第5話 五月五日 忍び音
―――おとうさん、おかあさん。
いかないで。
おいていかないで。
わたしをひとりにしないで。
「――――っ」
目が覚めた私は、ガバッと勢いよく掛け布団を剥いだ。
「はぁ、はぁ」
嫌な夢だ。
ここのところ見ることもなかったのに。
頬を涙が伝っていることに気が付いて、慌てて袖口で拭う。
「お父さん、お母さん・・・・・・」
そう呟いたところで、私はここが何処だか分らないことに気が付いた。
「ここ、どこ・・・・・・」
周りを見渡せば、とても品のいい家具に囲まれた洋間の一室だった。
私が寝ている寝具も上等なものなのだろう。
天蓋付きのベッドのスプリングの程良さに感嘆・・・・・・している場合じゃない。
自分が着ているものは昨日の夜外出した時のままだ。
と言うことは、ここは・・・・・・。
―――コンコンコン。
「ギャッ」
突然のノックの音に、私は乙女らしからぬ声を上げてしまう。
「あの、今悲鳴が聞こえたんですが」
そろりと開けられたドアから、彼が顔を覗かせている。
そう、彼。
カフェ・セラピストのオーナーの一之瀬さんだ。
朝日を浴びた彼の姿は、昨日の夜の雰囲気とは違ってとても健康そうな美しさだった。
「黒崎さん、まだ寝ぼけてます?」
「いえ、ご尊顔を拝し奉れる幸運を感謝していたところです」
「?」
「気にしないで下さい。ジョークです。それよりも私、昨日あのまま眠ってしまったようで・・・・・・ご迷惑をお掛けしてしまってすみません。こんな素敵なお部屋を使わせて頂いてしまって。部屋にも運んで頂いたみたいで・・・・・・」
「気にしないで下さい。それと、朝食出来てますから、一階のリビングにどうぞ。他の四人も今朝は帰ってきましたから」
他の四人、という言葉に私の耳はビクッと動いた。気がする。
そう、このカフェ・セラピストには一之瀬さんを含めた五人が働いていると、昨日の夜聞いたばかりだからだ。
時を遡ること四時間前。
一之瀬さんに半ば強引に誘われて入ったカフェ・セラピスト。
玄関から入って左手すぐの部屋が目的の場所だった。
「ここがカフェ・・・・・・ですか?」
「ええ、そうですよ」
そうは言うが、私にはカフェというよりも喫茶店、というイメージが強く感じられた。
年代物であろうオーディオとレコード、こちらもビンテージであろう革張りのソファと美しく磨かれたマホガニーのテーブル。
カウンター席もあって椅子は五脚。
カウンターの後ろには大きな棚があって、色とりどりのカップとソーサー、いくつもの瓶詰めにされたコーヒー豆、そして何故か洋酒が沢山並んでいる。
「あの、ここ、バーも兼ねているんですか?」
「いえ、バーはやっていませんけれど。ああ、あの洋酒ですか。あれは四ノ宮の私物です」
「四ノ宮さん?」
「ええ、ここの店員の一人です。今日は出掛けていて今はいませんが」
そう言って彼は、私にカウンター席に座るように促した。
「今日はあいにくと私以外は出払っていましてね。お客様が来られないものだから、飽きたとか言って出掛けて行ってしまったんですよ」
クスクスと笑いながら、彼の手はミルクパンを取り出して、ホットミルクを作ろうとしているところだった。
「シナモン、お好きですか?」
「ええ、好きです」
「では、シナモンミルクラテにしましょうか」
数あるカップとソーサーの間から彼はマグカップを取り出すと、そこに温めたミルクを注ぎ、更にスチーマーで泡立てたフォームドミルクをかぶせて、その上に何やら型を使ってシナモンパウダーを振り掛けていた。
「どうぞ」
マグカップがカウンターの目の前に置かれる。
シナモンの爽やかな香りと、ミルクの香りが鼻腔をくすぐる。
そしてよく見れば、ミルクの泡の上にはシナモンパウダーで描かれた猫の姿が。
「かわいい・・・・・・」
そう呟いた時だった。
―――コロン。
まるで瓶の中に何かを落としたかのような音だった。
「?」
彼は気付かなかったのだろうか。
ニコニコとこちらを見て笑っている。
(ま、いっか)
冷めないうちに飲んで、早くお暇しなければ。
こんな非常識な時間に訪れて、ホットミルクを飲ませてくれるような紳士に迷惑をかけちゃいけない。
「ここの店は私を含めて五人の店員で切り盛りしているんですよ」
「へぇ・・・・・・」
(絶対、赤字だ)
そんなことを思いつつ、喉を通り越していく暖かな美味しさに私は目を細める。
―――コロン、コロン。
何の音だろう。猫が何かで遊んでいるのだろうか。
何だろう、とても眠い。
「おや、どうしました?」
「いえ、何だか・・・・・・眠くて・・・・・・」
「そうですか」
駄目だ、本当に眠い。
「きっと、お疲れだったんですよ、黒崎アイリさん」
(―――え?)
私、名前名乗ったっけ?
ううん、分からない。
どうしよう、意識が・・・・・・・・・。
「おやすみなさい、私達の最高のお客様・・・・・・」
寝息を立てた私を、誰かが運んでいくのが感じられる。
そこまでが限界だった。
―――時を戻そう。
一階のリビングへと行くと、そこには四人の男性陣が座って食事を始めていた。
「お、君がアイリちゃんかー。おはよ!」
赤毛のツンツンヘアーの彼は、スポーティな格好で溌溂とした笑顔を向けてくる。
「あ、おはようございます・・・・・・」
私は寝癖のついた髪のままなのを思い出して、慌ててささっと後ろで髪を結んだ。
「ふーん、お前さんがねぇ」
こちらは濃紺の髪をサイドで刈り上げたワイルドな男性。筋肉がしっかりしてて、日焼けした肌がまた男らしい。
「あら、すっぴんじゃない。後で私がメイクしてあげる~」
そう言う彼?は金髪のウェーブが美しい髪で、顔はきれいにメイクされていて女性そのものだ。ただ、声が男性のもので、いわゆるオネエなのが分かった。
「・・・・・・・・・早く座ったら?冷めるよ」
朝の光を浴びてキラキラと輝くプラチナの髪を後ろで一つにくくった青年は、ニコリと笑ってそう言った。
うーん、種類は違えど全員イケメンだ。
こんなに店員の質がいいのに、オーナーが儲け主義じゃないところがまた少し残念な。
「貴女の席はここです。さあ、どうぞ」
一之瀬さんが椅子を引いてくれたので、私はお言葉に甘えた。
「ありがとうございます」
「好き嫌いなく、食べて下さいね」
「大丈夫です、好き嫌いありませんから」
(今日のご飯は和食か~久しぶりだな)
「いただきます」
まずは熱々のお味噌汁から。
ナメコと豆腐に刻んだ大葉が入っているお味噌汁が、空っぽの胃に染み渡る。
「美味しい・・・・・・」
「おう、俺が作ったんだ。うめぇはずだ」
そう答えたのは濃紺の髪の男らしい彼だった。
「五十嵐だ」
「五十嵐さん、これ凄く美味しいです!」
「そうか」
それだけ言うと彼はまたご飯を掻き込み始めた。
ご飯は卵かけご飯のようで、私の盆にも小皿と卵が用意されている。
ばかりと卵を割れば、プリンとした黄身が濃厚な色をしていた。
醤油を垂らしてご飯にかけ、一口頬張る。
(んーー、黄身の濃厚な味がたまらない)
「卵かけご飯ってほんと飽きないわよね~私は四ノ宮よ」
オネエさんは焼き鮭を頬張りながらそう自己紹介した。
そうか、お酒はこの人の私物か。
「オレはねー、三上っていうの。よろしくねっ」
赤髪の彼は二杯目のご飯をよそりながらそう言った。
「二条だよ」
プラチナの髪の彼は口数少なく、梅干しときゅうりの和え物を食べながら自己紹介した。
(ん、まって?一之瀬さんから始まって五十嵐さんまで皆苗字に数字がついているのね)
香の物をポリポリと齧りながら、私は全員の顔と名前を一致させようとしていた。
「何から何まで有難うございました」
食事を終えて、四ノ宮さんにメイクをしてもらった私は、いざ帰ろうと玄関までやってきたのだった。
「いいんですよ、黒崎さん。ケルベロスに付き合って頂いたお礼です」
「そういえばケルベロス、今はいないんですね」
「あいつなら散歩に行ったぜ」
何故かムスッとした表情で五十嵐さんが呟く。
「そうですか・・・・・・」
ちょっと残念だけれど、それが猫ってものよね。
そう思いなおした。
「本当に有難うございました」
お辞儀をして、帰ろうとドアを開けた。
その時だった。
―――ドクン。
「―――――――っ!!」
きた。
ヤツがきた。
「あ、あ、・・・・・・っ」
パニック発作だ。
「黒崎さんっ?」
その場に崩れ落ちそうになる私を、一之瀬さんが咄嗟に抱き留めてくれる。
「大丈夫ですか?黒崎さん?」
「パニッ、ク、発作・・・・・・ッ」
「もしかしてパニック障害なんですか?」
声にならなくて、私は一之瀬さんの手を強く握りしめることで肯定した。
「分かりました、とにかく横になれるところへ」
脇の下と膝裏に手を添えられると、私の身体は宙に浮いた。
(苦しい苦しい怖いっ)
怖くて、苦しくて、死にそうだ。
「大丈夫ですよ、黒崎さん。私は医師免許を持ってますからね」
一之瀬さんの声が聞こえるけれど、ノイズが入ったように頭の中で反響してしまってうまく聞き取れない。
「三上、彼女の部屋のドアを開けてくれ」
「らじゃっ」
「五十嵐は何か冷たい飲み物を用意しておいてくれ」
「分かった」
ドタドタと走る足音がする。
怖いよ、お父さん。
苦しいよ、お母さん。
「どぅ、し、て」
「黒崎さん?」
―――どうして、傍にいてくれないの。
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