第9話 五月七日 休職



雨の音が聞こえる。

目を覚ました私は、その雨音に憂鬱になる。

「雨、かぁ」

サッと引いたカーテンの間からはどんよりとした空の色。

今日はゴールデンウィークも明けて、出勤日だ。

何が何でも、外出しなければならない。

それも憂鬱の種だった。

「早く支度しなきゃ・・・・・・」

取り合えず洗面所で顔を洗い、キッチンでお湯を沸かす。

朝ご飯を作る余裕はないから、グラノーラにミルクをかけて胃に流し込む。

途中、お湯が沸いて、私はいつものインスタントコーヒーを淹れて飲む。

そしてそのまま換気扇の下で、一服。

煙草は社会に出てから覚えた、良くない習慣だ。

良くない、と言っても良い点もある。

未だに自動車業界は職人気質の人間が多くいる。

そういう出来る人間ほど、煙草を吸うのだ。

喫煙所で聞ける会話は、そこだからこそ聞ける内容も多く、人間関係の裏や他部署の噂話なども手に入る。

ただ真面目に仕事しているだけでは手に入らない情報の宝庫なのだ、喫煙所というのは。

「三十過ぎたらやめようかなぁ」

そう呟きつつも、きっと止められないだろうなとぼんやりと思う。

煙草の火を消し、パジャマから通勤服に着替える。

ひざ下丈の黒のプリーツスカートに薄ピンクのブラウス。ストッキングは通勤電車ですぐ伝線してしまうので、20デニールの薄いタイツを履いた。

化粧台の前に座り、下地から入念に顔を作りこんでいく。

マキアージュの化粧下地が私のお気に入りだ。とにかくテカらない。

エスプリークのパウダーファンデを軽く滑らせたら、ケイトのアイブロウで眉を整える。

軽くチークを乗せて、アイラインを引き、アイシャドウを瞼に置く。

出勤用のお手軽メイクの完成だ。

「よし、行くわよ・・・・・・」

春物のジャケットを羽織り、出勤用の鞄を手に持ち、玄関へと向かう。

最難関はここなのだから。

レインブーツを履き、気合を入れてドアを開けた。

「傘、持って行かなくちゃ」

傘立てから一本、お気に入りの傘を取り出し、私はドアの外へと足を踏み出す。

緊張で心拍数は上がっているものの、恐怖心はあまりなかった。

それを不思議に思いつつも、外に出られた達成感に安堵する。

「行こう」

駅まで続く商店街の道を私は速足で過ぎる。

通勤ラッシュの時間帯だ。同じように急ぐ人の多いこと。

PASMOを改札でタッチし、駅構内へと入ると、ホームは人の山だった。

「えー、ただいま和光市駅で起きた人身事故の影響で、大変ダイヤが乱れております。お客様に置かれましてはご迷惑をお掛けし申し訳ありません。なお、現在復旧のめどは立っておりません」

構内放送が、絶えず路線の不通を伝えている。

そう、東武東上線はよく人身事故で路線が止まる。

それだけ病んでいる住人が多い路線だとでもいうかのように。

「これは・・・・・・無理だなぁ」

隣に立っているおじさんが、そう言ってスマホでどこかへと電話をかけている。

私もそれに倣い、職場への連絡を入れようとした。

その時だ。急に不安感が胸に湧き上がってきたのは。

こんなに人のいる場所で発作が起きたら、どうしよう。

怖くなった私は人混みをかき分け、改札へと向かう。

早くここから遠ざからなければ。

息が上がる。五月特有の生温かな空気に汗も込み上げてきた。

「はやく、ここから、出なきゃ・・・・・・っ」

口の中にすっぱいものが込み上げてくる。

改札を出てすぐの排水溝の上で、私は吐いた。

周りの人が迷惑そうにそれを見ているのが分かるが、嘔吐は止まらなかった。

そう、誰も彼も私を見ていても、手を差し伸べてはくれない。

ようやく止まった嘔吐、口の中が気持ち悪くて近くの自販機で水を買って口の中をゆすいだ。

「病院、行こう・・・・・・」

こんな状態で出勤なんて出来ない。電車も止まっていることだし、昼間に外に出られるのはこれが最後かもしれない。そんな気持ちで私は職場へと休みの連絡を入れると、そのまま以前救急搬送された総合病院へと足を向けたのだった。




「君、休職した方がいいよ」

病院で言われたのは、ある程度予想はしていたことだった。

「パニック障害になると予期不安というのがあってね。いつ発作が起きるか、という不安感が付きまとうことになるんだ。それに君は広場恐怖も患っている。それだときっと電車にも乗れないよ。いいから暫くは仕事、休みなさい」

「休職、ですか」

「診断書を書いてあげるから。よく今日はここまで来れたね。偉いよ」

「先生・・・・・・」

私が休んだら、職場に迷惑が掛かってしまう。

仕事の引継ぎさえ出来ずに休んでしまったら、納期に間に合わないどころではない。

それを告げると医師は首を横に振った。

「仕事の引継ぎならば電話でも出来る。今の君に必要なのは、発作を起こさせない、ということだ。発作の恐怖が拭い去れない限り予期不安も、広場恐怖も、君について回る。つまりは回復が遅れることになるんだよ」

ぐぅの音も出ない医師からの指摘に、私は押し黙る。

「わかり、ました」

「薬を一か月分出すから、それ飲んで。あとはゆっくり休むんだよ」

そう言われて待合室へと返された。

会計を済ませ、診断書を受け取り、調剤薬局へと行き薬を貰う。

雨はまだやまない。

腕時計を見れば、十一時を過ぎようとしているところだった。

私はそのまま家に帰る気になれなくて、かと言って職場に休職の連絡を入れるのも気が進まず、途方に暮れた。

その時だ。

「にゃおん」

「―――っ、ケルベロス?」

調剤薬局の向かいのパン屋の軒先に、あの蝶ネクタイの黒猫がちょこんとお座りしてこちらを見ていた。

私は思わず駆け寄る。

「雨宿りしているの?」

「にゃー」

言葉が分かっているかのように返事をするケルベロス。

そうだ、あそこに行こう。

「ねえ、ケルベロス。カフェ・セラピストに一緒に行こうか」

「にゃーん」

そうして私はケルベロスを左腕に抱きかかえて、右手には傘を差し、あの商売っ気のないカフェへの道を進み始めた。

道行く人の流れに逆らうように。




「こんにちは~」

今日も一之瀬邸の門扉は開いていて、私とケルベロスは玄関のところまでやってこれた。

ケルベロスを下ろしてやれば、猫用のドアからさっさと中に入ってしまう。

ジャケットをよく見れば、黒い毛がたくさんついていた。換毛期なのだろうか?猫を飼ったことがない私には分からない。

「あの~一之瀬さん、いらっしゃいませんか?」

玄関の重厚なドアについているドアノッカーを叩きつつ、私は中へと声をかける。

すると暫くしてドアが開かれた。

出てきたのは二条さんだ。

「ああ、黒崎さんだね。今日は昼間なのに来れたんだね」

にこりと笑うと、彼は手招きしてドアを開いてくれた。

「いらっしゃいませ、カフェ・セラピストへようこそ」

今日の彼は、ホールボーイのように白いワイシャツに黒のスラックス、ギャルソン風エプロンを付けて黒の革靴を履いている。髪は前回と同じく後ろで緩く括っていた。

案内されるまま、玄関入って左手の部屋へと歩みを進める。

傘は、玄関に置かせて貰った。

「こんにちは、黒崎さん」

「こんにちは、一之瀬さん」

彼はカウンターの奥でコーヒーを淹れているところだったようだ。手が離せなくて、二条さんが迎えてくれたのだろう。

「またウチのケルベロスがお世話になったようですね」

「雨宿りしているところを、私が勝手に連れてきちゃっただけですよ」

何の曲かは分からないけれど、今日のレコードはジャズのようだった。

「アイリちゃん、ケルベロスに懐かれてるよね~」

「そうなのかな?」

三上さんがニコニコしながら傍に寄ってきて、私の鞄を受け取って席へと案内してくれる。

服装は二条さんと同じ、ギャルソン風。

「今日はソファ席にどうぞ~。あ、荷物はこの籐かごの中に入れておくね」

「有難う、三上君」

お礼を言っていたら、カフェの入り口に五十嵐さんの姿が。

「あー、そろそろランチの時間だよな。って、あんたか。飯、食うだろ?」

肘の辺りまでワイシャツの袖をまくり上げた姿の五十嵐さんもギャルソン風の服装で、どうやらそれがこの店の制服なのだと、ようやく私は気付いた。

「何か胃に優しそうなものが食べたいです・・・・・・・今朝、駅で吐いてしまって」

「んじゃ、粥にでもするか」

そう言ってカウンターの奥の奥、おそらくキッチンへと入っていく五十嵐さん。

カフェでお粥というのも、中々無いメニューだが、きっと特別メニューなのだろう。その優しさに、私は嬉しくなる。

そこで私はふと、一人足りないことに気が付いた。

「あれ・・・・・・四ノ宮さんは?」

「ああ、四ノ宮ですか。彼女は今日新しい化粧品が発売になるとかで、池袋まで出かけていますよ。ちょっと帰りが遅いのが気になりますけどね」

「あ、多分路線が遅延してるんだと思います。今朝、人身事故で電車止まってましたから」

「おや、そうでしたか」

二条さんがカウンターでコーヒーを受け取って、私の元へと運んできてくれる。

「はい、コーヒー。嫌いじゃないよね?」

「うん、好きよ。いつもはインスタントだけどね」

「一之瀬のコーヒーは美味しいから」

飲んでみて、と言われて、私は綺麗で繊細なデザインのカップをそっと持ち上げた。

(うーん、こういうのやっぱ高価なんだろうなぁ)

「ちなみに銘柄は?」

「トラジャ、という豆ですよ」

そう言われ一口飲んでみて、私はびっくりした。

まず、深いコーヒーの香りがふわりと立ち上がる。

一口口に含むと、深い味わいに甘い香り。

まろやかな苦味と微かな酸味。

後味は鼻孔の奥にすっと溶け込む優しい甘さ。

ミルクを入れてみると苦味が少し押さえられるものの、その存在感は消えない。

甘味が増したトラジャは、カフェオレにも向いているのかも知れない。

「―――おいしいっ」

「それは良かった」

「一之瀬の淹れるお茶は美味しいんだ、コーヒー以外もね」

「そうそう、一之瀬は薬茶も淹れられるんだよ~」

何せ、これでも医師免許持ってるしね!なんて三上君が一之瀬さんを指して言うものだから、私は余計に驚いてしまう。

「一体何者なんですか、一之瀬さんって」

「あくまでカフェ・セラピストのオーナーですよ」

ふふっと笑いながらそう謙遜する彼は、まだまだ色々と特技がありそうだなと思った。

そして医師の資格があると聞いて、私は思わず呟いてしまう。

「今日病院で、休職するように言われました・・・・・・」

「やはり、そうでしたか」

落ち着いた声でそう呟く一之瀬さん。

二条さんは少し目を細めただけで、三上君は何とも言えないような表情をする。

「アイリちゃん、ツライ?」

「え?」

「お仕事、休むこと」

「・・・・・・・・・考えたことなかったわ」

仕事を休むことは悪いこと。

そういう考えしか持ち合わせていなかったからだ。

「企業は社員の健康も保証しなければなりません。休職は、何も悪いことではなく社員の正当な権利としてあるんですよ」

「正当な、権利」

「君って、ワーカーホリックって言われてたんじゃない?」

二条さんはそう言いながら私の隣に立つと、「ジャケット貸して。猫の毛取るから」という。

言われるがまま、私はジャケットを脱いで手渡した。

すると二条さんはジャケット持ってカフェの外へと出て行ってしまった。

コーヒーを一口飲んで、私は言った。

「仕事を休むことには、罪悪感しかありません」

「真面目なんだねぇ」

三上君はそう言って頷くと、カフェの一角にある鉢物の中から一つの蔓性の植物を花ばさみでちょきんと切ると、私の元へとやってきた。

「アイリちゃん、この植物なんて言うか知ってる?」

五枚葉が愛らしい、蔓性の植物。

私は正直に、知らないと答えた。

「これはね、シュガーバインって言うんだ。花言葉は、健やか。アイリちゃんが元気になれるようにおまじないだよ」

そう言って私の左手首を持つと、シュガーバインをブレスレットにしてくれた。

「ありがとう・・・・・・」

「お家に帰ったら切り口を水につけてみて。発根すれば水耕栽培できるからさっ」

「うん、分かったわ」

朝の駅でのことがあって、余計にこの優しさが心に沁みる。

誰にも手を差し伸べてもらえない苦しさが、ここ、カフェ・セラピストでは癒される。

皆が、私という一個人に向き合ってくれている。

それがどれだけ嬉しいことか。

優しく左手首のブレスレットに触れていると、五十嵐さんの「おぉい、出来たぞ」という声が奥からした。

「あ、オレが運ぶね~」

三上君がキッチンへと飛んでいくのを眺めていたら、ふと視線を感じた。

感じた方を見れば一之瀬さんが私のことをじっと見ていた。

「あ、の、何か?」

「いえ、すみません」

そう言って笑う一之瀬さん。

何だったのだろう?

そう思っているうちにお粥が運ばれてきてしまい、その時の違和感は消し飛んでしまった。

「わー、おいしそう」

「えーっと、五十嵐特製の中華風粥と、杏仁豆腐のデザートだよ」

「杏仁豆腐、大好き!」

「良かった~アイリちゃんやっと笑顔になった」

「えっ?」

私、今までどんな表情をしていたの?

―――分からない。

そう戸惑う私を余所に、五十嵐さんの「お前らも食うだろ!」という声がカフェに響く。

「お客様の前で食べるわけにはいかないだろう、五十嵐」

「あ、私なら気にしませんから。寧ろ皆さんと一緒に食べられる方が嬉しいです」

「しかし」

渋る一之瀬さんに、私は一言添える。

「お願いです、我が儘を聞いてもらえませんか?」

「・・・・・・・・・分かりました、一緒に頂きましょうか」

「ありがとうございます」

「ならば私は中国茶でも淹れましょう」

そう言ってカウンターの下にしゃがみこんだ一之瀬さんは、中国茶器を取り出した。

「ジャケット、綺麗にしてきたよ。って、皆ここで食べるつもり?」

「だってアイリちゃんがいいって言ってくれたもんね~」

「ふうん・・・・・・、黒崎さん、ジャケットここに掛けておくから」

二条さんが私のジャケットを、入り口脇のハンガーに掛けてくれた。

「ありがとうございます」

料理の盆を手にした三上君が「オレ、アイリちゃんの隣~」と言ってソファの隣に腰掛ける。

「じゃあ僕達はカウンターだね」

二条さんはそう言ってカウンター席に腰掛ける。

その間も一之瀬さんは、茶器にお湯をかけたりしながら中国茶を淹れてくれている。

全員が席に着いて、いただきます、と言って食べ始めるころには、私のお腹は限界に減っていた。

けれどそれは、決して不快なものではなかったのだった。




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