第10話 五月八日 薔薇の雨
前日に引き続き、今日も雨だ。
まだ五月に入ったばかりだというのに、もう梅雨のような蒸し暑さに辟易する。
今日こそは、会社に休職届を出さなくてはならない。
会社の上司である安達さんに連絡を入れ、事情を説明したところ、すんなりと休職の手続きが行われた。
pdfデータの休職届のフォーマットがメールで送られてきて、後はプリントアウトし署名捺印して診断書と一緒に郵送すればいいとのこと。
仕事の引継ぎも、電話でほどなく終わってしまった。
なんとなく、呆気なかった。
こんなにも簡単に休職できてしまうなんて。
私がいなくても仕事は回る、その事実が少しばかり胸を刺すけれど。
しとしとと降る雨を窓辺で眺めながら、ぼんやりとする。
何だか、気力がわかなかった。
何もしたくない。何も考えたくない。
パジャマのまま、ぼうっとしていると、眼下の道路を彩る傘の色が目に映る。
赤、黄色、紺、白。
様々な色の傘が、花開いていた。
「花、か・・・・・・」
そういえば、あのカフェの庭は素敵だった。
ちらりとしか見ていないけれど、主に薔薇が咲いていたような。
よく手入れされた庭だったな、と思い、じっくりと見ておけば良かった、とも思った。
ふと、テーブルの上のコップに目をやる。
そこには昨日、三上君から貰ったシュガーバインが生けてある。
うまく水を吸い上げているようで、今のところ枯れる様子はない。
「健やか、ね」
言われた花言葉を思い出し、口で唱える。
今の私に一番必要なことだ。
けれど、どうしたらいいのか分からない。
薬を飲んでいたって発作は起きた。
昼間は外を歩くことも怖い。
雨の日は、なんとか外には出られるものの、決して気分がいい訳ではない。
八方ふさがりだ。
あえて唯一の救いがあるとすれば、それはあのカフェの存在だ。
あの場所でだけは、何故か安心できる。
多分それは、あそこの人たちが皆、私のことを見てくれるからだ。
そしてそっと手を差し伸べてくれるから。
昨日の駅のように、誰もが汚いものには目をつむり、手を差し出そうとはしないのが普通なのに、あのカフェの店員だけは違う。
私の苦しみを癒そうとしてくれているのが分かる。
私に寄り添ってくれているのが分かる。
何故?と問いたくなるほどに。
けれど、それは聞いてはいけない気がした。
聞いたら、何かが壊れてしまう気がして。
「ああ~、もう、どうしよう」
頭を掻きむしったところで、妙案が浮かぶわけでもない。
私はひとまずポストに休職届を出しに行くことにした。
人の流れもほとんどない、雨の午前十時の商店街を横切り、私はポストへと向かった。
メイクをするのも煩わしく、マスクに帽子で顔を隠して、傘をさしている私は相当不審者かもしれない。
けれど、帽子と傘のお陰か、人目を気にすることなくポストに書類を投函することが出来た。
「これで、任務完了っと」
たかがポストまでの道。されど、私には長い道のり。
メロンパン専門店の香ばしい甘い香りが漂ってくるものの私の腹は鳴らない。
食欲もここのところなくなる一方で、あのカフェのご飯だけが私の食事になりつつあった。
今朝は何も食べていない。昨日の夜もだ。
水だけ飲んで、過ごしている。
身体にいいはずがないのは分かっている。
けれど、本当に食べる気が出ないのだ。
あんなにもカフェでは美味しく食べられるというのに。
「このまま、カフェまで行ってみようかな・・・・・・」
定休日があるかは知らない。
けれど、あの部屋に戻ったところで何をするわけでもない。
それならば動けるときに動こう。
幸い財布もスマホも持ってきている。
「うん、行こう」
私はそれから二十分歩いた。
あのカフェ・セラピスト目指して。
一之瀬邸に着いた頃には、マスクの中は汗だくだった。
「あ、暑い・・・・・・」
マスクを外し、顔の汗をぬぐう。
門扉はいつものごとく、開いていた。
私は普段はちらとしか見なかった庭を眺める。
薄桃色のものから黒に近い薔薇まで、色とりどりの薔薇がきれいに植えられている。
玄関までの途中にはアーチになった薔薇の生け垣が出来ていて、インスタ映えしそうだなぁと思った。
そして何より、雨のせいか、薔薇の香りが香しい。
五月特有の湿った空気が、薔薇の香りを際立たせているようだった。
「素敵ね」
ぴちゃぴちゃと足音を立てて、私はカフェへと歩みを進める。
「こんにちは~一之瀬さん~」
ドアノッカーを叩くとすぐにがちゃりとドアが開けられた。
「あら~アイリちゃんじゃなーい。って、ちょっと。あんた、すっぴんじゃない!」
「あははは・・・・・・・すみません、四ノ宮さん」
「笑ってる場合じゃないわよ!メイクしてないなんて、おブスよおブス!!さっさと上がりなさいっ」
「はい・・・・・・・・・」
四ノ宮さんに誘われて、私は傘を玄関に押させてもらうと、そのまま四ノ宮さんの私室に通された。
「はい、ここ座って」
大きめの化粧台の前の椅子を指され、私は帽子を脱いでおずおずと座る。
「ちょっと、髪までボサボサってどういうことよ!!あなた女の子でしょう!?」
「すみません・・・・・・・ポストまで行くつもりがここまで来てしまったもので」
「キィィィィィ、おブスの言い訳なんかどうでもいいわ!!私のお人形になりなさいっ」
「は、はい。お願いします」
彼女にメイクをしてもらうのはこれが二回目だ。
以前も言われた「私のお人形になりなさい」の一言。
これは文字通り、顔面をお人形のようにされる。
自分の手抜きメイクとは雲泥の差の出来栄えのフルメイクで。
化粧水を染み込ませたコットンで軽く顔面を拭かれると、そこから土台作りが始まる。
そう、なんというか、顔面に絵画を施していくような感じなのだ。
下地でカラーベースを整え、小鼻の毛穴落ちをパテで埋められ、リキッドファンデーションをシリコンパフで塗りたくられる。なのにケバくならないのが不思議。
「今時の流行りはツヤ感のある肌だから、パウダリーよりリキッドよ。覚えなさい」
「はい」
ふと、パッケージのブランド名を見て思う。
高い化粧品なのだろう。
いい香りがして、自分の化粧品とは違うなぁと感じてしまう。
ブランドには詳しくない自分には分からないけれど、きっと高いやつだ。
「こらっ、表情変えないっ」
「はいっ」
メイク中の彼女は美の鬼だ。
少しでも逆らえば、何を言われるか分からない。
表情を引き締めた私の眉を描きながら、四ノ宮さんは言う。
「あんたはねぇ、肌がまだ綺麗だからそんなすっぴんで外出歩くんでしょうけど、もう少ししたらおばさんだってこと自覚しなさいっ」
「ひっ」
おばさんというパワーワードにビクつく私。
「そ、そうですよね・・・・・・・・・・お、おばさんか・・・・・・」
「そうよっ、華の命は短いの!なのにUVケアすらしないで外に出るとかおブス街道まっしぐらよっ」
「すみません・・・・・・・・・」
「ほら、マスカラ塗るから下見て」
「はい」
言われるがまま、上まつ毛にマスカラを塗られ、「はい、次、上見て」と言われ下まつ毛にもマスカラを施される。
本当に手際が良い。
「今日は雨で暗いから、ゴールドのアイシャドウにしましょ」
そう言って今度は目を瞑れと言われ、言うとおりにする。
瞼の上をチップが滑る感触がする。
「アイライナーはしないんですか?」
「そうね、あんたの場合まつ毛が多いから、アイライン無しでもマスカラさえしてればくっきりとした目になるのよ。逆にアイライン入れるとケバくなるわね」
「なるほど」
「さ、目を開いて。次はチークとシャドウね」
そう言って顔面に絵画を描き始める彼女は、本当にアーティストだ。
それまでののっぺりとした表情が、チークとシャドウでシュッと引き締まる。
この劇的な変化が、自分の顔面で行われていると思うと感慨深い。
「うーん、リップはそうねぇ・・・・・・イブサンローランのリップにしましょ!ねぇ、あんた、これがメイク雑誌でなんて言われてるか知ってる~?」
うきうきとした表情でそんなこと聞かれても困る。なにせ、自分はそういう雑誌を読んだことがない。
「いえ、知らないです・・・・・・」
「これはね~恋が実る、婚活リップって言われてるのよ~~~」
語尾にハートが沢山ついてそうな声で、四ノ宮さんは腰をくねらせた。
「婚活リップ」
「ねえねえ、あんたにも好きな人の一人や二人、いるんじゃないの?ねぇ?」
「好きな人・・・・・・・・・」
ふと、一之瀬さんが頭をよぎった。
いやいやいや、無い。無いわ。
あの顔面偏差値高過ぎる人物に恋とかあり得ないし。
あれは、自分とは違う人類だと思おう。
「―――いないですね」
「嘘おっしゃいっ、今ちょっと考えてたでしょ」
「いやー、無いなぁって」
「何が無いのよ~」
「イイヒトイナイナーって」
「あんた声が棒読みよ」
くすくすと二人笑いあって、〆のリップが唇に乗せられる。
可愛らしい、コーラルピンクの口紅だ。
髪をささっと梳かされ、ポニーテールにされる。
「さ、完成。んー、いい出来栄えだわ~」
「有難うございます、四ノ宮さん」
「いいのよ、女の子は可愛ければ何でも許す!」
鏡に映る自分は、ここに来る前とは打って変わって、生き生きとして血色の良い顔になっていた。
「メイクって凄いですね」
「でしょ?メイクは女の心をときめかす魔法よ」
「魔法、かぁ」
確かにこんなに劇的な変化をもたらすのだから、魔法と言っても過言ではないかも。
何より、気持ちがとても明るくなる。
「さあ、一階に降りてカフェでお茶でもしましょ」
「はい」
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