第4話 五月四日 絆

あの手紙を受け取ったその晩、私は深夜の散歩に挑戦した。

他人に醜態をさらす恐怖、それも足枷になっているのだとしたら、誰もいない深夜ならば外に出られるのではないかと考えたからだ。

竦む足を進め、ドアを開ける。

そう、開けられた。

そろりと周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると私はそのまま外に出た。

左手に区の指定ゴミ袋を抱えて。

私の最初の散歩は、ゴミ捨て場までゴミを出しに行くことから始まったのだ。




あれから三日間、私の深夜の散歩は続いた。

二日目には、徒歩二分のコンビニまで行った。

三日目には徒歩十分の駅まで行った。

そして今日は四日目。

私はカフェ・セラピストの下見に行くことにした。

手紙には住所は無く、簡易なマップが描かれているだけだったからだ。

明日が本番。昼間のカフェに行こうというのだから、下見位しておきたかった。

表通りの商店街には人っ子一人いなくて、まるで街全体から人が消えてしまったかのように静まり返っている。

それはそうだ。

今は深夜三時なのだから。

飲み屋の明かりも消え、光あるのは道の街路灯だけ。

五月特有の少しぬるい風がうなじをそっと撫でていく。

誰もいないことをこんなにも安心したことがかつてあっただろうか。

満員電車に乗り、満員のバスに乗り、数千人が働いている研究所の中で働く日々。

誰もいないのは、家の中だけ。

それを寂しいと感じたことはあっても、安心したことなどなかった。

誰かに傍にいてほしいと願ったことはあっても、一人になりたいとは思ったことはなかった。

それが今は、一人でいたいと願う心がある。

「私、変わったな」

商店街を抜けると、住宅街が広がり、街路灯の数は途端に減った。

薄暗い道をスマホに撮った手紙の地図を頼りに進んでいく。

「多分ここら辺、だよね」

駅とは反対方向の住宅街を抜けた先の、こんなところにカフェが本当にあるのだろうか。

マンションから徒歩二十分は経っている。

こんなところで営業して、本当に儲ける気があるのだろうか。

そんなことを考えている時だった。

「にゃぁお」

薄暗い闇の中から猫の鳴き声がした。

チリチリと鈴の音を鳴らして私の前までやってきたその猫は、よく見れば蝶ネクタイをしている。

「あ、もしかしてこの前の猫?」

「なぁん」

そう、とでもいうように一声鳴いた黒猫は、ぺろぺろと手足をなめている。

思わずしゃがみ込み手を伸ばせば、猫はぺろぺろと私の指をなめた。

そしてすくっと立ち上がるとスタスタと歩き出し、振り向きざまにさも付いて来いというようにまた一声鳴いた。

「どこへ連れてくつもりかしら」

そう言いながらも私はどこかワクワクしていた。

そっと猫の後ろをついていくことにした私は、スマホをカーディガンのポケットにしまう。

チリチリという鈴の音とカツカツという私の靴の音以外に音はない。

道の途中で角を曲がった猫についていくと、突然目の前に大きな建築物の影が見えた。

(すごい。これ、本格的な洋館だわ)

門扉は開いているものの、その奥には綺麗に手入れされた庭園と瀟洒な洋館が佇んでいる。

これはいわゆる金持ちの個人宅だろう。

門扉を締め忘れたのか、その不用心さはアンバランスな気がしたけれど、これは絶対に富豪の家だ。

なのに猫はそのまま門扉をくぐり、中へと入っていってしまう。

「あー・・・・・・、ここの家の飼い猫だったのかぁ」

そう呟いて、納得してしまう。

猫の容姿は端麗だったし、きっと血統書付きの猫なのだろうとは思っていたからだ。

門柱をよく見れば、一之瀬、と書かれた表札が埋め込まれている。

「いちのせさん、か」

こんな時間なのに家の中には明かりが灯ってて、猫はそのままドアについている猫用の扉を開けて入っていってしまう。

「おや、おかえり、ケルベロス」

深夜だからなのか、その声は凛として私の耳に届いた。

成人した、男性の声だ。

(ケルベロスって、あの猫のこと?)

随分と御大層な名前を付けたものだと思った。

確か魔界の門番の名前じゃなかったか。

そんなことを考えていたら突然、その家の玄関のドアが開いた。

(―――えっ、やばい。どうしよう)

こんな時間に家の前に人がいるなんて絶対に不審者扱いされてしまう。

早くここから立ち去らなければ、そう思うのに何故か身体が言うことを聞かない。

カツカツと革靴の音をさせてやってきたその館の家主らしき人物は、随分と背が高かった。

少なくとも私が見上げなければいけないほどには。

「ケルベロスのお客人ですか?」

「え・・・・・・は?」

男性はよく見ると、とてつもなく整った顔をしていた。

暗闇の中でもわかる、月明かりに映える面立ち。

切れ長の目にスッと通った鼻梁。

唇は薄く、キュッと口角が上がっていて微笑んでいるようだった。

腰のあたりまである漆黒の黒髪はさらりと流されていて、ゆるゆると風が吹くたびにその毛先が揺れた。

一言で言おう。

美形だ。

それも見たことがないくらいの。

イケメンというのとも違う。

美しい、という形容詞がぴったりなのだ。

あまりの美しさに声を失っている私の耳に、再度バリトンの声が届く。

「ケルベロス・・・・・・ウチの猫の散歩に付き合ってくれたのでは?」

「え、えぇ、まぁ・・・・・・」

正直、カフェ探してましたなんて言える雰囲気ではなく、流されるままにそう答える。

すると男性はニコリと笑いそのまま私の左手をとると、こちらへと誘った。

「え、ちょっ」

「五月とはいえ寒いでしょう。ホットミルクでもいかがですか」

「いえ、その、私」

「実は私、カフェを営んでおりまして。今日もお客様が一人もいらっしゃらなくて寂しかったところなんですよ」

「―――は?」

「ここは自宅兼カフェなのです」

(まさか。いや、まさか)

「まさか、カフェ・セラピスト?」

すると男性はおや、と軽く驚いたようだった。

「ウチをご存じで?」

探してました、とは言えない。

かと言って、押し黙るわけにもいかなくて、

「えーっと・・・・・・あの地図じゃ、お客さん来ないと思います」

そんなすっとぼけた回答をしてしまった。

けれどそれは事実だろう。

あの地図を頼りにここまで来ても、洋館がドーンと建っているだけで、カフェらしきものなど見当たらないのだから。

猫が繋いだ縁がなければ、私だって辿り着けなかっただろう。

「そうですか・・・・・・地図がいけませんか」

少ししゅんとしてしまった男性に、慌ててこう付け足す。

「こんなお屋敷がカフェなんて、思う人いませんから!」

そうだ、全部この洋館の佇まいが悪い。

ましてや看板もないんじゃ、分かるわけがない。

どこか抜けているのか、そもそも儲ける気がないのか(後者な気がする)、男性はそういうものですかねぇ、なんて言っている。

「あ、あと私今財布持ってないんで、帰りますっ」

未だに握られたままの左手が汗をかいてるのが分かる。

手汗を気持ち悪がられる前にさっさと退散しなくては。

そう思って手を引き抜こうとするが、うまくいかない。

思いのほか力が強いんだ、この人。

「お金なんていりませんよ、今夜の貴女はケルベロスのお客人ですから」

そういって彼は、私をそのまま屋敷へと誘ったのだった。

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