緒に味わえるなんて幸せだわ」

電車に乗れない今の彼女には、ここから吉祥寺に行くことすら難しいだろう。

だから買い付けに行ったのだ。

彼女の、狭まる世界に、広がりを与えてやりたくて。

外の世界との繋がりを、与えてやりたくて。

「いつか、あなたが電車に乗れるようになったら、お店まで案内しますよ」

「本当ですか!やった、四ノ宮さん、今の聞いた?」

「聞いてる聞いてる~」

「早く治したいな、この病気・・・・・・」

少し陰のある笑みを乗せて、彼女がポツリと呟いた。

「本当に治るのかな・・・・・・」

「治しますよ」

「え?」

「私が・・・・・・いえ、私達が治します。絶対に」

四ノ宮も、頷きながら彼女の頭を撫でてやる。

「そうよ、私達はセラピスト。あんたの味方よ、アイリちゃん」

「四ノ宮さん・・・・・・一之瀬さんも、有難うございます」

そう言って彼女は深々と頭を下げる。

その瞳に光るものがあったことを見逃さなかった。

俺はベストの胸ポケットからチーフを取り出す。

それを彼女に向けてそっと差し出した。

「どうぞ」

「――――――ッ」

泣いているのがバレていないつもりだったのか、彼女はビクリと肩を揺らして、そしてそれを受けった。

四ノ宮はそんなアイリの頭を飽きもせず、撫で続けている。

「・・・・・・ぅ、どう、して」

彼女の嗚咽が聞こえる。

生きることに対する理不尽な苦しみにもがく、人間の慟哭が、静かな静かな嗚咽に込められているようだった。

泣くことは許される。

理不尽に憤ることも許される。

けれど、それから逃れることを、奴ら、天使は許さない。

神に縋るまで、奴らは彼女を苦しめ続ける。

その事実に無性に腹が立った。

と、同時に困惑する。

(何を俺は・・・・・・)

こんなに熱くなっているのだろう。

たかが人間の小娘、一人の苦しみじゃないか。

七色の金平糖・・・・・・結晶糖を生み出す最高のカモ。

彼女が苦しみ、それを癒せば俺達の目的は達成される。

天使がどれだけ彼女を苦しめようが、関係ないじゃないか。

(なのに俺は・・・・・・)

彼女を治してやりたいと思う。

共に苦しみも分かち合って、理解したいと思っている。

こんなことは初めてだった。

チーフで何度も目頭を押さえる彼女を、今すぐ出来ることなら抱き締めてやりたかった。

「あなたは一人じゃない・・・・・・私達が傍にいます」

そう、呟くのが、やっとだった。

こんな想いは、知らない。

二千年以上生きてきた、この俺が。

「落ち着くまで、ゲストルームにでも行きましょ、アイリちゃん」

四ノ宮が機転を利かせて、彼女をそっと立ち上がらせる。

「ごめ、なさ・・・・・・」

「ううん、ごめんじゃなくて、有難う、でいいのよ」

そう言って四ノ宮は目配せをしてきたので、構わない、と視線だけで会話する。

「さあ、行きましょう」

「・・・・・・は、い」

二人の背中が遠ざかる姿を、俺は胸元のループタイを握りしめながら見送ることしか出来なかった。

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